随想 空即空(連載157)兵役拒否を巡って

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随想 空即空(連載157)兵役拒否を巡って

清水正  

 

  

 内村鑑三は繰り返し非戦論を唱えてやまなかった。

「余は日露非開戦論者である許りでない、戦争絶対的廃止論者である、戦争は人を殺すことである、爾うして人を殺すことは大罪悪である、爾うして大罪悪を犯して個人も国家も永久に利益を収め得やう筈はない」(「戦争廃止論」明治36年6月30日『万朝報』)

「国のために戦つたコロムウエルはエライ人でありましたが、戦はずして自己の身を敵人に附(わ)たし、之を十字架に釘けしめ給ひしキリストは更らにエライ人でありました、爾うして私共キリスト信者はコロムウエルを学ばずしてキリストを学ぶべきであります」「武装せる基督教国? そんな怪物の世に存在しやう筈はありません、武装せるものは基督教国ではありません、武装せる者は強盗であります(中略)聖書に照らして見て英国も米国も露国も仏国も基督教国ではありません、彼等は金箔附きの偽善国であります」「悪しき手段を以て善き目的に達することは出来ません、殺人術を施して東洋永久の平和を計らんなど云ふことは以ての外の事であります、平和は決して否な決して戦争を透うして来りません、平和は戦争を廃して来ります、武器を擱くこと、是れが平和の始まりであります」(「平和の福音(絶対的非戦主義)」明治36年9月17日『聖書の研究』)

「近頃理想団の晩餐会の席上に於て目下の大問題なる開戦非開戦に就て余にも余の意見を述べよとのことであつたから余は下の如くに答へた、「余は基督教の信者である、而かも其伝道師である、爾うして基督教は殺す勿れ、爾の敵を愛せよと教ふる者である、然るに若し斯かる教を信ずる余にして開戦論を主張するが如きことあれば、是れ余が自己を欺き世を欺くことであれば余は団員諸君が即座に余を理想団より除名せられんことを望む」と」(「近時雑感△平和主義の動機」明治36年9月24-30日『万朝報』)

「會て牛込薬王寺前町に住居し頃、近所の陸人将校の一人にして頗る有望の少壮士官某が度々余の寓居を訪ふて余に種々の人生上の質問を試みた、余は別に遠慮する所なく、通常の通り余の採る所の主義信仰に就て述べた、然るに彼れ一日また余を訪ふて曰ふた、「先生の言ふ所は我等の言ふ所とは正反対である、我等軍人は毎日殺す事のみ子考へ居るに先生は生すことのみを考へて居る、余は到底永く先生の教へを受くる能はず」と、彼は此言を放つた後、未だ一回も余の家を訪ふたことがない、余は想ふ、愛すべき彼は今日今頃は盛んに開戦論を唱へつゝあるであらうと」(「近時雑感△正反対の人生観」明治36年9月24-30日『万朝報』)

 

 ここに引用したのは『非戦論』(岩波書店)の中からだが、きりがないのでこのへんで止めておこう。これだけでも鑑三の非戦論と絶対的平和主義は余すところなく伝わってくる。しかしすでに何度も指摘しているように、鑑三の非戦論は現実的ではない。このことは最後に引用した軍人の件で明らかである。軍人は戦時において人殺しを任務とする。鑑三は軍人たちとも親しく交わって彼等を拒まなかったことはよく知られている。しかし、ここに登場する軍人は鑑三と縁を切っている。彼は中途半端にキリスト教徒の鑑三と妥協せず、究極の地点で彼と我との違いに目を据えている。人殺しを任務とする軍人が「汝の敵を愛せ」と命じるイエスの命令に従うことはできない。彼は自分の軍人としての任務に忠実な道を選択し、その結果として鑑三と離別した。当然の選択である。もし彼が鑑三との親好を選ぶなら、軍人を辞めてキリスト教徒となったであろう。これがふつうの選択の仕方であって、キリスト教徒を名乗り、その伝道師であることを名乗りながら、人殺しを任務とする軍人を否定できないでいるのはおかしいのである。鑑三はこの〈おかしさ〉を矛盾として自らの欺瞞として受け止めることができず、軍人に対してもあいまいな態度に終始している。鑑三は親しくしていた軍人が彼のもとを去ったことの問題について突き詰めて考えることをせずにすましている。

 わたしから見ると鑑三のこの〈曖昧さ〉だけは一貫している。鑑三にあって非戦論が兵役拒否に結びつかなかった理由にこの〈曖昧さ〉を指摘することができる。事にあたって曖昧な態度をとることは日本人の一特徴であり、これを一概に否定することはできない。日本人の〈曖昧さ〉は徹底的に考察する重要な問題だが、わたしが鑑三の〈曖昧さ〉を否定的に見るのは、彼が自分をキリスト教徒として自認しているからである。非戦論と絶対的平和主義をいくら机上で叫んでも、それが現実の世界に実際に適用できないのであれば小・中学生の無責任な理想論に終わるだろう。現実的なことは親にまかせて、その子供がいくらご立派な理想論を並べても、結局尻拭いは親がしなければならない。

 鑑三の元を去って二度とその敷居をまたぐことのなかった軍人は、彼が生きる現実に鑑三の非戦論が無力であることを十分に認識していたからである。この少壮な軍人の純粋さをもし鑑三が備えていたなら、なんら迷うことなく宗次郎とともに兵役拒否を宣言したであろう。鑑三の非戦論の言説に不潔さを感じるのは、彼が兵役拒否を拒みながら、自分の唱える非戦論を絶対的正義として前面に打ち出しているからである。もし宗次郎が自分の良心に則って兵役拒否を断行したならば、鑑三の欺瞞や矛盾も浮き彫りにされ、〈不敬事件〉以上に世間を騒がすことにもなったであろう。さらにキリスト教と兵役の問題もさらに尖鋭化して取り上げられることになったであろう。しかし鑑三は宗次郎の兵役拒否を翻意させることに成功してしまった。鑑三は繰り返し非戦論をさまざまな角度から論じたが、兵役拒否に関しては沈黙を守った。鑑三は〈不敬事件〉で世間の晒し者になることを嫌った。鑑三は良くも悪くも世間の動向に慎重な眼差しを向けており、宗次郎のような極端な信仰(原理的な信仰)に対しては警戒心を緩めなかった。そういう意味では〈キリスト教徒鑑三〉は〈世俗人〉としての感覚を身につけていたと言えよう。

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