清水ゼミ第五回課題「ラズミーヒンについて」

清水正の林芙美子『浮雲』論連載    清水正研究室   清水正の著作  エデンの南
清水正ドストエフスキーゼミ「文芸研究Ⅰ」では週に一回のペースでレポートを書いてもらい、メールで送ってもらっています。今回は第五回課題「ラズミーヒンについて」を掲載します。

 ラズミーヒンについて

 冨田絢子

 『罪と罰』での登場人物がどんな人間でどんな性格かを読者に知らせるには、母プリヘーリヤの手紙だったり、会話だったり、当事者以外の会話だったり、さまざまな方法があるが、ラズミーヒンに関しては、誰からの目線ともいえない第三者から見たような印象がはっきりと書かれていることに気づいた。それも、他の登場人物はどうにも理解できない点や好きになれない部分がわざとかのように多く描写されているのに対し、ラズミーヒンは冒頭のあたりで褒めちぎられている。
 例えば上巻の第一部四では、ラズミーヒンは「度はずれに快活で、社交的で、単純と思えるくらい気のいい青年なのだ」とか、「みなが彼を愛していた」とか、「いくぶん単純なところはあったが、頭もよく利れた」などと表現されている。さらには「どんな失敗をしても、どんな逆境にたたされても、けっして弱音を吐かず、気落ちしない」青年とまで書いてある。そして、ラズミーヒンはラスコーリニコフとは違って、アルバイトで金を稼ぎながらまったく自力で生活し、復学を目指して全力を尽くしていて、友人であるラスコーリニコフをわずらわせまいとする気遣いだって持っているというのだ。こんなにもいい所ばかり書かれているのは、ラズミーヒンだけではないだろうかと思う。そんな一見誰からも愛されるべき青年が、なぜ殺人事件を起こしてしまうような人間、ラスコーリニコフと友人になったのだろうか。ラズミーヒンが単純で、社交的だったから。それだけではないような気がする。その上、ラスコーリニコフも、なぜラズミーヒンだけを友人としたのだろうか。ラスコーリニコフは知能も、知識も、思想も、自分が一段上だとお高くとまって、みなを避けていたはずだ。互いに何に惹かれて友人となったのだろうと、深く考えれば考えるほど、ラスコーリニコフとラズミーヒンのうまが合いそうな部分はあまり見つからない。むしろ、噛み合っていない部分の方が多いように見える。
 だが、もしラズミーヒンがいなければ、ラスコーリニコフは絶対にやっていけなかっただろうと感じた。ラスコーリニコフが病に冒されるシーンがあり、そこでラズミーヒンはラスコーリニコフの面倒をみてやったりしていたが、それだけでなく、精神的にもラスコーリニコフにとってはラズミーヒンがいたことで強い支えになっていたのではないだろうか。ひとりとはいえ、友人がいるのといないのでは大違いだ。後半、ラスコーリニコフはプリヘーリヤとドゥーニャをラズミーヒンに任せるような場面もある。ラズミーヒンは、殺人をし、気がおかしくなって人間不信ともとれるような人間からも信頼される人物だったようだ。
 ただ、ラズミーヒンが純粋にラスコーリニコフを助けようと思い、プリヘーリヤやドゥーニャを守ろうとしていたかは定かではない。単純な性格だと言われているラズミーヒンに対して、これは行き過ぎた推測かもしれないが、ラズミーヒンはドゥーニャと近づきたくて、あたかも面倒見のよい好青年を演じていたという可能性も考えられなくはない。ラズミーヒンがドゥーニャに好感を抱いていると思われる言動はいくつか見られるが、実際にいつからラズミーヒンがドゥーニャを意識していたかは明確にはよく分からない。最終的にラズミーヒンはドゥーニャと結婚しているわけだから、万が一そのような狙いがあったのならば、ラスコーリニコフを通して目的を達成したといっても過言ではない。
 しかし、結局はラズミーヒンはラスコーリニコフもプリヘーリヤもドゥーニャも完全にではなかったかもしれないが、助けていることには間違いない。先も述べたが、ラズミーヒンの存在がなければ、ラスコーリニコフはおろか、ラスコーリニコフ一家はもういなかったかもしれないとさえ思う。だから、ラスコーリニコフはもっとラズミーヒンを大切に扱うべきだったのだ。ラズミーヒンはラスコーリニコフからあらゆる場面でぞんざいな扱いを受けているが、それでも友人として付き合ってくれているのである。私だったらラスコーリニコフのような人間とは友達になりたくはないし、なったとしても途中で見放している自信がある。ラスコーリニコフのような人間と一生友人でいてくれるのは、ラズミーヒンだけだし、一生友人でいられるのもラズミーヒンだけだろう。そう考えると、『罪と罰』は一種、友情の物語ととるのも面白いかもしれない。

 引間沙代子

 映画、小説、ドラマ、そのすべてに必ずと言ってよいほどヒロインの心を射止める役割を担う男が登場する。ほとんどが整った容姿をし、教養のある会話で人を楽しませ笑わせる、どこか女性を惹き付ける魅力の持った優男という設定が多いだろう。けれど、物語とは面白いもので必ずしも彼らに幸せを与えてくれるという訳ではない。それは、主人公の男が彼とは別に存在してしまっているからだ。しかし、ラズミーヒンはどうだろう?彼はそんな男たちと設定的には同類だが、けれど愛した女性を見事手中に収めることのできた言わば勝者の一人である。主人公の唯一の親友であり、金もなく女好きの男ではあるが、優しさと誠実さと素晴らしい容姿を兼ね備えている。物語の脇役としては申し分なく、また主人公と正反対な性格は多くの女性読者の注目を集めたことだろう。それは変人の多い『罪と罰』の中ではとても逸脱した存在だ。けれど、ラズミーヒンは「良くも悪くも平凡な人間」だった。つまり、彼は物語の主人王を務められるほどの力を持ってはいないということだ。例えば彼がドゥーニャではなくソーニャを好きになっていたならば、彼は幸せになることなどできなかっただろう。何故ならソーニャの心を射止められるのは主人公であるラスコーリニコフだけだからだ。だから私にはラズミーヒンとドゥーニャの関係がはじめから容易に想像することができた。若い男女が四人も登場する物語、成り行きを当て嵌めていくのはそう難しいことではない。その中でもラズミーヒンほど楽に行動を予想できた人物はいない。彼は「良くも悪くも平凡な人間」だ。平凡な人間ほど行動が単純化しているものは居ない。だからこそ、彼の叔父であるポルフィーリはラスコーリニコフのみでなくラズミーヒンにも注意を置いていたのではないだろうか。作中にそのような表現が出てくることはなかったが、そう考えてしまってもおかしくはないだろう。ラスコーリニコフをこの殺人事件の犯人だと疑ってかかるポルフィーリに、ラズミーヒンが食って掛かるシーンがあるが、その行動のせいでポルフィーリはさらにラスコーリニコフを疑ってしまっている。つまり、ラズミーヒンは自身の行動のせいでポルフィーリにさらに疑う余地を与えてしまっているのだ。それはラスコーリニコフの犯行の露見に一役かってしまっていることになるだろう。ラズミーヒン、彼はこの物語の読者の拠り所でもある。誰もが彼の恋愛の成就を願ったことだろう。その彼が親友であるラスコーリニコフを思うが故に陥れてしまっていたなどと、なんたる皮肉だろうか。それこそがこの物語『罪と罰』の特出した面白さであり、読者を考えさせることのできる場面でもある。すべてが繋がりを持ち、そしてそれに振り回されていく登場人物たち。おそらく、この物語の登場人物の中で一番「光」を持っているのはラズミーヒン、彼だろう。彼はドゥーニャを一心に愛し、そしてその兄の親友であるスコーリニコフを信じ続けた。彼の心にある闇はこの作品の中で一切と言って良いほど出てくることはなかった。また、出てくるには彼の登場回数は少なすぎた。重要な役割、また位置づけのわりに出番が少なかったことが彼の悔やまれることの一つであると思う。
 例えば、ラズミーヒンを主人公にして小説を書いてみたらどうなるだろうか。それは大した面白みもなく、熟練した小説家でも物語を膨らますことの難しいちゃちな小説になることが予想できる。つまり、彼は脇役だからこそ味が出る。そして、脇役だからこそ重宝されるのだ。ラズミーヒンのような一般人が『罪と罰』に登場しなければこの物語は早々に幕を閉じていたことだろう。すべては彼の叔父から動かされていくのだ。繋がりが繋がりを呼び、螺旋となって進行していく。そうしてこの物語は完成された。光が闇を消し去るように、闇が光を消し去る。ラズミーヒンという光はラスコーリニコフという闇を照らしはしたが、闇は光を覆い尽くしてしまった。しかし彼の出番がもっと多ければ、この物語の流動も少しは変化したことだろう。けれどもし仮にそうなってしまえば、『罪と罰』が名作と表現されることはなかったかもしれない。

 林英利奈

 彼について思ったことはまず、ようやく年相応の人物が出てきたな、ということだった。ラスコーリニコフは年に反して色々と考えすぎていると思う。それは頭が良いからかもしれないし、世情に絶望したからかもしれないし、恋人を早く喪ったからかもしれない。考えすぎた結果が犯行なのだから、ラスコーリニコフは思考というものにとらわれすぎていると思う。
 以前読んだ本の中に、私たちは規定しすぎる、という言葉があった。また他の本にも、こう書いてあった――『名前をつけなければ気が済まない。』と。残念ながら前者の書名も後者の著者も、まったくもって思い出せない(というか上記も『こんなことを言っていた』程度のものであるから注意。)が、なるほど納得した覚えがある。ラスコーリニコフは考えすぎている。対して、ラズミ―ヒンはぱっぱっぱっと感情で行動している。その両方が同じく秀才であるにもかかわらず、タイプは正反対だ。その上、二人は友人であるという。
 私自身の持論としては、ラズミ―ヒン寄りだ。『考えることに大した意味はないのかもしれない。』という思想を持っている。だが、これは考えすぎてしまう自身への戒として持っている思想だ。言ってみれば、私自身はラスコーリニコフ寄りだが、出来ればラズミ―ヒン寄りの人間になりたい、ということだ。
 考えすぎてしまう人間は、沢山いる。それどころか、悩んだ末に自殺してしまう人が今現在の日本にはあふれている。そういう人はみんな、一度何もかも放り捨てて農家に弟子入りすればいいのではないだろうか。一日中土をいじり、牛だのと格闘していれば、生きる意味なんて考えずとも、はっと気づいてしまう。一日の終わりには、充実で胸が一杯になっているだろう。昨今のライトノベルには、『生きるのがつまらないよ。』などというキャラクターが増えてきている。そんな小説を読むたびに、『農家の人に謝れ!!』と私は怒鳴りたくなる。
 頭の良い奴が考えすぎるとろくな結果にならない。考えすぎることに意味はない。そういう点ではラズミ―ヒンは考えすぎない、いい奴なのかもしれない。だがたまに思う――こいつ考えなさすぎでないのか?
 ラスコーリニコフにとって、ラズミ―ヒンは実は、一番難解なやつなのではないだろうか。住所も云わずに出て行った自分をとっ捕まえるためにあれやこれやと走り回り、病に伏した自分を甲斐甲斐しく面倒見、自分が上手くやっていけない下宿先の人々と、明るく付き合っている。私にも難解だ。だが、ソーニャやドゥーネチカの時のように裏を見てかからないのには、一つの理由がある。私自身の中高時代に、似たような友人が居たからだ。何かの折、『悩みやすさ』についてあれこれとお喋りしていたら、他の友達にその友人と私は正反対という結論に至られた。仮にその友人をSとしよう。Sは、すごく頭が良かった。現役合格で某有名大学に進学していった。私が彼女と勝負できるのは、現代文の成績くらいだった。Sは一応県内屈指の進学校である母校の、通称特進と呼ばれるクラスに在籍していた。学年で一番頭がいい生徒が揃っているクラスだ。中学三年生から集められ、そのクラスはほぼ持ち上がり。他のクラスからは『なんだかとっつきづらいよね』などと評されている。だが、Sは私の大切な友人だった。もちろんラスコーリニコフのようにラズミ―ヒンが唯一の友というわけではなかったが、とても大切な友達だった。そのSは、秀才集団の中にあって、びっくりするほど『何も考えていなかった』。無論どの大学に進むかとか、将来どういう風にするかとか、色々と必要事項は考えていたと思う。だが、それ以外のことは好きなら好き、嫌いなら嫌いと、そのままだった。
 Sは、私にとって憧れの性格の持ち主であり、頭が良いということと物事を深く考えることが、必ずしも=されないと気付かせてくれた人であるし、ただ単純に、大切な友であった。ラスコーリニコフにとっては、ラズミ―ヒンはどういう人間なのだろう。ラスコーリニコフと私の違いの一つは、頭の良し悪しだ。特進クラスを傍目から眺めていたお気楽クラス在住の私と、勉強して勉強して頭のいい集団に籍を置いていたラスコーリニコフでは、また立場も違ってくるだろう。敵対心が一つもなかったとは言い切れないし、ラズミ―ヒンを見てただただ困惑する以外の何かもあっただろう。
 ラスコーリニコフは、真にラズミ―ヒンが『そのままの』人間だと気づいているのだろうか。本当の意味で、悟っているのだろうか。私がSという人間をそう位置づけるのに三年ほどの時間を要した。考えすぎる私にとって、Sという人間は謎そのものだった。好きなマンガやらなんやらについて話すときは、あれほど気が合う友人もいなかったのに。
 そしてなにより、ラズミ―ヒンにとって、ラスコーリニコフがどういう人間なのか。今の私には推測のすべを持たない。ただ、彼はずっと『考えすぎるな』と言っているのではないだろうか。――それが、ラスコーリニコフに届かないとしても。

 阿久戸芽生

 率直に申すと、私は『罪と罰』を読み終えたときラズミーヒン自体のキャラクターや個性はぼんやりとしていて、他の登場人物と比べると強く印象に残る人物ではなかった。
しかし『罪と罰』の中で彼ほどまともな登場人物はいないと思う。
ラズミーヒンはロジオンの唯一の友人であるが、二人の性格は真逆と言ってもいいほど違っているところが面白い。二人の共通部分は、元学生であることと貧しい生活をしていることくらいである。
 ロジオンは自分の殻に閉じこもり、常に悲観的であるが、ラズミーヒンは自分から世界を広げ、どんなときでも前向きな姿勢でいる明るい性格の持ち主だ。
 何かしら問題を抱え気違いめいた人物のほうが多いが、『罪と罰』は彼のような人が一人でもいることによって成り立っているのだと思う。事実、ラスコーリニコフ一家の支えになるような人は最終的にロジオンでもなければドゥーニャでもなく、ラズミーヒンなのだ。
 彼はロジオンが病気の間、ゾシーモフという医者まで呼び、せっせと看病をする。
その持ち前の世話好きの甲斐あって、ロジオンの妹ドゥーニャという存在を知る。あまりにも美しいドゥーニャに一目惚れし、彼の心はロジオンの心配からドゥーニャへの興味に移動する。
 ドゥーニャのような美しい女性を狙った男性は、書かれている中ではルージンとスヴィドリガイドフがいるが、共通して卑劣だし下心しかないような男だ。
 しかし、ラズミーヒンだけはそんなことなく、好意でロジオンを看病しているうちに彼女に出会い、ただ単純に恋に落ち、彼女が好きなのだ。実際の世の中(私が知っている限り)ではルージンやスヴィドリガイドフのような、いかがわしい気持から女性を好きになる人のほうが少ないと思うが、『罪と罰』の世界で考えると、本当に素晴らしい素直な好青年だと思う。少々、感情的になりやすいし、お節介やきではあるが、読み手としてこれほど人間らしく、わかりやすい人はいない。ロジオン も上巻では、なんて変わっている人なのだろう(英単語で彼を表現するとしたらstrangeだな)と思ったが、読みすすめているうちに、彼だって人間らしい人間だったのだ。そうは言っても、ロジオンは大半、何を考えているのか正気なのか狂っているのか医者のゾシーモフすら考えてしまうほど、危ういような人間だったので、やはり、ラズミーヒンは分かりやすい。
 話は反れたが、ラズミーヒンはドゥーニャへの興味と親切心から、一切家族と関わりたがらないロジオンと、母プリヘーリヤそしてドゥーニャの仲介役のような手助けをする。
彼にとってロジオンの様子を伺いに行くことは苦ではないし、ましてやその旨を告げにドゥーニャと会えるのだから、ドゥーニャと関わるこれ以上の絶好の機会はなかったであろう。そこに下心があるとは私は思わないし、むしろ思いたくもない。ただ彼は流れに身を任せた結果なのだ。
 ということで私は彼に全体的に好意を抱いている。彼は本当にタイミングの良い男なのだ。ラズミーヒンは自然とドゥーニャと結ばれ、その後まもなくロジオンの次に気がかりであったプリヘーリヤも丁度良い時期に倒れ死に、悪い言い方をすると“厄介払い”ができるのだ。心の優しいラズミーヒンはそんなこと 毛頭思っていないだろうが、母がいなくなればあとは二人で幸せな家庭を築くだけのだ。なんて幸運なのだろう彼だけは。
 難なくことが進む登場人物が『罪と罰』ではラズミーヒンだけなので、ある意味目立った存在であると思う。しかし『罪と罰』は最後の最後までどろどろ、というわけではなく、エピローグではしっかりみんなハッピーエンドなのだ。不幸なソーニャでさえ最後はロジオンと結ばれ、ある程度の幸せにありついている 。すると、ラズミーヒンはどうしてこうも他のキャラクターと異色なのかが気になってくる。彼だけが青春的な雰囲気を持っていてさわやかだ。ラズミーヒンがロジオンと違って学校をやめたにも関わらず前向きになれた理由はなぜなのだろうか。お金もない地位もない男が皆揃ってロジオンのようになってしまっては話にならない が、ドストエフスキーはなぜ彼だけ幸福にしたのだろうか。
 彼の気苦労について細かく書いてある箇所がないため、どうしても気になってしまう。
ロジオンはナポレオンのような英雄になりたかった。しかし殺人という非道徳的なことは許されることなく、犯罪で終わる。それと対照的にラズミーヒンは正義のヒーローになったのだ。
 やはり矜持と勝手な理想だけをもとに思想を広げることはただのナンセンスであって、近くで困っている人を助けることが真の正義なのだろうか。
だとしたら、ロジオンが犯したことはすべて無駄だったのではないかと思う。
 自分探しをするために殺人をしたと言っても決して間違いにはならないのだから、まっとうに社会と向き合い素直でいることが一番無難なのではないか、とラズミーヒンを見て思った。


 中村 光

 つくずく、この世は終わっていると思う。捨てたもんだと思う。男のタイプが極端に分かれているからだ。俗に言うモテるタイプとキモイタイプに。私が言いたいのは、別に顔のことじゃなくて性格、性質的なことだ。顔なんかは後からついてくると思うのだが、性格は持って生まれたもんだからどうにもならない。性格がかっこ良ければ顔だっていくら悪くても、そのうちよく見えてくるし、反対に普通の顔でも性格がどうしようもなくキモければ、それなりにキモく見えてしまう。私の周りにはなぜか、キモイタイプの男が多いし、そういう奴をよく見る。そういう男はよくマンガ喫茶に集い、こちらがじっと見つめると、キレるかもしくはおびえきった目で見つめ返してくる。そんなのはまだ可愛いほうで、キモイ中にも最低に値するほどのクズもいる。クズの場合、たいてい恥ずかしげもなく「週に何回オナニー(マスターベーション)するの?」と小・中学生並のメールをしてくるし、「毎日です。」と答えてやると喜んで即座に返信がくる。「え?毎日?!どうやって?どうやって?」。クズな奴はなぜかこんな時だけ積極的なのだ。
 逆に前者、モテる男も場合はというと、こいつらもけっこう厄介で、彼らはいわゆる「いい女」が好きだ。従順で可愛いタイプの女をあまり好まないのである。妻子持ちでも山本モナのような「魔性の女」が好きなのだ。
 やはり、林芙美子の『浮雲』にしてもこれと同じことが言える。富岡は、妻と別れると言った事を疑いもせず、信じて待ち続けるゆき子を選ばないし、それどころか、人妻にまで手をだす。本当にゆき子を愛していたかも疑わしい。富岡は、マンガ論の『チーコ』の講義でやった「飛べる女」がタイプなのである。それに、ドラマにもなった三浦綾子の『氷点』でもハンサム眼科医、村井は辻口啓造の妻、夏枝にいいよる。そして、彼女はプライドが高く、いいよる村井を手のひらで転がすように弄ぶ、どこかそのような魔性の魅力を持つ夏枝により一層惹かれるのである。さらに、『氷点』にはもう一人欠かせない人物がいる。産婦人科医の高木だ。彼は豪放磊落な気性の人間で三浦綾子も彼をとても好意的に描いている。しかしそんな村井とは正反対の性格の彼さえも秘かに夏枝に思いをよせている。そしてまぎれもなく夏枝の夫、啓造もその中のうちの一人だ。
 ところで『罪と罰』に出てくるラスコーリニコフの友人、ラズミーヒンが『氷点』の高木によく似ていると前々から思っていた。それは彼が豪放磊落な性格であるということ以外からも考察できる。
 彼はぶっきらぼうだが以外に思いやりがあり、突然仕事をもらいに来たラスコーリニコフに、通訳の仕事を分けてやるのだ。私だったら、そんな調子のいい奴に金になるような仕事を分けてやったりはしない。ラズミーヒンはとても情が厚い男だ。
 そんなラスコーリニコフが病床に伏しているときもラズミーヒンは根気よく看病してくれる。ラスコーリニコフは彼の優しさを拒むがそれに動じることなく看病をし続けてくれる。彼はまるですべてを受け止める大地のような人間である。
 また、彼は結局ラスコーリニコフの妹ドゥーニャにひかれ、婚約する。前回のゼミの課題「ドゥーニャと私」で峰さんが記したようにドゥーニャに闇の部分があるとするなら、気前がよく、明るい性格のラズミーヒンもなんだかんだで陰がある、明るいだけじゃない性格の女が好きなのだ。要するに、ラズミーヒンも「モテる男」の部類に含まれるのである。
 つまり、いわゆるモテる男はどこか陰があったり、裏があったりする女が好きで、ストレートで一途な女は結局一生一人で生きてゆくことになりかねない。私も気をつけなければならないと思う。このままでは、誰にも看取られず、孤独死して腐って異臭を放ちだしてからでないと死んだことに気付いてもらえないかもしれない。


 崎田 麻菜美

 ラズミーヒンは、もうひとりのロジオンなのではないかと思った。ラズミーヒンが光なら、ロジオンは影。二人とも変人であるし、それ故通じ合っている部分が多い。しかし性格的に見れば二人はまるでオセロの表と裏、白と黒だ。ラズミーヒンはロジオンのようにもろくはないという印象がある。心情的にも肉体的にも。
彼はどこか掴み所のない存在だ。ロジオンのように、何を考えているのか一見わからないような行動をとる。しかしその一方で特徴的な一面も見せているのだ。
彼の特徴的な一面のとして上げられるのは、性格だろう。明るく社交的な性格は女性にも好かれやすく、彼の生き方に大きく関わっていると考えられる。世話好きなのもこの性格から来ているのだろう。
 しかしその性格が必ずしも全て良い方向とういうか、良いというふうに捕らえられているわけではない。例えば彼の世話好きな性格は、一見いい人のように聞こえるが、その世話内容としては少々いきすぎているような気もする。実際問題、主人公であるロジオンは迷惑そうであったし、読者からみても「余計なお世話だ。」と言いたくなるような箇所がいくつかあった。
 もう一つが、女好きということ。前にも書いたように、ラズミーヒンは明るく社交的な性格だ。人見知りをせず、誰とでもすぐに仲良くなれるタイプの人。そういう性格の人を、嫌ったりする人はほとんどいないだろう。そんな人物が女好きというのだから、それはもう彼の思うツボというか、抱きたいと思った女は抱き放題なのだろう。女に困った試しがないような人だ。現に下宿の女将は、まんまと彼の人柄に騙されて……という言い方は侵害かもしれないが、結果的にはそういうことになっている。こういう人物はだいたいの場合、顔ではなく人柄で好かれているというのが私の人生経験上あるのだが、まぁこれは物語の中の登場人物なのだから、そこまで気にしないことにしよう。
 私のラズミーヒンについての考察は以上だが、こういう人物とは適度な付き合い程度にしといたほうがいいとつくづく感じました。ラズミーヒンのような男には気をつけよう。

  ドゥーニャ、ラズミーヒンについて         
 村上絵梨香
 ドゥーニャとラズミーヒンについて書く。ドゥーニャはロジオン(主人公)の妹であり、ラズミーヒンは彼の友人であるが、彼女に交際を迫るスヴィドリガイロフ、婚約者のルージンも含め、主人公の周りでは平日の昼間に放送しているドラマのような愛憎劇が繰り広げられている。
 この愛憎劇は一見複雑なもののように見えるが、実はドゥーニャが一人で掻き回しているのではないかと思う。ドゥーニャについての文献を探すと、彼女は我慢強く高潔で、気高い存在であると記しているものが多く驚かされた。私にはソーニャと同じくドゥーニャもさほど良い女とは思えない。これは私の性格が捻くれているからかもしれないが、捻くれ者なりに分析してみようと思う。
 まず、ゼミで話題になった「ドゥーニャは処女であるか」について。私は結論から言うと処女ではないと思う。しかし初めての相手がスヴィドリガイロフであったかというと、それも違う気がする。
 彼女はスヴィドリガイロフの家に家庭教師として雇われ、やがて彼に好意を持たれ言い寄られたと書かれている。彼はドゥーニャの何処に惹かれたのだろうか。彼女の母(プリへーリヤ)の手紙によれば、スヴィドリガイロフは過ちを犯さぬように彼女との間には距離を取っていたそうである。その方法は無視したり、暴言を吐いたりなど大そう幼稚なものだったが、妻を裏切らないよう彼なりに努力してることが伺える。
 と、書いたが。私には彼の行動にそんな誠実な意味があるとは到底思えない。彼はドゥーニャが家に来て早々に関係を持ってしまい、それを家族に悟られぬようにそんな行動を取っていたのではないかと思う。男女の関係は段取り無しで成立してしまうことも多々あるのだ。
 プリへーリヤの手紙にはドゥーニャが容姿端麗で聡明な子だから、スヴィドリガイロフに気に入れたのだというように書かれているが、彼女はその場面を見た訳ではない。ドゥーニャからの手紙と、噂と、自分の妄想だけでそのように書いているのだ。これらのことを考えると、スヴィドリガイロフはドゥーニャの性格に惹かれた訳ではなく、かと言って騙された訳でもなく、ただ本能のままに関係を持ったのではないかと思う。ある意味ドゥーニャに関わった男性の中では、スヴィドリガイロフが一番彼女を理解していたのかもしれない。そしてドゥーニャは、そんなタイプの男が実は一番嫌いだったのではないかと思う。
 ドゥーニャが兄思いなのは事実だろうが、図太いことも事実だと思う。兄のために大きな屋敷に家庭教師として勤め、一つ屋根の下に居る妻の目を盗んで主人と関係を持つくらいなのだから。しかしそんなリスクの高い行為を犯すほど、スヴィドリガイロフには値打ちがあるのだろか。彼に値打ちが無いというのではなく、リスクの大きさが計り知れないということだ。この点に私はドゥーニャの打算的な一面を見た気がした。スヴィドリガイロフは地主であり、財産を持っている。もしかしたらドゥーニャはマルファを追い出し、自分が彼の後妻になることさえ考えたことがあったかもしれない。しかし彼女は見切りをつけた。明確な理由は分からないが、それはスヴィドリガイロフがドゥーニャの本質に理解をし過ぎたせいだと私は思う。プリへーリヤの手紙やそれを読んだロジオンの反応からも分かるように、彼女は周囲からは容姿端麗で、聡明で意志も強く、気高い女性だと評価されているからだ。彼女はそのイメージを保つ為にスヴィドリガイロフと距離を置くことにしたのだと思う。交際が公になる際、二人ともが関係を持ったことを公言しなかったのは、マルファのおしゃべり癖を見越し、特をしないと思ったからだ。
 そしてスヴィドリガイロフの元を離れる際に上手い具合に状況が転じて、ドゥーニャは弁護士の男(ルージン)との婚約に成功する。しかしここでまたもドゥーニャに好意を抱く男が出てくる。それがロジオンの友達、ラズミーヒンである。
 彼は一言で言えば健康優良児。ロジオンとは全く正反対の男である。こういう人は何処にでもいるが、私はこういうタイプが嫌いである。
 ラズミーヒンはドゥーニャに好意を抱くが、それはどうも彼女に対する好奇心から来るもののような気がしてならない。先ほどから何度も言っているが、ドゥーニャは容姿端麗で聡明なのである。女性というのは不思議なもので、時には容姿が良いというだけでミステリアスに感じることがあるのだ。
 しかし私は彼女とラズミーヒンは住む世界が違うと思う。ロジオンと彼の性格が正反対であるように、ドゥーニャと彼もまた、感覚が違っているのだ。ロジオンもラズミーヒンのような性格だったらもっと楽に生きられるだろうにと思う。もし二人が高校の部活に入るとしたら、ラズミーヒンは男子テニス部、ロジオンは鉄道研究会といったところか。
 しかしそんなラズミーヒンの大道的な価値観がドゥーニャには有難いのかもしれない。彼女には同属嫌悪の気がある。嫌悪とまでは行かないまでも、自分と同じタイプ、近いタイプの人間の側に居ることを避けているように思う。分かり合えるからこそ堕落していくということもあるのだ。最終的にラズミーヒンを選んだのには、そんな理由もあると思う。
 しかし、私もラズミーヒンのようになりたいものである。健全に、当たり前のように一般論を唱えて生きていければさぞかし楽に違いない。私はここへ来て初めてロジオンに共鳴した。彼の苦悩は実に人間らしいし、不器用ではあるが思考の流れもとてもリアルである。もしかしたら『罪と罰』の登場人物の中で、一番純真さを持っているのはロジオンなのかもしれない。しかしそれは彼の強い意志が勝ち取ったものではない。母や妹に守られて生きた結果なのだ。そう考えると生活の困窮とは関係なく、ラズミーヒンはロジオンよりも精神的に大人なのだと思う。彼はおそらく妥協を知っている。世間的に「正しいこと」も知っているし、損も得も分別も弁えている。
 私は彼の正しさと単純さを文学を志すものとしては好きになれない。しかし彼は総合的に見て「正しい人間」だと思う。もしかしたらドゥーニャもそう思ったのではないかと思う。
 ドゥーニャとラズミーヒンの関係は本質的なところを見ればこうなるが、ラズミーヒンのドゥーニャに対する思いの大半が好奇心であることは事実だし、ドゥーニャがラズミーヒンを利用しているのも事実である。何処にでもある話だ。二人とも良い人間とは言えないが、世の中にはこんな人間がたくさんいる。それはそれで構わない。「良い」ことは「正しい」ことではないし、「正しい」ことは「良い」ことではないのである。
 本当に平日昼間のドラマのような世界観ではあるが、これはドラマよりもうんとリアルな関係だ。ロジオンの苦悩は周囲の様々な人間関係に縁取られ、奥深い物語になっているのである。