『清水正・ドストエフスキー論全集』第五巻「罪と罰」論余話の装丁

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清水正ドストエフスキー論全集』第五巻「罪と罰」論余話の装丁見本が出来上がってきた。「新潮」三月号、「江古田文学」72号73号には広告を載せておいたが、全国の本屋に並ぶのは四月末以降になる予定である。
去年の暮れには出す予定であったが、とにかく校正に時間がかかって刊行が遅れることになる。直接、問い合わせなどくださった方々にはたいへん迷惑をかけているが、マイペースでやっていくよりほかはない。





「新潮」三月号、「江古田文学」73号に載せた広告

ドストエフスキー論全集五巻のあとがきを紹介しておきます。

「第一部『罪と罰』再読」は本全集第四巻「手塚治虫版『罪と罰』論」の続編にあたる。手塚版『罪と罰』を批評する過程で、原作『罪と罰』論を改めて検証したいという衝動にかられて書き継いだ。本全集第三巻に収めた『罪と罰』論と重複する部分もあるが、繰り返しを恐れず積極的に書き進めた。一刀両断、裁断的な批評ではドストエフスキーの作品は検証しきれないという思いがあり、今後ともネジ式螺旋批評を展開していきたいと考えている。
「第二部『罪と罰』論余話」は主にルージンとレベジャートニコフに照明をあてて『罪と罰』の再検証を図った。三十歳過ぎに『罪と罰』論を書いたときは、レベジャートニコフにまともな照明をあてなかったので、今回は彼を徹底的に見ることでドストエフスキーにおける革命思想に肉薄した。ドストエフスキーにおける神と革命の問題は一筋縄ではいかないことを改めて痛感した。
「第三部 ヒングリーの『ニヒリスト』をめぐって」はロシア十九世紀中葉の現実にロジオン・ラスコーリニコフを置いて検証した。当時、革新的な思想を抱く学生たちは大学改革や皇帝政治に対する不満を明確に宣言し、積極的な活動を展開していたが、ロジオンは非凡人の思想にのめり込み、高利貸し殺害の妄想に耽った。ロジオンの友人にただ一人の革命思想家が存在しなかったことの不自然さに注目すれば、彼がいかに元政治犯の作者によって注意深く描かれた存在であったかは明白である。「民衆の子」ネチャーエフは革命家としての生涯を獄中で閉じた。自らを「非凡人」と錯覚したロジオンは二人の女を殺しておきながら、自らの殺人行為に罪の意識を感じることなく、エピローグにおいて復活の曙光に輝いた。どちらが美しい青年なのか。『悪霊』のピョートルとネチャーエフはあきらかに異なっている。ここでもまた、神と革命の問題が改めて浮上してきた。
「第四部 工藤精一郎訳『罪と罰』の二つの問題場面」は、翻訳だけで『罪と罰』を読む危険を警告するものとなった。マルメラードフの告白の場面における言葉「わたしが豚でない」が「わたしが豚だ」とまったく逆の意味に訳されたことは、単なる語学上の問題ではなく、要するに『罪と罰』の読みに関わる問題なのである。新潮文庫は若い読者を含め多くの人たちが愛読している定評のある文庫なのであるから、明白な誤訳に関しては早急に対応する必要があろう。
「第五部 現在進行形の『罪と罰』」には四編の批評を収録した。 「『罪と罰』の深層舞台を観る」ではスヴィドリガイロフとドゥーニャの関係の深層領域に照明をあてた。ドストエフスキーの文学作品に直接的な性描写はないが、その描かれざる男と女の性関係の領域に踏み込んだ批評である。 「ロジオン宛の手紙に見る愚者プリヘーリヤ」は、ロジオンの母親がいかに〈良い母〉ではなく〈愚かな母〉であったかを、手紙を検証することで明確にした。ロジオンは母を殺す代わりに老婆を殺したような青年で、そのように育てたのが母のプリヘーリヤであった。「〈幽霊〉〔привидение〕マルファと〈幻〉〔видение〕ソーニャ」は、エピローグにおいて突然、ロジオンの傍らに現れ出たソーニャは実体感のある〈幻〉であった可能性もあるということを指摘した。『罪と罰』は現実を舞台とした小説であると同時に、きわめて霊的な領域を含んだ小説であることを看過してはならない。 「神か革命か」は、文字通りロジオンの〈踏み越え〉と、カラコゾフの〈皇帝暗殺未遂〉を巡って、ドストエフスキーの隠された意図に探りを入れた。ロジオンが諸悪の根源として〈皇帝〉を視野に入れていなかったはずはない。ドストエフスキーは当時の優秀な、恐るべき読みの能力を備えた検閲官の眼を、ロジオンの「おれにアレができるだろうか」の〈アレ〉で眩ました。ドストエフスキーのような小説家を理解するには百年、二百年の年月を必要とするということである。
 本全集に収めた論考のうち第四部だけは「江古田文学」に発表したが、あとはすべて書き下ろしである。四十年もの間、よく飽きもせずドストエフスキー論を書き続けているものだと、時たま思うこともあるが、わたしはドストエフスキーを語り始めると体温が三度くらいあがっているのではないかと思うほど熱くなる。ドストエフスキーを語り、批評することが、ますます面白くなっている。特に『罪と罰』は何度批評しても飽きることがない。おそらくこれからも『罪と罰』論を書くことになると思う。
平成二十二年一月一日