清水ゼミ第四回課題「ドゥーニャと私」

清水正の林芙美子『浮雲』論連載    清水正研究室   清水正の著作  エデンの南
清水正ドストエフスキーゼミ「文芸研究Ⅰ」では週に一回のペースでレポートを書いてもらい、メールで送ってもらっています。今回は第四回課題「ドゥーニャと私」を掲載します。

ドゥーニャと私


 冨田絢子

 母プリヘーリヤによると、ドゥーニャは聡明で、気性のしっかりした子で、たいていのことは我慢できる子で、冷静さを失わないだけの度量ができている、とのことだが、そういう部分ばかりではないようだ。例えば、ルージンとの結婚の件についてである。いくら母親や兄のためとはいえ、ルージンと結婚しようとしたのはどうかと思う。それはルージンとの結婚には明らかに金が関わっていて、言ってみれば身売りに近いからだ。結局は結婚していないが、実際にルージンと結婚していたら、どうなっていたのだろうか。ドゥーニャはそういうことをよく考えるべきだったはずだ。
 他にも、第六部でスヴィドリガイロフと部屋で二人きりになる場面がある。そうなる前に早く気づくべきだったが、その後ドゥーニャは取り乱すあまり、スヴィドリガイロフを銃で撃ったのである。これはいくら自分の身を守るためとはいえ、冷静さも判断力も著しく欠いている。というより、完全に犯罪であり、逮捕されてもおかしくない。スヴィドリガイロフがそこで死んでいてもおかしくない。ドゥーニャは賢くてしっかりとしたイメージがある一方、必要のない言動や、気も行動も危ない部分が多々みられる。
 ただ、母親や兄を愛する気持ちはとても大きいことがよくわかる。ドゥーニャほど、家族を愛することはそうそうできないことだ。もし、私の家族がプリヘーリヤとラスコーリニコフだったら、残念ながらとうに縁を切っているか、家を出ている。余分なことばかりやったり言ったりする母親と、殺人犯で気狂いの兄が家族だなんて、周りからの目も厳しいに決まっているし、精神的にも肉体的にも、私だったら耐えられない。そう思うと、私と同じ世代の女の子にも関わらず、最後まで自分の家族を信じ、愛し、すべてに耐えたドゥーニャは、素晴らしい愛情と気力の持ち主だ。印象だけの話になるが、物語全体を通しても、『罪と罰』の登場人物の中では、ドゥーニャはまともな方だと思う。逆に、プリヘーリヤとラスコーリニコフの間に暮らしていて、よく気がおかしくならなかったと感心するくらいである。しかし、ドゥーニャと友達になりたいかと聞かれれば、申し訳ないが出来れば友達にはなりたくない。ラスコーリニコフが犯罪者かどうかは関係なく、私はドゥーニャとはうまくやっていける自信がない。気高くて美人で余分なことを言うドゥーニャのような人間は、どちらかといえば苦手だ。
 だが最後、エピローグの場面になるとドゥーニャは、「ある点についてはまったくの沈黙を守ったほうがましだという最終的な結論に到達した。」とある。これは、ただの一行かもしれないが、大きな変化ではないだろうか。私が思うに、ドゥーニャははじめ、どの点についても、まったくの沈黙を守れるような人間ではなかったように思う。だが、ラスコーリニコフとの別れや、プリヘーリヤとの別れ、ラズミーヒンとの結婚などによって、考え方も心も大きく動いたのではないだろうかと感じる。それが、成長ととるべきかどうかは分からないが、確実にドゥーニャの内面がはじめから最後にかけて変わっていっていることが分かる。
 それにしても、ドゥーニャの「プレストゥプレーニエ」はどこだったのだろうか。読み終えてふと振り返ると、そんな思いに駆られた。ドゥーニャも他の登場人物と同じように、必ずどこかで何かを「踏み越え」ているはずだ。そこが、具体的にどこかが見つからない。しかし、先ほど述べた内面の変化のように、もしかしたら、ドゥーニャの「プレストゥプレーニエ」はドゥーニャ自身の中にあるという結論は、曖昧すぎるだろうか。
 ドゥーニャは最後、ラズミーヒンと結婚する。これは、『罪と罰』の中では数少ないであろう、幸福な結末だ。互いに愛し、結婚したことが見て取れるからである。だからこそ、ドゥーニャには幸せになってほしいと思う。ドゥーニャは今まで、我々には計り知れないくらい、家族や仕事や人間関係で、散々苦労し、悩んできたはずだ。今度は、ドゥーニャが主人公となり、明るく幸せな一幕を見せてくれるくらいになってほしい。ラズミーヒンといつまでも仲良く、そして、今までの不幸を覆すような、温かさに満ち溢れた家庭を築いていってほしいし、そうなるべきだと心から感じた。

 林英利奈

 この物語には自己犠牲という影のキーワードがまとわりついている。ドゥーネチカもその一人だ。ラスコーリニコフの妹。美しく毅然としていて、悪魔に魂を売り渡さぬ勇気があり、けれど彼女はひれ伏す。家族という名の檻に。
 ソーニャの時にも書いたが、彼女もまた『すべてを見捨てれば一人助かりうる』人間であるのかもしれない。私はロシアのあの時代のことをよく知らない。高校では日本史をとっていたし、近代史で詳しいのも日本だけだ。だから、女性一人で生きていける時代ではなかったのかもしれないが、少なくとも重荷にしかならない家族よりはましなのではないか。彼女は教養があり、なにより美しい。そんな彼女にとって、兄と母は、縛り付ける鎖ではないのだろうか。
 兄との関係を考えてみる。彼女にとって兄はかつて、誇りともいえる存在だったのではなかろうか。頭がよくて、格好いい。かつてロジオンは『気弱な、いじけた青年』とは正反対だった。つまり、『陽気で、大胆な』少年だった。
 頭もよく、陽気で、大胆な兄。母の期待を一身に受けた彼のことを、誇らしく思うのが自然でなかろうか。少なくとも、ただの子供であった頃は。
 だが、それが成長すればどうだろう。ドゥーネチカの立場に私があれば、まず家族を恨むと思う。息子を大学にあげ、ゆくゆくは一角の人物になることばかりを夢見る母親。三年前から会っていない、ただ金をせびっていく兄。自分はなんとかして食いぶちを稼がなければならない。家庭教師として向かった家に居るのはセクハラおやじ。――逆恨みだろうがなんだろうか、現状を憎まずにはいられないと思う。
 挙句彼女は、家族のために自分が合法的な二号になるのを許さざるを得なくなる。これが、激怒の種にならないであろうか。
 思うに、彼女には反抗期が存在しなかったのではなかろうか。近年、反抗期のない子供たちが増えている。ドゥーネチカもそのパターンなのではなかろうか。そして、ロジオンもそうであったのでなかろうかとも思うが、それは置いておいて、ここでドゥーネチカに関して思い出した、一つの本がある。『母が重くてたまらない 墓守娘の嘆き』という本だ。これは現代において『あなたのため』と言いながら娘の人生を奪っていく母親の実像を描いた本である。ここに出てくる『墓守娘』は、まさしくドゥーネチカだとおもう。そして本の中で語られていることは、ロジオンにも当てはまる。
 母プリヘーヤは『優秀な』ロジオンの人生を奪い、『私たちの未来のため』と言ってドゥーネチカの人生を奪う。母親にその自覚はない。ドゥーネチカはただ、『墓守娘』となり果てる。
 私はこの『母が重くてたまらない 墓守娘の嘆き』を読んで、ああ、自分と似ていると思った。今でこそその気はないが、うちの母も『教育ママ』であった。私自身、学問とはまた違う方面に進んでしまったために、そういったこともあきらめたようだが、一番上の姉にとっては、期待をかける母親の存在は、重かったのではないだろうか。ロジオンも、重かっただろう。そしてそれを傍で見ているドゥーネチカは、複雑だったのではないだろうか。年長ずるにつれ、ただ格好いい、誇らしい兄という眼だけでは見られなくなるだろう。自然と母親は、ドゥーネチカに金銭を得てくるという期待を向けるだろう。
 家族のために一角の人物となることを期待される兄と、その兄のために身を粉にして働くように求められる妹。
 立場だけならば、私はロジオン寄りであった。けれど、妹という言葉は、私自身の人生について回っていたものでもある。私は三人姉妹の末っ子だった。生まれた時から妹扱いをされてきた。
 妹というものは、姉や兄が思うほど、ただ甘やかされる、要領のいい存在ではない。自分の立場というものを一番崩せないのも、また妹だと思う。彼女は崩せない。母親にとっての、『いい子』の自分を。
 ドゥーネチカという、彼女は、自分がどう在るのかを、自分が自分のために存在しているとは、言いきれないのだろう。彼女は現状、家族のために存在している。それ以外生き方がわからないから、彼女は奉仕する。私にとってドゥーネチカはそんな様に思われるひとだ。ソーニャが私にとって、本当は強かな人間なのではないだろうかと思われたのと、正反対に。ドゥーネチカは妹で、ソーニャは姉だ。前者には誇るべき兄が居て、後者には保護すべき弟妹が居た。そのせいかもしれない。
 自己犠牲というワードが、まったく異なる二人の偶像こそが、私にとっての『罪と罰』最大の焦点なのかもしれない。

 宮崎 綾

 ドゥーニャは、賢いがきな臭いところがある。
 ルージンとの結婚も兄のために自分の身を売るが、それもどこか打算的である。
 その前にも住み込みの家庭教師の仕事で、スヴィドリガイドフとの問題。
 スヴィドリガイドフはその後も出てくる。ロジオンが服役すると、彼の持っていたお金で彼女はラズミーヒンと生活するのである。
 ドゥーニャはいつも人のために動いているように感じる。自分の身近な人のために打算的な自分の身を売るような行動にも出る。けれども、本人は良いかもしれないが、その犠牲になってもらう身近な人々になってみたら、嫌な気分であると思う。
 また、彼女は魔性とも言える力で人々を魅了する。スヴィドリガイドフはもちろんのこと、ルージン然り、ラズミーヒン然りである。
ルージンはドゥーニャの容姿や品格のみならず、境遇や貧乏であることにも惚れ込んでいた。婚約が破棄された時ですら、ルージンはルージンなりにドゥーニャを愛していたことが伺える。
 一方、ラズミーヒンは一目惚れと言っても良いような速さで恋に落ちているし、兄であるロジオンが犯罪者であるとわかった後ですら、彼女から離れない。とても誠実にドゥーニャを愛しているように見える。
 スヴィドリガイドフはと言うと妻が死んだ後、ドゥーニャに多額の財産を寄与する。迷惑をかけたお詫びと言ってはいるが、愛している女性でなければそんなことはしないに違いない。
 ドゥーニャという女性は非常に魅力的であることがわかる。
私は誰よりも平凡な人間であるから、ドゥーニャのような女性の気持ちがわからないが、そのような魅力を持っているからこそ、周りの人々に献身的な行動を取れるのだと思う。
でも、結局選んだのはラズミーヒンである。
ラズミーヒンはロジオンの友人である。ある意味でロジオンはラズミーヒンとの結婚を示唆している。ラズミーヒンにはドゥーニャを護るように言っているからである。
 ロジオンの幸せは、ドゥーニャが本当に幸せになることである。ラズミーヒンとの結婚はドゥーニャに幸せをもたらしたと思う(たとえロジオンが犯罪者だと露呈していたとしても)。ところがドゥーニャはロジオンのために好きでもないルージンと結婚していた。
 このような点を踏まえて、私はドゥーニャを好きではない。お門違いな、そんな行動に嫌気が差す。
 ロジオンのためと思いつつ、結局は自分の自己満足のための犠牲なのである。ロジオンからしてみれば、愛する妹ドゥーニャが幸せなことの方が自分の成功よりも大切なのである。
 ロジオンもそのような点に怒っていたのだと思うし、だからこそロジオンは酒場でのマルメラードフの話を聴き、ソーニャのことも放ってはおけなかったのだと思う。
 でも結局、ドゥーニャは最期にはラズミーヒンを選んだ。
ラズミーヒンはロジオンに母娘を頼まれた人間である。息子と兄の役をラズミーヒンが背負うことになった。母の気が狂った時もラズミーヒンはドゥーニャを支えていたし、死んだ後もラズミーヒンとドゥーニャは一緒であった。ロジオンの出所後のことも考えて、みんなで一緒に住むと決めているようであった。
 もし、ルージンだったらどうだろうか。
 きっとドゥーニャを捨てるような気がしてならない。
 ドゥーニャは兄によって苦労させられたけれど、兄によって幸せな生活をしていたのである。
 ドゥーニャにとって兄ロジオンは、人生においてなによりも大事なことであったのである。
 ルージンはそれを理解できなかったが、ラズミーヒンはそれを理解している。
 そのような点においても、ラズミーヒンと結婚したことはドゥーニャにとって良かったことなのであると思う。

 引間 沙代子

 気高く美しいという表現がよく彼女、ロジオンの妹であるアヴドーチャ・ロマーノヴナ・ラスコーリニコワ、通称ドゥーニャに使われていることがある。物語を読み進める内に理解できるとは思うが、その通りドゥーニャは家族思いの大変素晴らしい女性だ。けれどその表記のせいか、私にはふと疑問に思うことがある。それは、ドゥーニャが考える「自分自身の幸せ」についてだ。彼女にとっての幸せとはいったい何なのだろう。母の幸せなのか?兄の幸せなのか?つまりは家族の幸せであり、純粋に彼女自身だけの幸せというものがこの作品の中には(ラズミーヒンを抜かして)出てこない。家族が幸せであるなら自分も幸せと考えるドゥーニャの献身的な性格は彼女に損を与えることはあっても、決して得は与えてくれない。それをドゥーニャも理解しているだろうに、それでも尚、蛇の道を選ぶのは彼女の生まれ育った環境や家族が形成した彼女の性格のせいなのだろう。作中ではそんな彼女に思いを寄せる男が三人ほど現れる。それは彼女の純粋で気高く優しい気性と、美しさが伴って成せたことではあろうが、私にはそれが少し無理のあるように感じてならない。まず冒頭に出てきた後、それから暫くして中巻の後半辺りからやっと動き出すスヴィドリガイロフというドゥーニャの元雇い主がいる。この男は幾つも歳の離れたドゥーニャを盲目的に愛し、そのせいで自身の妻をも殺してしまう大変卑劣かつ愚劣な人間だ。恋愛に年齢を持ち込むつもりはないが、それにしてもドゥーニャからしたらこの男に言い寄られるのはいい迷惑でしか無かっただろう。どんなに酷い扱いを受けようと、追い出されるまで決して逃げなかったドゥーニャは女性として尊敬に値する。だがしかし、少し角度を変えて考えてみると、ドゥーニャとスヴィドリガイロフの間にもしかしたら肉体関係などがあったかもしれない、と自然に考えることも出来てしまう。それはドゥーニャが男の財産を目的としたものなのか、それとも男が強要したものなのか、私は後者として考えるが、そう思わない読者もいるだろう。スヴィドリガイロフはドゥーニャを愛しすぎて長年連れ添った妻を殺してもなんとも思わないような男だ。そんな彼が果たしてドゥーニャに手を出さずに居られたのだろうか?そんな男に天使のような心を持ったドゥーニャは抵抗できたのだろうか?ここで思い出すのが、私が最も興奮した場面の一つである、ドゥーニャがスヴィドリガイロフに拳銃を突きつけるシーンである。人を簡単に死に至らしめる黒い塊を持って、ドゥーニャは何を考えたのだろうか。作中の表記に惑わされてはいけない、何故なら作者ドフトエフスキーは真実を書くことをほんの少し躊躇っているからだ。あの時、ドゥーニャが放った弾丸はスヴィドリガイロフに当ることは無かった。そしてそれが始から分かっているように私は物語を読み進めていった。ただ漠然と、ドゥーニャがあの男を殺すことはないだろうと私は分かっていたのだ。それはもしドゥーニャがあの男と一度も肉体関係に陥っていなければ、人を殺すという行為が絶対的な悪だと信じていたからだと説明することもできるし、また、もしスヴィドリガイロフと一度でも関係を持っていたなら、彼女の中に生まれた情的な何かが起因したと言えなくもない。私にはそれがどちらなのか、はたまたまったく違う事柄なのか今はまだ判断することは出来ないが、それでも物語を読み進める内にドゥーニャがスヴィドリガイロフを殺すことないだろうと分かっていた。スヴィドリガイロフを嫌な男だとは思うが、私は彼がどうにも憐れに見えて仕方がなかった。もちろん私がドゥーニャの立場だったらあんな男ごめんであるが、この物語の中で完璧なる悪として登場する彼がどうも嫌いにはなれなかった。スヴィドリガイロフはドゥーニャを愛してしまっただけで、彼の狂気はそこに尽きるのだ。もし彼がドゥーニャを愛さなければ妻を手に掛けることも自殺をすることもきっと無かっただろう。彼はなぜ自殺をしたのか、自殺という行為で自分自身を解放、つまり自由に出来ると考えたのか、それは少なからず妻を殺したという罪の意識とどんなに愛しても返ってくることのないドゥーニャの思いから自分を解き放てると思ったからだろう。そこまで読んだとき、私は一瞬だけドゥーニャが魔性の女に見えてしまった。ルージンとの婚約破棄を経て、最終的に兄の唯一の友人であるラズミーヒンと結ばれる。純粋な心、人を惹きつけてしまう彼女の魅力がもたらした波乱万丈な人生だ。私はどうあっても彼女のような光にはなれないだろう。そしてそれを望むことも無いだろう。何故なら彼女は私にとって眩しすぎる存在だからだ。