随想 空即空(連載114)内村鑑三の不敬事件を巡って

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随想 空即空(連載114)内村鑑三の不敬事件を巡って#ドストエフスキー清水正ブログ#

清水正

 

 植村正久は「不敬罪キリスト教」(『福音週報』第五十号、明治二十四年二月二十日)において次のように書いている。

 

  今日はネロの時にあらず、またテオクリシアンの代にあらず。ゆえにキリスト教徒は幸いにして迫害に遭うの恐れなきことを得。これ神の恩恵、昭代の賜というべし。しかれども、時としては、社交上政治上において、吾人の良心を試煉するの出来事起こらざるにあらず。刀鋸鼎钁の鍛錬は幸いにして、今のクリスチャンの免るるところなれど、紛々たる世上の俗論、道理もなき恐嚇、毀誉褒貶、専制の王として最も畏るべき習慣等に対して、常に敏捷なる良心を維持し、分釐も神の聖旨に違わざらんことを勉め、断然濁世の習わしに反対するは、キリスト教徒の本色にして、今もなおローマ帝国の時代と異なるものなきなり。

  先日高等中学校において、内村鑑三氏らが勅語に対して低頭稽首して拝をなさざりしとて、一場の紛議を生じたることは、読者の記憶せらるるところならん。吾人は今上陛下を尊敬す。陛下に対して、敬礼を表せずんばあらず。その尊影に対し、勅語に対し、同一の精神に基づける敬礼をなしたればとて、その智愚、得失は暫く置き、これをもって、偶像を拝するなり、十戒に背戻することなりとは容易に断言すること能わざるなり。しかれども、この事たるや、単独の問題として論ずべきものにあらず。その連帯するころ極めて広く、その関係甚だ重大なるものあり。キリスト教徒は賢所において、参拝するも不可なりや。キリストを信ずる海陸の将校士官兵卒は、靖国神社において、神官の司る祭典に列なり、これに列なるのみならず、また拝を遂げ、祭文を読み、百事キリスト教を信ぜざるものと共に、その祭りに与ることを得るや。これらの問題は彼の内村氏らの事件と多少の関係を有するものにて、キリスト教徒の明らかに決定するを必要とするものなり。

  吾人は新教徒として、万王の王なるキリストの肖像にすら礼拝することを好まず。何故に人類の影像を拝すべきの道理ありや。吾人は上帝の啓示せる聖書に対して、低頭礼拝することを不可とす、またこれを屑とせず。何故に今上陛下の勅語にのみ拝礼をなすべきや。人間の儀礼には、道理の判然せざるもの少なからずといえども、吾人は今日の小学中学等において、行なわるる影像の敬礼、勅語の拝礼をもって、ほとんど児戯に類することなりといわずんばあらず。憲法にも見えず、法律にも見えず、教育令にも見えず、ただ当局者の痴愚なる、頭脳の妄想より起こりて、陛下を敬するの意を誤り、教育の精神を害し、その間に多少の紛議を生ずべき習慣を造り出し、明治の昭代に不動明王の神符、水天宮の影像を珍重すると同一なる悪弊を養成せんとす。吾人はあえて宗教の点よりこれを非難せず、皇上に忠良なる日本国民として、文明的の教育を賛成する一人として、人類の尊貴を維持せんと欲する一丈夫として、かかる弊害を駁撃せざるを得ず、これを駁撃するのみならず、中学校より、また小学校より、これらの習俗を一掃するは国民の義務なりと信ずるなり、内村氏がその初め勅語を礼拝せざりしは、宗教の点において疑うところありしか、或いは吾人と同一の考えを抱きたるがため、礼拝をなすに躊躇したるものか、いずれにもせよ、吾人はその心術の高明なりしに感服せずんばあらざるなり。これと同時に氏らがその後に至りて、俄然これを礼拝し、金森、横井諸氏がこれを賛成したりと聞きて、深くその挙動を怪しまざるを得ず。

 第一高等中学校は、内村氏が志を改めて、勅語を礼拝せるにもかかわらいず、氏に勧告して辞表を差し出さしめたりと聞く。勅語の礼拝は、いかなる法律、いかなる教育令によりて定められたることなるや。事の大小こそ異なれ、運動会等の申合せと毫も異なることなく、全く校長その他自余の人々の頭脳より勝手に案出せるものに過ぎざるなり。これがために教授の職を解くに至る。吾人はその理由を知るに苦しまざるを得ず。

  勅語の拝読を慎むは、権威を重んずるの趣意に出しことならん。学校の秩序を保ち、慎重従順の風を養成するの結構ならん。その策の得失は、吾人これを論ぜず。しかれども、この一事に重みを置き、これがために一人の教諭を免ずるに至るほどに熱心なる学校は、何故に生徒のモッブ然たるを不問に置くや、何故に壮士的の運動を擅にせしめたるや、何故に秩序を紊るの行を容赦するや、何故に生徒を恐れ、生徒の意を迎うるに汲々たるや。吾人は当局者のためにすこぶるこれを惜しまざるを得ず、その自家撞着の甚だしきに驚かざるを得ざるなり。(『植村正久著作集』第一巻 289~291)

 

 植村正久は正宗白鳥に洗礼を授けた牧師である。内村鑑三の不敬事件に関しては様々な人たちが意見を述べている。先に記したように小沢三郎が『内村鑑三と不敬事件』で十全な実証的研究を刊行している。おそらく、この著作を越えるものは今後とも出てこないだろう。当時の新聞や雑誌に載った記事など小沢は実に丹念に当たっている。一読すれば、不敬事件を巡る世論の動向を一望することができる。今回、植村正久の見解をとりあげたのは、彼の見解が実に的確に不敬事件の本質を突いていると思えたからにほかならない。内村鑑三研究は盛んだが、それに比すれば植村正久研究は影が薄い。現にわたしなどは今回はじめて植村正久の書いたものを読むことになった。正宗白鳥内村鑑三の演説に魂を魅了されたことなど折に触れて書いているので、植村正久の印象はますます薄くなる。しかしここに引用したものを読めば、植村正久が論ずる対象に対して実に客観的、冷静な眼差しを注いでいるかが明白である

    わたしは一読してほとんどのことを尤もと納得したが、しかし同時にどうしても理解できないこともあった。天皇か神かという究極の二者択一の問題がすっぽり抜けている。内村鑑三の場合も同じであったが、天皇が現人神としてたち現れてくれば、キリスト教徒は現人神を拒んで自らが信じる唯一神を選ぶほかはないだろう。しかし内村鑑三勅語を前にして礼拝を躊躇した。この躊躇という曖昧さの中に逃げ込んだと言ってもいい。内村鑑三が文字通りのキリスト教徒であれば、躊躇ではなく、きっぱりと礼拝を拒否しなければならなかったはずである。内村鑑三は二つのJが成立可能だと思っていたようだが、そんな中途半端な姿勢はキリスト教では許されないのである。みっともないのは、一度あいまいな態度を取ったにもかかわらず、非難されて後に、代理人によって礼拝を受け入れていることである。礼拝を断固として拒む姿勢を一貫していれば、キリスト教徒の側からも熱烈に支持されただろうし、反対側の者たちにも一種の感動を与えただろう。日本人の大半は曖昧な領域を無自覚のうちに生きているが、時に流行病に罹患したかのような熱狂的一義に身を委ねることがある。礼拝式で内村鑑三の曖昧な態度を目撃していた第一高等中学校の学生の反撥憤怒はその一例である。

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随想 空即空(連載113)内村鑑三の不敬事件を巡って

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随想 空即空(連載113)内村鑑三の不敬事件を巡って#ドストエフスキー清水正ブログ#

清水正

 

 絶対者二つを同時同等に受け入れるということは絶対を相対化することであり、絶対が自らの絶対性を固持する限りそれを許容することはあり得ない。イエスは神である限り相対化されることを許容しないし、天皇も絶対である限り相対化を許さない。鑑三が二つの相容れない絶対を相対化してでも受け入れたいのであれば、そこには一種のニヒリズムが生じることになる。が、不思議なことに鑑三においては絶対の相対化に関するきちんとした認識がない。ここに鑑三の論理と激情的確信の特徴がある。鑑三には絶対の相対化によって生じるニヒリズムと自嘲的笑いがない。

    鑑三は芝居、小説に対して信仰上からも嫌悪を抱いていたようだが、人間存在を複合的にとらえる視点が欠けている。こういった人間は落語や漫才や劇などを通して人間存在の深淵をかいま見ることができない。特に指摘しておきたいのは〈笑い〉の欠如である。絶対を相対化するニヒリズムとユーモア精神の発露が希薄である。なにごとに対しても大まじめで、真剣に取り組むのはいいが、そういった頑固で一途な自己存在を相対化して笑いの次元に昇華することができないので、あれかこれかの二者択一を前にした自らの〈曖昧〉な態度を茶化してみせることもできない。

    こういった鑑三の性格は彼自身を最も苦しめることになる。なにしろ鑑三は絶対を相対化しておきながら、その相対化を認めずに、相対化した絶対を依然として傷つかずの絶対として崇めたいと思っているのである。本来、この自己矛盾の論理的解決はないし、感情の次元においても納得しがたい。鑑三が敢えて選んだ途は、曖昧を曖昧なままにして、この解決しがたい自己矛盾をやり過ごすことであった。

 鑑三は不敬事件によって病を得、二番目の妻加寿子を亡くした。鑑三の内部的問題にいっさい踏み込まず、献身的に仕えた加寿子は夫の病に感染し若くして病没する。鑑三の一途な性格はタケとの結婚生活を破局に追いやり、加寿子を精神的にも肉体的にも追いつめてしまう。鑑三が加寿子の死に痛恨の極みを味わったことはまちがいない。

    鑑三は『キリスト信徒のなぐさめ』第一章「愛する者の失せし時」で癒しようのない悲しみと自責の念を綴った。その鑑三の思いを否定する者はいまい。しかし先にも触れたが、この第二の妻加寿子に先立たれた痛恨の書は、鑑三が岡田静子と四回目の結婚(一八九年十二月)の直後(一八九三年二月)に刊行されている(評伝によれば鑑三は一八九二年頃に「築山もと」と三度目の結婚をしたことになっているが、詳細は不明で今日にいたるもはっきりしたことが分かっていない。評伝作家によってはこの結婚を数えに入れず、鑑三の結婚を三回と見なすものもある)。

    四度目の妻静子がこの書、特に「愛する者の失せし時」をどのような気持ちで読むのか、鑑三は考えたことがあるのだろうか。鑑三は自分の悲しみ、苦しみを重んじる余り、眼前の他者である妻静子への配慮を著しく欠いている。いつでも自分の意志や感情が最優先され、身近なひとを思いやることができない。静子が武士の娘で家父長的で封建的な妻の分を守っていた献身的な妻であったから、ことは大事に至らなかっただけで、鑑三における〈揉め事〉の要因は家庭内においても依然として伏在していたと言える。

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アニメ『TOM THUMB』(NIKOLAY LICHTENFELD and IVAN KOSTIURIN)を観る アニメ版・二十一世紀の黙示録(連載16)

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アニメ『TOM THUMB』(NIKOLAY LICHTENFELD and IVAN KOSTIURIN)を観る

アニメ版・二十一世紀の黙示録

清水正

連載16

飛行機


 飛行機は最初の方のシーンと最後の方のシーンに登場する。飛行機は俯瞰する視点である。〈蟷螂〉の抜け殻の外套が天空から地上に落下していくのを上から見ることのできる視点である。TOMの生きる世界に交じり合うことなく、謂わば拱手傍観して客観的に観察できる立場にある。アニメで展開された出来事を冷静に俯瞰的に眺められる点において理性的であると言える。作者の自作品に向けられた眼差しは当然の事としてこの飛行機の視点及びそのさらなる上空からの視点に拠っている。


 アニメ世界はアニメ独自の秩序を持っており、それは現実世界の秩序に沿っている場合と大きく逸脱する場面を持っている。アニメの夢幻的世界をリアルな現実世界の規範で推し量ることはできない。男ばかりが住んでいる小屋、女ばかりが住んでいる館、縫いぐるみのシカやクマなどとの壮絶なバトル、様々に変容する〈蟷螂〉の存在と彼が主宰した祈祷式や晩餐会など、リアルな観点からすれば納得のいかない事柄に満ちているが、しかしこれらに仕掛けられた謎に着目し、その象徴的な意味を解読していけば、この夢幻的世界が現実世界の過去と現在とを先鋭的に反映していることが分かってくる。
 このアニメを観た子供たちや批評・解読の訓練のない者たちは、生理的感覚的次元での素朴な感想を抱くにとどまり、仕掛けられた様々な謎にさえ気づかないかもしれない。それはそれでいい。このアニメは観る者の魂に直接的に働きかけてくる。へたをすれば作品の魔術的空間に呑み込まれてしまう者もいるかも知れない。しかしそういった危険な要素を多分に秘めているからこそ、この作品は魅力的なのである。
 観る者に戦慄的な波動を送り続けているこのアニメを観て、安穏としていられる者は、作者と魂の交流をはかることはできないだろう。この作品は、視聴者の一人一人に、人間とは何か、神とは何か、いかに生きるか…といった根源的な問題を突きつけている。
 人間は思考する動物であり、創造的な存在である。世界の上空を飛び去っていく飛行機はアニメ『TOM THUMB』世界の一登場物であるが、世界を俯瞰的に冷静客観的に見るその一点において狂気的な夢幻世界の混沌に巻き込まれない〈理性〉の役割を担っていたように思える。
 飛行機の視点はTOMの世界を上空から俯瞰し、監視することはできる。が、その他の場面に眼差しを注ぐことはできない。飛行士はTOMが〈透明石〉を通してみる世界を、様々な役割を持った〈蟷螂〉が見る世界を、森の中で繰り広げられたバトルを、女の館での〈蟷螂〉主宰の祈祷式や晩餐会の模様を、ましてや女の館の地下室に暮らすネズミたちの生活ぶりを見ることはできない。アニメ世界の様々な様相を照らし出しているのはカメラである。このカメラは様々な機能を備えており、視聴者はその機能によって映し出された世界をそのまま享受することができる。
 アニメ『TOM THUMB』において人物が歌を口ずさんだりハーモニカを吹く場面はあっても、言葉を交わすことはない。従って視聴者は人物たちが何を考えているのかを言葉によって知ることはできない。視聴者は彼らの行動や仕草や表情を通して彼らの感情や心理を直感したり推測したりするほかはない。
 TOMは〈こちら側〉の世界に留まっていられる少年ではなかった。TOMは躊躇することなく、木こりたちの後に従った。このことがTOMの最初の冒険であったのか、それとも日常的に繰り返されていた行動であったのかは不明である。が、たとえ日常的なことであったにせよ、視聴者が見せられた世界がたった一回限りの世界、つまりTOMにとって未知の世界探訪であったことに間違いはない。
 日常的に繰り返されるのは森の中での伐採や野原での休息ぐらいのもので、森の中の奇妙な動物たちとの接触やバトルはすでに日常的現実を逸脱している。TOMや木こりたちは森の中で〈巡礼者=蟷螂〉に出会うこともなかったし、象徴的な意味を付与された数字や絵の前に佇むこともなかった。これら様々な象徴性を付与された人物や数字を見せられているのは視聴者である。つまり視聴者はTOMの〈冒険〉を含んださらなる謎多き神秘的な世界へと参入しているのである。

清水正著『宮沢賢治・童話の謎――「ポラーノの広場」をめぐって』(一九九三年五月 鳥影社)

清水正著『ミステリーゾーン 謎がいっぱいケンジ童話劇場』 2001年3月 鳥影社

 

アニメ『TOM THUMB』(NIKOLAY LICHTENFELD and IVAN KOSTIURIN)を観る アニメ版・二十一世紀の黙示録(連載15)

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アニメ版・二十一世紀の黙示録

清水正

連載15

森の中の羅針盤、数字、絵をめぐって


 今まで、アニメ『TOM THUMB』を様々な視点から解読してきたが、今回はこれらの解読を踏まえたうえで、森の中に示された〈羅針盤〉、〈数字〉(3、4、7)、〈絵〉(シカ)に関して考察をすすめてみたい。まず画面左の〈羅針盤〉であるが、これは東西を示しており、木こりたちが西から東へと向かっていたことを示している。


 次に〈3〉〈4〉であるが、これらの数字に関しては、かつて『謎がいっぱいケンジ童話劇場』の第2章「『銀河鉄道の夜』と『風の又三郎』――〈三〉と〈四〉の関連」で言及したので、まずはここから引用することにする。

  C・G・ユングは『心理学と練金術』(池田紘一鎌田道生訳、人文書院)の中で錬金術の中心的公理としてマリア・プロフェティサの言葉「一は二となり、二は三となり、第三のものから第四のものとしての全一的なるものの生じ来るなり」をとりあげ、それに関しては「ここではキリスト教の教義の支柱をなしている奇数の間に、女性的なものを、大地を、いや悪そのものを意味する偶数が割り込んでいる」と書き、また「四は女性的なもの、母なるもの、肉体的なものの意味を、三は男性的なもの、父なるもの、精神的なものの意味を持っている」とも書いています。
  〈三〉はキリスト教の教義においては三位一体(父と子と聖霊)ですが、練金術ではその男性的神性を意味する第三のものから女性的なものとしての第四のものを呼びおこします。女練金術師・預言者マリア・プロフェティサの言う「第四のものとしての全一的なるもの」の数字は〈四〉のみに限りません。マリアの言う「第三のものから第四のものとしての全一なるもの」を、十字架上のイエスを際立たせた時〈三〉〈六〉〈九〉にあてはめればいい。「第三のもの」(三、六、九)はそれぞれ「第四のものとしての全一なるもの」(四、七、十)を生じさせるのです。従って、マリアの言う「第四のもの」は〈一〉〈四〉〈七〉〈十〉(数秘術的減算によって一、四、七に還元される二桁以上の数字も含む)ということになります。(99~100)

 

 アニメにおいて数字〈1〉は登場しないが、親方が担いでいた一本の〈斧〉を〈1〉と見なすことができる。この〈1〉が森の中に踏み込み、次に〈巡礼者=蟷螂〉が〈2〉のカードを森の大木に打ち付ける。〈2〉は和解と殺しの両義的意味を内包している。〈3〉は〈男性的なもの、父なるもの〉として森の木を伐採し、文明発展のために尽くす。が、〈3〉は〈女性的なもの、母なるもの〉としての〈森〉および〈森の住人〉たちと共生共存することができない。
 母なるものとしての〈4〉は、アニメにおいて森辺の〈野原〉に見いだすことができるが、すでに見ての通りこの〈野原〉はすぐに雪に覆われてしまう。この〈野原〉はそこで食欲を満たし、深い眠りについた木こりたちに永遠の憩いを与えることはなかった。彼らは再び森の中に踏み込み、そこで森の動物たちとの壮絶なバトルに巻き込まれることになる。結果は敵味方関係なく全員団子状に丸め込まれてしまうが、直後、団子は爆発し、やがて森の奥に一軒の館が現れる。はたしてこの女の館は、〈第四のものとしての全一的なるもの〉と言えるのだろうか。
 ここで、もう一度森の中にもどろう。最初の〈4〉は〈女性的なもの、母なるもの〉としての〈森〉自体を意味しているが、〈3〉はこの〈4〉と共生できない。〈シカ〉の絵が森の住人たちを現しているとすれば、〈3〉はこれらのものたちと戦わざるを得ない。〈シカ〉の絵の画面右に〈7〉の数字がおかれているが、このアニメにおいてはこの〈7〉こそが「第三のものから第四のものとしての全一的なるもの」を指示している。 ところで、画面には〈5〉と〈6〉がない。〈5〉は〈キリスト〉〈十字架〉であり、〈6〉は〈悪魔〉である。大胆な解釈を施せば、画面に不在の〈5〉〈6〉を内包していたのが〈巡礼者=祈祷師=予言者=預言者=呪術師〉といった様々な霊的要素を兼ね備えた〈斧虫=蟷螂〉だったということになる。つまり「男性的なもの、父なるもの、精神的なものの意味を持っている」第三のものとしての〈蟷螂〉が、森を通過して〈第四のもの〉(女の館)に向かっていたということである。


 女の館には〈七人〉の女が住んでいる。この館に生きた男は存在しない。壁に男の肖像写真が飾られているのと、テーブルの下に玩具の騎士や兵士が置かれているだけである。入り口の両扉にクマとシカの剥製の頭が飾られているが、これらを〈男性的なるものの死〉の象徴と見れば、この館には生きた男性の入館が拒まれていたことになる。この男性禁止の館にTOMが〈悪魔のボール〉を受け止めたことで許可されたことはすでに見た通りである。
 さて、この〈第四のものとしての全一的なるもの〉としての女の館で、〈蟷螂〉による祈祷式、晩餐式が執り行われたわけだが、その最終結果は〈第三のもの〉(木こりたちと動物たち)と〈第四のもの〉(女たち)とを混沌の渦の中に呑み込み破滅させることになった。
 〈蟷螂〉主宰の第二次晩餐式は六芒星に繋がれたものたちを激しい回転と揺らぎの渦に巻き込み死滅させることで幕を閉じる。〈第四のものとしての全一的なるもの〉の世界に敵対する者たちとの共生共存、融和はなく、あるのはただ破滅のみである。もし〈蟷螂〉が悪魔的存在としてのみ、このアニメに登場していたのだとすれば、彼は〈全一的なるもの〉の破壊という目的を達したことになる。


 注目すべきは〈蟷螂〉の目的達成が自らの〈死〉を代償としていたことである。死と破滅をもたらす〈蟷螂〉は愛と赦しの〈キリスト〉と対極の立場にあるが、それにも拘わらず〈蟷螂〉と〈キリスト〉がダブって見えることも確かである。
 ロジオン・ラスコーリニコフは〈斧〉で二人の女を殺した青年であるが、人類の全苦悩を背負ったソーニャの前に跪く青年であった。父親のフョードル・カラマーゾフに「わたしの天使」と呼ばれていた、神を信じる見習い修道僧アリョーシャは、にも拘わらず自らの内に〈悪魔の子〉が宿っていることを自覚していた。〈蟷螂〉が〈キリスト〉に、〈キリスト〉が〈蟷螂〉に変換することは、ドストエフスキーのような広大深遠な精神世界の芸術家のうちでは可能なのである。しかしここに魂の全一的な救いがあるとは言えない。
 アニメ『TOM THUMB』で〈蟷螂〉は感電死し、その抜け殻である外套は天空から地に落ちたが、その外套から水仙の花が咲き始める。〈蟷螂〉の死は未だ〈再生〉の希望をなくしてはいない。

 


 この場面で、TOMが〈蟷螂〉の外套からボタン(そこには〈斧〉と〈王笏〉を十字に重ねた絵がデザインされている)を一つもぎ取っていることを見逃してはならないだろう。TOMは、やがて再び、〈英雄=皇帝〉としてこのボタンを自らの胸につけ、「第三のものから第四のものとしての全一的なるもの」を目指す、大いなる冒険へと旅立つ者として設定されているのである。


 アニメ『TOM THUMB』において女の館における七人の女たちは、確かに女性的なものを感じさせるが、しかし〈女性的なもの、母なるもの、肉体的なもの〉を圧倒的に感じさせるのは農婦である。この豊満な肉体を備えた農婦は一度も正面を向くことなく農作業に従事していたが、TOMが水辺から倒木をくぐり抜け、木こりたちの後を追っていった時には、その姿を黙って見守っていた。


 この農婦の正体は明かされていない。TOMは木こりたちと一緒に小屋に戻ってくるが、アニメを観るかぎり、農婦が彼らと生活を共にしているようには思えない。農婦は人間の母親(TOMの母親)と言うよりは、豊穣な大地・肉体そのものの象徴であるかのようである。
 〈ここ〉から〈あちら〉側の世界へと出かけていったのは木こりやTOMといった男たちであり、農婦は母親として、大地として〈こちら側〉にとどまっている。男たちは〈斧〉を振るって大木を伐採し、森の住人たちとバトルを展開し、さらに森の奥の館にまで踏み行って、〈蟷螂〉主宰の魔術的秘儀に参加して〈処刑〉された。が、男たちはどういうわけか何事もなかったかのように小屋へと戻ってきた(斧を担いで出かけた親方以外は)。もしこの小屋に〈農婦〉が住んでいて、木こりたちを迎え入れていたのだとすれば、灯りの点いた〈四つ〉の窓に象徴されるように、まさにこの小屋は〈女性的なるもの、母なるもの〉を体現していたことになる。が、どういうわけか農婦の姿は見えない。

アニメ『TOM THUMB』(NIKOLAY LICHTENFELD and IVAN KOSTIURIN)を観る アニメ版・二十一世紀の黙示録(連載14)

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アニメ版・二十一世紀の黙示録

清水正

連載14

三つ葉のクローバーと緑色の〈透明石〉

――宮沢賢治作『ポラーノの広場』との関連において――


 このシーンがアップされたとき、わたしの脳裏に思い浮かんだのは宮沢賢治の長編童話『ポラーノの広場』であった。この童話に関しては拙著『宮沢賢治・童話の謎――「ポラーノの広場」をめぐって』(一九九三年五月 鳥影社)で詳細に解読しているが、ここでは簡単に振り返っておこう。

 主人公の名前はレオーノキューストである。わたしはこの名前をレオのキリストと読み解いた。レオは宮沢賢治が深く影響を受けたロシアの作家トルストイの名前〈レフ=Лев=ライオン〉である。宮沢賢治が主人公の名前に〈トルストイのキリスト〉を当てはめていたというのがわたしの見解である。タイトルの「ポラーノの広場」はトルストイが生まれ育った〈ヤースナヤ・ポリャーナ=Ясная Поляна〉〉に由来すると見た。〈ヤースナヤ=Ясная〉は〈Ясный〉(光る。清澄な。晴れた。明らかな)の女性形であり、〈ポリャーナ=Пляна〉は〈森林中・森辺の小草原〉を意味する。つまりトルストイの生地ヤースナヤ・ポリャーナは森の中に開かれた明るい野原ということになる。

 主人公レオーノキューストと若い農夫であるファゼーロとミーロが目指すのは〈ポラーノの広場〉というユートピア空間である。さて、そこに至るためにはどうしたらいいのか。宮沢賢治のアイデアは独創的である。つめくさの花(クローバー)を上から見ると数字に見える。この花の番号を追って〈五千〉のところにユートピアが存在するという設定である。作中には花の番号〈1256〉〈17058〉〈3426〉〈3866〉〈5000〉〈2556〉〈2300〉が記されているが、これらの数字を数秘術的減算すると〈3〉〈6〉〈9〉〈5〉のいずれかになる。すでに指摘したように〈3〉はキリストが十字架につけられた時(午前九時)、〈6〉は正午、〈9〉はキリストが十字架上で息を引き取った時を示している。〈5〉は〈キリスト〉〈十字架〉そのものを意味している。

 レオーノキューストたちはすでに〈5〉の地点(〈たった一つのあかし〉=キリスト)に立っているが、彼らはそのことを認識することはできなかった。彼らが目指すユートピアとしての〈ポラーノの広場〉は彼らが立っている《今、ここ》にある。しかし、未だ彼らは理想郷としての〈ポラーノの広場〉は《ここではない、どこか》にあると思っていた。詳細は拙著にまかせるとして、アニメ『TOM THUMB』に戻ろう。


 三つ葉のクローバーは蟷螂の顔を連想させる。次にウサギの脚先は〈三〉に分かれており、二本で〈六〉、次いで〈透明石〉を拾い上げる前脚が画面に現れ、計〈九〉となる。見事に〈3〉〈6〉〈9〉の揃い踏みとなる。これを『ポラーノの広場』の〈3〉〈6〉〈9〉〈5〉に重ね合わせると、中央に置かれた緑の〈透明石〉が〈たった一つのあかし=キリスト〉(5)にも見えてくる。アニメ『TOM THUMB』において〈キリスト〉のイメージは薄いが、この〈透明石〉が霊的、魔術的な力を備えていたことは確かである。



 アニメ『TOM THUMB』を『ポラーノの広場』に関連づけて見ると、木こりたちが森辺の草原で野苺を摘んで食べたり、身を横たえて眠りについたりする場面が蘇ってくる。ここで木こりたち(ここに親方は存在しない)は母性的な大地に安心して身をまかせ、幼児のごとく眠りについている。しかし、彼らは目覚めなければならない。


 春の温暖はたちまち冬の厳寒に変わる。草原には雪が降りしきり、木こりたちは寒さに震えて起きあがり、再び森へと踏み込んでいかなければならない。彼らにとっての〈ポラーノの広場〉は永遠の憩いを保証しない。(因みに、ここで朝から晩までの時間が、春から冬への時間へと変容している。アニメ世界において時間と空間は物理的時空から解放され、変幻自在に変容する)。

 レオーノキューストたちにとっては理想としての〈ポラーノの広場〉にたどり着くという目的があったが、木こりたちにとってはそういった明確な目的は与えられていたのであろうか。彼らは当初、まるで奴隷のように〈斧〉を担いだ親方の後に従って森の中に踏み込み、大木の伐採に従事していた。やがて木こりたちは森の動物たちと壮絶なバトルを繰り広げ、団子状に丸め籠められるが、この団子が砕け散って解放されると同時に、場面は変換する。

 突然、森の奥が開かれ、遠く雪原の果てに〈六〉の明かりが灯った館が現れる(館の扉は〈八〉に区切られているが、灯りが点いているのは〈六〉)。この〈七人〉の女たちが住む館で、〈蟷螂〉主宰の祈祷式と晩餐式が挙行されたわけだが、この館が、〈ポラーノの広場〉に匹敵する〈ユートピア空間〉と同じような性格が賦与されていたのだろうか。

 何度観返してみても、この女の館が〈理想郷〉とは思えない。館は〈呪術師=蟷螂〉による不気味な祈祷によって眩暈的、魔術的な空間と化し、第二次晩餐式では、その場にいたすべての者たちが死の淵へと呑み込まれていった。呑み込んだ〈魔術師=蟷螂〉は死の館を飛び出し、巨大な〈影法師〉となって空中を飛翔し、やがて彼もまた電線につかまり、感電死を遂げることになる。このアニメにおいて〈ひとつのあかし〉が愛と赦しのキリストと重なることはなかった。

 バケツを被った一本脚の案山子は十字架上で息を引き取ったキリストを連想させないわけではないが、カラスに左腕の藁をつつき出されているこの〈キリスト〉に再臨のイメージを抱くことはほとんど不可能に近い。

 

清水正著『宮沢賢治・童話の謎――「ポラーノの広場」をめぐって』(一九九三年五月 鳥影社)

清水正著『ミステリーゾーン 謎がいっぱいケンジ童話劇場』 2001年3月 鳥影社

 

アニメ『TOM THUMB』(NIKOLAY LICHTENFELD and IVAN KOSTIURIN)を観る アニメ版・二十一世紀の黙示録(連載13)

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アニメ版・二十一世紀の黙示録

清水正

連載13

 本編批評でTOMの〈六〉〈八〉〈九〉の象徴的意味に関して『罪と罰』の主人公ロジオン・ロマーノヴィチ・ラスコーリニコフに関連づけて言及したが、ここではもう一度、特に〈六〉に関して考察してみることにする。

 ロジオンは〈人殺し〉を意味する数字〈二〉に導かれて庭番小屋の〈斧〉を手に入れ、その〈斧〉で二人の女を殺害する。最初の老婆アリョーナ殺しは計画通りであったが、二番目のリザヴェータ殺しは予期せぬ出来事であった。しかしリザヴェータ殺しは作者ドストエフスキーが予め仕掛けていた犯行であった。ロジオンは犯行の前日の夕方、センナヤ広場で町人夫婦とリザヴェータの会話を耳にして、リザヴェータが翌日の晩〈七〉時に不在であると思い込んでしまう。しかし、リザヴェータは老婆アリョーナが殺された後に帰って来る。ロジオンは目撃者リザヴェータの頭上に〈斧〉を振り下ろし、彼女をも殺害してしまう。この二番目の犯行はロジオンが犯行前に呟いていた「本当に俺はアレをやるのだろうか?」(Разве я способен на это?)の〈アレ〉(原典ではэтоがイタリック体になっている)に繋がっている。ロジオンの〈アレ〉は単にがめつい高利貸しのアリョーナ婆さんを殺すことではなく、〈皇帝殺し〉をも意味していた。

 ロジオンのフルネームのイニシャル〈РРР〉を下から上に返すと〈666〉になり、これは悪魔を意味する。ところでTOMはどうであろうか。TOMは木こりの後について森へ向かうが、その時〈斧〉を所持していない。〈斧〉を持っているのは親方だけである。しかし森の中では親方以外の者たちも〈斧〉を手に大木を伐採していた。また、森の動物(シカ、クマ、オオトカゲ、ハサミ鳥)たちと壮絶なバトルを展開する時には、殺しの道具として〈斧〉を使っていた。ところで記憶に間違いがなければ、バトルの時にすでに親方は姿を消していた。壮絶な戦いを繰り広げた連中が団子状に丸められた時にも、そこに髭もじゃの親方の顔を発見することはできない。〈双頭の鷲〉の徽章を付けた親方はどこに行ったのか。

 TOMが女の館に着いた時、七人の女たちは勢ぞろいして彼を迎え、TOMめがけてボールを投げつける。ボールは〈六〉色にデザインされている。TOMはそのボールを両手(八本の指)でしっかりとつかむ。このシーンはアップでとらえられている。つまりTOMは〈悪魔のボール〉(六)を受け入れた〈第八番目の神〉として館へ入ることが許されたということである。


 TOMが〈6=悪魔〉でもあることを確認した上で、再び森の中のバトルの場面に戻れば、TOMが〈斧〉で〈親方=皇帝〉を殺していた可能性もあることになる。いよいよとんでもない謎解きになってきたが、このアニメは『罪と罰』における数字の象徴性と重なるところがいくつかある。

 羅針盤の針が東西を指して、画面一杯にアップされるシーンがある。人物たちは最初、画面左から右へと移動していた。つまり西から東へと移動していたことを示している。次に、この東西を示す針を時計の文字盤に重ねれば、〈西=9=3(古代ユダヤの時の数え方)〉、〈東=3=9(古代ユダヤの時の数え方)となる。ここでユダヤ人の時の数え方を優先し、木こりたちやTOMや〈巡礼者=蟷螂〉たちの移動を時計回りに重ねてみると、彼らは〈3〉から〈9〉へと動いていたことになる。〈3〉はキリストが十字架につけられた時(午前九時)を意味し、〈6〉は六時間後の正午、〈9〉はキリストが十字架上で息を引き取った時(午後三時)を意味する(因みに、〈6〉時から〈9〉時までの三時間、地は闇に覆われている)。


 


 女の館で、女が左手でラジオの針を七時五分の位置から水平に合わせるシーンがある。長針をロジオン、短針をアリョーナ婆さんと見、〈5〉をロジオンの屋根裏部屋、〈7〉をアリョーナ婆さんの住むアパートと見なして時計を七時五分から進めて長針が短針に重なった時(老婆殺害時間)を見ると七時三十八分である。この殺害時間を数秘術的減算すると〈9〉となる。ロジオンの住む〈5〉からアリョーナ婆さんの住む〈7〉までの距離は七三〇歩で、この数字を数秘術的減算すると〈1〉となる。

 西から東への移動を〈3〉から〈9〉への移動と見ると、キリストの六時間の受難の時と重なる。アニメ『TOM THUMB』においてこのことが予め認識されていたかどうかは不明だが、〈蟷螂〉の巡礼、祈祷、晩餐に続く飛翔と感電死をキリストの受難と十字架上の死、そして三日後の復活と重ねて見るのも面白い。〈蟷螂〉に愛と赦しのキリストを見いだすことはできないが、霊的なものの神聖と邪悪の融合した姿を見ることはできる。


 さて、ロジオンとTOMの決定的な違いは、ロジオンに〈斧〉を使っての〈踏み越え=преступление〉(〈老婆殺害〉〈皇帝殺し〉〈復活〉)の目論見が設定されていたが、TOMにあっては〈踏み越え〉(〈親方=皇帝〉殺し)の計画を見ることはできない。TOMは木こりの親方の後ろに従って森の中へと踏み込み、そこで木こりとしての仕事に励むだけである。〈斧〉は大木を伐採することに使われており、後にバトルの場面では動物を殺す武器としても使われるが、その〈斧〉が親方に向けられることはなかった。〈親方=皇帝〉が〈巡礼者=祈祷師=蟷螂〉と融合したとしても、TOMがこの〈蟷螂〉と正面きって戦うことはなかった。

 晩餐式でテーブルの下に隠れていたTOMは、〈蟷螂〉に発見され、直ちにつまみ出され、天井から吊されている。〈蟷螂〉を前にして〈TOM=6〉は余りにも無力である。〈蟷螂〉が館から巨大な影法師となって帰還の途を急ぐ時にも、TOMは〈蟷螂〉から逃れるべく必死になって森の中を走っている。〈蟷螂〉は十字架のような電信柱の上を何度も跨ぎ越え、そして感電して果てる。


 〈蟷螂〉を倒したのは、言うまでもなくTOMではなかった。TOMはこのアニメにおいて〈親方=皇帝〉〈巡礼者=祈祷師=晩餐の主宰者=蟷螂〉を殺す力を与えられていない。TOMは世界の創造主、第八番目の神として登場しながら、実質的には〈従う者〉、〈冒険者〉、〈視る者〉に留まっている。

 TOMはいったい何を視たのか。TOMはアニメ『TOM THUMB』で映像化されたすべての世界を視ている。TOMが左目に当てた緑と赤の〈透明石〉を、われわれ視聴者もまた自らの左目に当てて世界を視る必要があろう。この〈透明石〉は〈蟷螂の目〉〈鶏の目〉、そして世界全般を見通す〈一つ目〉と重なっている。この目に、キリストが、神が、悪魔が、自然がどのように映るか。

 アニメ『TOM THUMB』の作者が視た以上の世界が視えますか? 最後のシーンは、作者からの挑戦のメッセージがこめられている。今、自然を問い、神を問い、人間を問うて深く絶望している者に、どんな希望の光も見いだすことはできない。虚無の風が吹き荒れている。教会堂の鐘の音は繰り返し繰り返し鳴り響いているのに、その鐘を揺り動かしているのは虚無の風でしかない。〈蟷螂〉の抜け殻の外套に水仙の花が咲き乱れ、最後に〈トナカイ〉が通り過ぎても、〈キリストの再臨〉という幻想に心奪われることはない。すべての事象が自然の摂理に従って絶え間なく生成流動している世界が視えるだけである。

アニメ『TOM THUMB』(NIKOLAY LICHTENFELD and IVAN KOSTIURIN)を観る アニメ版・二十一世紀の黙示録(連載12)

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アニメ版・二十一世紀の黙示録

清水正

連載12

〈双頭の鷲〉の紋章をめぐって


 最初の方に小屋から出てきた男が切り株に刺さった〈斧〉を担いでいくシーンがある。この男は木こりの親方のように見える。彼の後に続く六人の男たち、そしてさらにその後にTOMがついた。この時点で〈斧〉を所持しているのは先頭の男だけだが、森の中に入った彼らは〈斧〉を使って大木を伐採する仕事をしている。伐採された大木は鋸で切られたりして製材所に送られ、やがて電信柱として利用される。〈斧〉は森の中の大木を伐採(殺す)する道具であるが、この伐採は人間の文明の発展にも寄与している。


 本編では〈殺し〉の象徴としての数字〈2〉に言及したが、この数字は同時に和解、調和の象徴的意味も担っている。伐採された大木を二人一組で鋸で切る場面は〈2〉の両義性を端的に示している。切られた丸太は次々に積まれていくが、その年輪を露わにした丸太は文字通り〈丸〉であり、これは調和、全を意味している。

 文明を発展させるためには森の木々を伐採しなければならない。破壊の中に発展があり、発展の中に破壊がある。その両義性を遺憾なく発揮していたのが〈斧〉である。やがてこの〈斧〉は森の中に住む動物たちにも向けられ、壮絶なバトルにおける有力な武器となっている。戦いは、結局すべての人物たちを団子状に呑み込んで幕を下ろすが、先にも指摘したように、このアニメの世界では死者は当然の如く復活し、さらなる舞台で再び三たび活躍することになる。

 ところで、終幕近く、様々な冒険を経て小屋に帰還した木こりたちの姿が映し出されるが、この場面において木こりの親方の姿が見えない。と言うよりか、その存在が曖昧に処理されている。つまり視聴者は親方が帰還したのかどうかを確認することができないのである。森の中では率先して伐採の任務をはたしていた親方が謂わば行方不明なのである。このことをどう理解したらいいのだろうか。


 森の奥が開かれ、彼方に女の館がその姿を現した時、それを森から眺めていたのは四人の木こりで、その中にTOMや親方は含まれていなかった。女の館を最初に訪ねて受け入れられたのはTOMであり、その後に〈巡礼者=蟷螂〉が訪れている。蟷螂による祈祷・晩餐式に出席しているのは木こり集団のなかではTOMだけである。後に六芒星のようなものが回転した後の第二次晩餐会で木こりたちも登場しているが、そこにも親方の姿は見えない。いつの間にか親方は、その姿を消しているのである。が、よほど注意深く映像を追っていかないと、視聴者はそのことにさえ気づかないことになる。親方は殺されたのか、それとも。


 親方の正面をアップでとらえた場面がある。よく見るとこの男の左胸に〈双頭の鷲〉の徽章が付いている。〈双頭の鷲〉はロシア帝国の象徴でもある。つまり木こりの親方は地上世界の絶対専制君主としてのロシア皇帝をも象徴しており、彼が肩に担いだ〈斧〉は皇帝が持つ王笏の意味をも担っている。要するに彼は単なる木こりの親方ではなく、神に匹敵する地上の王でもあったというわけだ。


 そこで改めて気になるのが、〈巡礼者=蟷螂〉が切り株に刺された〈斧〉の傍らを通り過ぎる場面である。もしかしたら、この時点で木こりの親方は〈蟷螂〉に同化したのかもしれない。霊的存在である蟷螂は皇帝をも呑み込んで、女の館に向かって急いでいたとも受け取れるのである。

 すでに何度も指摘しているように、このアニメには至る所に謎が仕掛けられている。第二次晩餐の後に、〈主宰者=蟷螂〉の抜け殻が映し出されるが、この抜け殻の頭部にはバケツが被されている。バケツは最初、農婦が収穫物を入れるためのものとして描かれている。次にバケツは案山子の頭に被さっており、案山子の脅しに屈しないカラスはその左腕の藁を執拗につついている。やがてカラスはその中から紐のついたブローチのようなものを嘴にくわえる。いったいこれは何なのか。これはTOMが手にした透明石と同じような霊験あらたかなものなのであろうか。この様子を遠くから見届け、吹き矢のようなものでカラスを追い払ったのがTOMである。

 紋章とバケツ繋がりで見ると、親方は蟷螂やウサギやTOMと同様の人智を超えた霊的能力を授けられたもののように見える。

 

 女の館で祈祷式の席についた男が外套を脱ぐ場面がある。その外套のボタンをよく見ると、そこには〈斧〉がデザインされている。ここで晩餐の主宰者〈蟷螂〉が木こりの親方(斧=皇帝)と融合した存在であったことが暗示されている。


 そこでもう一度、バケツを頭に被った案山子に注意してみると、なんと案山子の左肩に〈鷲〉を描いたワッペンが張り付いている。つまり〈バケツを被った案山子〉は〈斧を担いだ木こりの親方〉や〈蟷螂〉と象徴的次元で繋がっていたことになる。


 さらにバケツにこだわれば、ウサギもまた第二次晩餐の席でバケツを被っていた。このウサギは緑色の〈透明石〉をつぶれた左目にあてがったりするが、その時の右目は〈双頭の鷲〉がデザインされたコイン状のものとなっている。このウサギもまた〈案山子〉〈斧を担いだ親方〉〈蟷螂〉と同様、人智を超えた霊的な存在として登場していたことになる。