清水ゼミ第六回課題「レベジャートニコフについて」

清水正の林芙美子『浮雲』論連載    清水正研究室   清水正の著作  エデンの南
清水正ドストエフスキーゼミ「文芸研究Ⅰ」では週に一回のペースでレポートを書いてもらい、メールで送ってもらっています。今回は第六回課題「レベジャートニコフについて」を掲載します。

レベジャートニコフについて


 冨田絢子

 友人といっている割には、レベジャートニコフはルージンに見下されたような扱いを受けているように感じるし、レジャベートニコフの方もルージンを見下しているように思われる。レベジャートニコフとルージンは、特別仲が良さそうというわけでもなければ、互いの意見がよく合っているわけでもない。レベジャートニコフとルージンの関係は、ラスコーリニコフとラズミーヒンの関係と同様に、はっきり言ってなぜ友達なのかさっぱり分からない。互いに何に惹かれて、何が楽しくて友人となったのか疑問に思う。それどころか、果たしてレジャベートニコフとルージンは、友人といえるのかすら疑問に思ったりもする。とりあえず、レジャベートニコフが自宅にルージンを泊めているあたりではきっと仲のよい友達なのだろう。そこは、恋愛同じく、当事者の間にしか分からないのかもしれない。  
 だが、レベジャートニコフはルージンに利用されている場面もある。例えば、ソーニャがルージンの100ルーブリを盗んだとして、騒ぎ立てられている場面である。その時にルージンは、レベジャートニコフが証人だと言って、どうにかソーニャを犯人に仕立て上げようとする。そこで、レベジャートニコフは、意気揚々とルージンを責め立て、ソーニャが無実であることを証言する。意地の悪いルージンにはっきりと物を言う者が出てきて読者としては、多少すっきりする。だが、そこまではいいとして、私としてはレジャベートニコフはどうも調子のいい男だという印象を受けた。証言の際に、わざわざ論理的な用語を用いたり、ラスコーリニコフの意見に乗っかってみたり、あたかも正義の味方のような顔をして自分に酔いしれているというか、現代的に言えば、ただテンションが上がりすぎた人である。もはやソーニャのための証言というより、ルージンを罵倒し、自分が優越感に浸るための証言のようである。そもそも、レベジャートニコフの方こそ、覗きや盗み聞きしていること自体、人間としてどうかと思うが、結果的にどうにかソーニャの無実は明らかとなっているので、そこは気にしないことにする。
 その証言の前に、「レベジャートニコフは一歩、室内に足を踏みいれた。」という一文が入っていることが気になった。『罪と罰』は「プレストプレーニエ」が大きなテーマのひとつだと知ったからこそ、このような何気ない文章が気にかかるようになったのだろう。この一文を入れたのには何かしら意味があると思う。レベジャートニコフの「踏み越え」は、このルージンに対する証言にあるのだろうか、と考えた。「レベジャートニコフは一歩、室内に足を踏み入れた。」という一文がレベジャートニコフの「プレストプレーニエ」だとすれば、他の主人公に比べれば随分地味な踏み越えだが、重要なシーンであったことには間違いない。
 あと、レベジャートニコフが登場する印象的な場面と言えば、レベジャートニコフがソーニャにカチェリーナの気がおかしくなってしまったことを知らせに行く場面である。よくよく考えてみれば、相当大きなお世話のような気もするが、いずれソーニャはカチェリーナが発狂してしまったという事実を知り、カチェリーナをどうにかしなければいけないので、一応レベジャートニコフは役に立ったということにしておく。しかし、レベジャートニコフはまた、自分の知識をひけらかすような余分な発言をする。自分で「医学のことを知らない」と言っておきながら、その後すぐに医学のことを知っているかのような発言をする。要するに、簡単に言えば、見栄張りな男である。おまけに、その医学知ったかぶり話は誰も聞いていないのである。考えてみると笑えてくる。影が薄い上に、哀れな男である。
 レベジャートニコフの良いところを挙げるとすれば、少年のような心を持っているところくらいである。レベジャートニコフはラズミーヒンよりも、単純な男のように思える。そして、実は純粋な人間なのだろうと思う。私が読んで受けたレベジャートニコフの印象は、イベント好きで、格好をつけたがる庶民的な少年、といったところである。だからこそ、人の問題にやたらと首を突っ込んだりするのだろうが、それもほどほどにした方がいいと思った。


 林 英利奈

 彼、アンドレイ・セミョーノヴィチ・レベジャートニコフについてまず思ったのは、『どこにでもいるよな、こんな人。』だった。新気鋭の考えに取りつかれて、誰かれ構わず訴えかける。ルージンは彼を、からかっては溜飲を下げている。ルージンにとってレベジャートニコフは浅はかで、考えの透けて見える存在なのだ。彼がソーニャに恋焦がれているのは明白なのに、レベジャートニコフはそれを啓蒙と称している。カチェリーナと一戦やらかしてなおだ。
彼は盛んに、年上で、後見人であるが、ここのところ自身の主張に対して冷笑しか返さないルージンに対して、必死に持論をぶつ。しかし、それは彼自身の、本当に論理思考に基づかれたのかに関しては、若干の疑問の余地があるように見受けられる。彼が『又聞きをさも自論として語る』らしいことはルージンの言葉から明らかだ。
彼はなるほど納得できると思った意見主張を、さも自分で考えましたと言わんばかりに語っているのだろう。そういう人は、どこにでもいる。もしかしたら、作中人物で最も現代社会にありがちな人物かもしれない。私はこの『罪と罰』の中の人物それぞれに対して、とくに宗教的観点から『遠い』と思っているが、無信心という点ではある意味、一番現代日本人に近いキャラクターのように思われた。もっとも、日本人は独特の共通道徳観念を下敷きとした思考を持っているらしいので、一概にそうであるとは言い切れないのかもしれないが。
 さて、話は変わるが、先だって受けた文芸入門講座において、登場人物の名前が分かりやすくそのままだという話を耳にした。彼、アンドレイ・セミョーノヴィチ・レベジャートニコフについて、私の出来る限りで調べてみた。
 まず、名前のアンドレイ。これは英語でのアンドリューのロシア語形らしい。意味は男らしい、とか雄々しい、というもの。元はギリシャ語名のAndreasから。元になった言葉の意味は『男性の』である。
 次に、セミョーノヴィチ。これは『セミョーンの息子』という意味だ。そのセミョーンとい名前の語源ははっきりとしていないが、一説によるとヘブライ語のShimeon。意味は『耳を傾けている、聞いている。』だ
 最後に、レベジャートニコフ。これは動詞の『レべジーナ』追従するという意味だ。
 これら三つの言葉から取られる意味は、なんなのだろう。ドストエフスキーがただの感性だけで名前付けを行ったと考えにくいのは、ロジオンの名前の秘密だけで明白だ。とくに注目したいのは最後、レベジャートニコフという彼の姓。確かに、彼は追従している。カチェリーナの発狂を知らせに行った時の、精一杯の配慮を鑑みるに、けして悪人ではないレベジャートニコフだが、彼は取りつかれた思想に追従してばかりだ。コミューンという言葉から察せられるのは、彼が社会主義者だということだ。彼が『罪と罰』の作中で最も存在を主張しているのは、ルージンに対してその思想を一席ぶっているところだ。レベジャートニコフは盛んに、コミューン。共産自治体という言葉を使っている。彼は追従した思想に酔っているのだ。それが持つ本当の意味を、きちんと奥底の裏まで考えた事があるのだろうか?あるいは、考えたとして、真理に至るのだろうか。現時点でルージンはその追従を浅はかと笑う。しかしこののち、本当にロシアはその思想へと突き進んでいくのだから、案外に先見の明があるのかもしれない。今は『かぶれている』だけでも、その思想を主義として、ロシアはソヴィエト連邦となり、世界の片割れの中心となるのだから。
 名前のアンドレイから、私は深い意味を汲み取れない。確かにかれの口調は雄々しいが、カチェリーナの発狂を伝えるときは、まったく気弱にしか見えなかった。よく居る使いっぱ知り的役割の端っこキャラクターのようだ。そして、セミョーノヴィチ。耳を傾けるという意味を持つ彼の言葉には、確かに意外な先見性があったのかもしれない。しかし作中、ルージンは彼の言葉を終始冷笑レベルでしか受け入れていない。まったく、皮肉である。しかもそのあと、カチェリーナの状態に関してラスコーリニコフについてあれこれ言った時も、やはり最後らへんは耳に入れてもらえていない。聴いてもらえてないのだ。彼の言葉は、真の意味でひとに届いていない。
 彼の言葉が届かない――そこにこそ、レベジャートニコフという一人物像の、本質なのかもしれない。言葉を届け得ない。言葉がいかに無力であるか、彼という存在は語っているのだ。
 しかし忘れてもいけない。そんな彼が抱いていた思想こそが、そののちのロシアを走らせたということも。

参考
さらに怪しい人名事典
http://www2u.biglobe.ne.jp/~simone/more.htm
欧羅巴人名録
http://www.worldsys.org/europe/
駄ジャレの作法〜笑われないために〜
http://www.toyama-cmt.ac.jp/~kanagawa/language/dajare.html


 中村光

 私の目の前の席にはひと組のカップルが座っていて、そいつらが店に入ってきた時からなぜか不愉快な気持ちになった。彼女のほうは黒い網タイツをはいていて、ドンキホーテで売っているようなピンクのヒールの靴を履いていた。彼氏のほうはというと、大きすぎるジーンズをはいていて、顔に似合わない、整えられたひげを生やしていた。二人はあまりにもお似合いだった。お似合いすぎて吐き気がした。じきに彼女が彼氏にもたれかかりイチャつきだした。二人が露骨にこちらを見ている。私はピンときた。あ!やはり彼らは…(バカなんだ!)と。そして私は彼らの未来を自身を持って予知した。彼らは絶対に、別れるか、結婚して子供が三人生まれ、仲良く貧乏に暮らしてゆくのだろうと思った。それにもう一つ思った事は、彼氏のほうが、何となくレベジャートニコフに似ているような気がした。何となくだが、彼はまぎれもなくレベジャートニコフタイプだと直感した。
 小説『罪と罰』にはレベジャートニコフがルージンの友人として描かれている。彼は田舎から出てきていて、若手の進歩派のちゃきっとして、よく話題にのぼる現実ばなれした一部のサークルで羽ぶりをきかせているらしい。要するにレベジャートニコフは調子に乗っているわけだ。しかもルージンはそれを明らかに、よく思っていないふうだ。ちょっくらシメてやろうか、とでも思っているのだろうか。まったく、ルージンなんかにシメられてたまるか!って感じだ。
 それにしてもレベジャートニコフはなんとも残念なかんじで『罪と罰』には彼の外見についてこう書かれている。「どこかの役所に勤めている、やせこけた、腺病質の、小柄な男で、髪の色が奇異な感じのするほど白っぽく、頬にはハンバーグ・ステーキ状のひげを生やし、それをたいそう自慢にしていた。おまけに彼は、ほとんど年中眼病をわずらっていた。もともとかなり気の弱いほうなのに、しゃべると自信たっぷりで、ときによると傲慢不遜なぐらいになり、それがまた貧相な風采と対照的で、たいていの場合、滑稽にな感じになってしまう。」それにしてもひどい言われようである。「ハンバーグ・ステーキ」って思いっきりバカにされているではないか!それどころかもともと気は弱いのもバレてるし…。しかも虚弱体質なんだからさぁ、いくら彼がいきがってるからってそこまで言わなくたっていいじゃないの…。昔のロシア人って外見にきびしいのね。
 それにしてもレベジャートニコフ、なんか子供っぽい。外見や振る舞いもそうなんだけれどそれは他にも彼があのカチェリーナと喧嘩してしまうようなところにもあるような気がする。まぁ、カチェリーナが気が強いのも分かるけどね、そんな大の大人が女性相手に喧嘩なんてよしなさいよ。だいたいなぜカチェリーナと喧嘩なんかしたの?お金のこと?あ!わかったわ!またソーニャのことね!!レベジャートニコフ、あなたもソーニャを手に入れようとしていたのね!だからルージンはあなたのことを恐れ、軽蔑したのよ。ルージンなんかに軽蔑されるなんて、とんだ人生の汚点だわ!この、ろくでなしーっ!!!!
 やっぱりレベジャートニコフ、ファミレスで見たあの男に似てるわ。いかにもヤンキーぶちゃってる感じだったし、そのくせ肝臓わるそうだったし。ほんと私ああゆうタイプって気にくわない。一生無職よ、きっと。レベジャートニコフがおそろしく低俗で、頭のにぶい男であったように、あの男と女も低俗で低能で低所得って感じね。 
 あれ?ちょっとまって!私、ものすごく見下してない?軽蔑してる!!してみると私は……ルージン!!!!!!