帯状疱疹後神経痛と共に読むドストエフスキー(連載20) 師匠と弟子

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帯状疱疹後神経痛と共に読むドストエフスキー(連載20)

師匠と弟子

清水正

 

  福音書を読んでいると、弟子たちのろくでもなさには唖然とする。こういった弟子たちにイエスはいったい何を期待していたのだろうか。裏切り、つまずく弟子たちを、なぜイエスは見捨てなかったのだろうか。逆に言えば、なぜ弟子たちは今までイエスについてきたのだろうか。福音書を読む限り、サタン呼ばわりされたペテロはもとより、他の弟子たちはなぜイエスに愛想を尽かさずにいられたのだろうか。おまえたちは裏切り、つまずくと断言されてなお、イエスに付き従っていこうとするその意思はいつたいどこからわきあがってくるのだろうか。ペテロはきわめて巧妙な心理の劇を生きているが、ユダの内心はどうだったのだろう。

  イエスは三度目に来て、彼らに言われた。「まだ眠って休んでいるのですか。もう十分です。時が来ました。見なさい。人の子は罪人たちの手に渡されます。

  立ちなさい。さあ、行くのです。見なさい。わたしを裏切る者が近づきました。」

  そしてすぐ、イエスがまだ話しておられるうちに、十二弟子のひとりのユダが現われた。剣や棒を手にした群衆もいっしょであった。群衆はみな、祭司長、律法学者、長老たちから差し向けられたものであった。

  イエスを裏切る者は、彼らと前もって次のような合図を決めておいた。「私が口づけをするのが、その人だ。その人をつかまえて、しっかりと引いて行くのだ。」

  それで、彼はやって来るとすぐに、イエスに近寄って、「先生。」と言って、口づけした。

  すると人々は、イエスに手をかけて捕えた。

  そのとき、イエスのそばに立っていたひとりが、剣を抜いて大祭司のしもべに撃ちかかり、その耳を切り落とした。

  イエスは彼らに向かって言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってわたしを捕えに来たのですか。

  わたしは毎日、宮であなたがたといっしょにいて、教えていたのに、あなたがたは、わたしを捕えなかったのです。しかし、こうなったのは聖書のことばが実現するためです。」

  すると、みながイエスを見捨てて、逃げてしまった。

  ある青年が、素はだに亜麻布を一枚まとったままで、イエスについて行ったところ、人々は彼を捕えようとした。

  すると、彼は亜麻布を脱ぎ捨てて、はだかで逃げた。(14章41~52節)

  イエスはわざわざ三人の弟子を連れて行き、起きておれと命じて、ひとり祈る。いったいイエスはだれに向かって何を祈ったのか。もし弟子たちが起きていれば、イエスの祈りの声を聞くことができたのか。三人の弟子のうちひとりぐらいはイエスの祈りの言葉に特別な注意を向けて覚醒していてもよさそうなものなのに、ここでも見事に馬鹿弟子ぶりを存分に発揮している。それともここには何か、読者をたぶらかす仕掛けが施されているのだろうか。

 この時、福音書記者はいったいどこにいたのだろうか。彼だけはひそかにイエスと三人の弟子の目をくぐって、イエスの動向に全注意を払っていたのだろうか。彼のみはイエスの祈りの内容をも把捉していたのだろうか。福音書記者の役割は表現と伝達という意味では弟子たちの役割をも超えている。福音書記者はイエスの内部にすら深く入り込む機能を備えている。

 マルコ福音書の記者を実在する人物と見た場合、彼はイエスと三人の弟子たちのごく近くに接近することに成功している。彼の姿はイエスや弟子たちに目撃されていない。しかし、マルコ福音書に書かれた情報(事柄)は、実在する人物では入手し得ないものを含んでいる。つまり福音書記者は、坂口安吾の言葉で言えば〈無形の説話者〉、つまり作中人物ではない、語りの機能だけを作者から賦与された透明人間のような存在ということになる。

 人間の外部と内部をまで見聞きできる高度の聴覚機能と視覚機能を備えた機器を自在に操作し再構築できる記者であれば、福音書ドストエフスキー文学並の深さをもった作品となるだろう。

 記者は、ひとりになったイエスが「深く恐れもだえ始められた」ことを伝えるが、その内実を詳細に語ることはなかった。イエスは自らの過酷な運命を引き受けようとしているのか、それともここでイエスはひとりの人の子として、運命からの解放を願っていたのか。もしイエスがキリストであるなら、自分の運命に恐れもだえることはなかったであろう。わたしはここに深い恐れともだえに苦しむ人間イエスの姿を見る。弟子たち三人がイエスの命令に背いて寝入ってしまったのは、〈人間イエス〉を目撃しないためであったとさえ思える。換言すれば、〈人間イエス〉であっては困る者たちによる、書き換えとさえ思えるということである。マルコ福音書にはイエスを〈人の子〉と見る視点と〈神の子〉として見る視点の混在が見られる。確かにイエス自身にも迷いが見られるが、福音書記者は迷いを迷いのままに描きながら、イエスを〈人の子〉から〈神の子〉へと変容させる語りの魔術を駆使している。

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帯状疱疹後神経痛と共に読むドストエフスキー(連載19) 師匠と弟子

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帯状疱疹後神経痛と共に読むドストエフスキー(連載19)

師匠と弟子

清水正

 イエスを〈人の子〉として見るなら、イエスほど孤独な存在はない。わたしは人間は孤独な存在だと思っている。わけも分からずこの地上世界に誕生し、わけも分からず死んでいく。しかし孤立する必要はないと思っている。選りすぐった十二弟子のすべての弟子がイエスを理解できずにいる。わたしはかつて生前のイエスと弟子たちのこういった関係性を〈実存の異時性〉と名付けた。物理的に同一の時空を生きながら、イエスと弟子たちの立っている舞台は異なっているのである。イエスの死後、弟子がイエスの生きていた舞台に立てた時、その時こそ弟子がイエスの復活に立ち会えたというのがわたしの復活理解である。イエスが〈三日後〉に復活するという〈三日〉は象徴的に理解されるべきで、弟子によっては何年もかかったであろうし、死ぬまでイエスの復活に立ち会えなかった者もいたであろう。イエスの復活に立ち会えた者をわたしは〈実存の同時性〉を獲得した者と見た。この理解は基本的には今も変わらない。

  わたしは師イエスの気持ちはよく分かるが、ペテロをはじめとしてユダ、その他裏切る弟子たちのその屈折した心理を体感的に知ることはできない。口先ではイエスの後に従うと言いながら、心の内では裏切り続けている。こういった卑小卑劣な感情を抱いて生きるとはどういうことなのだろうか。

 

  ゲッセマネという所に来て、イエスは弟子たちに言われた。「わたしが祈る間、ここにすわっていなさい。」

  そして、ペテロ、ヤコブヨハネをいっしょに連れて行かれた。イエスは深く恐れもだえ始められた。

  そして彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、目をさましていなさい。」

 それから、イエスは少し進んで行って、地面にひれ伏し、もしできることなら、この時が自分から過ぎ去るようにと祈り、

  またこう言われた。「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」

  それから、イエスは戻って来て、彼らの眠っているのを見つけ、ペテロに言われた。「シモン。眠っているのか。一時間でも目をさましていることができなかったのか。

  誘惑に陥らないように、目をさまして、祈り続けなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」

  イエスは再び離れて行き、前と同じことばで祈られた。

  そして、また戻って来て、ご覧になると、彼らは眠っていた。ひどく眠けがさしていたのである。彼らは、イエスにどう言ってよいか、わからなかった。(14章32~40)

 

 ゲッセマネでイエスは何を祈ったのか。なぜペテロ、ヤコブヨハネの三人のみを連れて行ったのか。なぜこの三人は、イエスに命じられたように起きて待つことができなかったのか。

 イエスは自分が裏切り者によって逮捕されることを知っていた。福音書記者は「イエスは深く恐れもだえ始められた」と記している。ここでのイエスの恐れともだえを〈人の子〉のものとしてとらえればよく理解できよう。イエスは逮捕、ゴルゴタの丘での十字架刑を予知している。イエスの三人の弟子に向けての言葉「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、目をさましていなさい。」を孤独な人間の言葉として聞くことができる。しかし、弟子たちはどういうわけかイエスの人の子としての悲痛な言葉さえまともに受け止めることができず、三度にわたって眠りほうけている。

 なぜイエスは悲しんでいるのか。自分が裏切り者によって逮捕され、処刑されることを悲しんでいるのか。それとも自分のことをまったく理解できない弟子たちを思って悲しんでいるのか。そのどちらとも言えよう。いずれにしてもイエスときわめて身近な時空を生きている弟子たちが、師イエスをまったく理解していない。イエスの悲しみ、恐れ、もだえを自分のものとして体感できるは弟子はいない。イエスがひとり祈っているとき、十二弟子より選ばれた三人の弟子は眠りほうけている。しかも三度にわたってである。

 

 

 

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帯状疱疹後神経痛と共に読むドストエフスキー(連載18) 師匠と弟子

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帯状疱疹後神経痛と共に読むドストエフスキー(連載18)

師匠と弟子

清水正

 イエスは自分を裏切り、つまずく弟子たちの内心に寄り添い、心底からつき従ってくるように働きかけることはない。イエスの言葉は確信に充ちており、絶対である。イエスは十二弟子のすべてが、一人の例外もなくつまずくことを知っている。イエスは知っていることをそのまま口にしているだけのことである。

 

    それから、みなが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、彼らに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしのからだです。」

  また、杯を取り、感謝をささげて後、彼らに与えられた。彼らはみなその杯から飲んだ。

  イエスは彼らに言われた。「これはわたしの契約の血です。多くの人のために流されるものです。

  まことに、あなたがたに告げます。神の国で新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」

  そして、賛美の歌を歌ってから、みなでオリーブ山へ出かけて行った。

  イエスは、弟子たちに言われた。「あなたがたはみな、つまずきます。『わたしが羊飼いを打つ。すると、羊は散り散りになる。』と書いてありますから。

  しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先に、ガリラヤへ行きます。」

  すると、ペテロがイエスに言った。「たとい全部の者がつまずいても、私はつまずきません。」

  イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたは、きょう、今夜、鶏が二度鳴く前に、わたしを知らないと三度言います。

  ペテロは力を込めて言い張った。「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。」みなの者もそう言った。(14章22~31節)(89)

 

  読みようによってはなんとも凄まじい場面である。イエスは弟子たちの誰もが、ひとり残らず彼を裏切ること、つまずくことを知っており、そのことを口に出して言っている。弟子たちは口をそろえてそれを否定する。ここで名指しで裏切り者と断定されているのはペテロで、どういうわけかイエスはユダの名前を口にすることはない。

 先にペテロはイエスから〈サタン〉とまでののしられながら、ここでもイエスへの忠誠を誓っている。〈サタン〉のイエスへの忠誠とは何を意味しているのか。福音書というテキストはじっくり読めば読むほどさまざまな恐るべき仕掛けが施されているように思える。福音書が二千年の時空にさらされながら生き延びてきた秘密に肉薄しなければならない。

 福音書において弟子たちはイエスに対して率直な疑問をぶつけるとができないし、怒りや反発の言葉を発することができない。なぜ〈サタン〉と言われたペテロは反撃しないのか。言われた時に反撃しなければ、イエスの言葉をそのまま認めてしまうことになるではないか。では、福音書に書かれてある通り、ペトロを〈サタン〉と見なせば、この〈サタン〉はイエスを裏切るにもかかわらず、「たとい全部の者がつまずいても、私はつまずきません。」「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。」と断言したことになる。ペテロを〈サタン〉と見るなら、これぐらいの嘘は平気でつくだろう。イエスは彼を裏切り、つまずく者たち(十二弟子)と一緒に最後の晩餐をしたことになる。

 

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帯状疱疹後神経痛と共に読むドストエフスキー(連載17) 師匠と弟子

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帯状疱疹後神経痛と共に読むドストエフスキー(連載17)

師匠と弟子

清水正

 

    福音書のイエスは読みようによってはなかなか複雑な性格を備えている。イエスは自分がキリストであることを断言しない。弟子以外のほかの人々が彼をどう言っているのか、弟子たちが彼をどう思っているのかを聞くだけで、ペテロがキリストと答えてもそのことをそのまま認めることはなかった。イエスは自分が〈人の子〉であると同時に〈神の子〉であることをはっきりと認識していたのだろうか。このへんが微妙である。

 イエスを〈ナザレのイエス〉から〈神の子〉イエスへと変貌させたいと願っていた者たちの意向が福音書のイエス像に入り込んではいないだろうか。我が国の吉田松陰は別に神の子ではないが、門下生たちに多大な影響を与えた。別に神の存在を持ちださなくても、伝承される価値を持つ思想は伝承されていく。吉田松陰の門下生のうち誰一人として師を神として崇めたてる者はいなかった。イエスもまた人間イエスとして、彼の言動が伝承されるべき価値を持っているなら、彼を神の独り子と祭り上げることはなかっただろう。しかし、イエス及び弟子たちがそのように考えていなかったとすれば話は別である。

 イエスはペテロに向かってはっきりと〈サタン〉と呼んでいる。描かれた限りのペテロはイエスの何も理解していない愚かな弟子のひとりにすぎないが、彼が〈サタン〉だとすれば、話は飛躍的に面白くなる。イエスはゲラサの地の〈汚れた霊〉と誰にも分からない取引をしていたが、〈サタン=ペテロ〉とも取引をしていた可能性が出てくる。ゲラサの〈汚れた霊〉がイエスを見た瞬間に彼が〈いと高き神の子、イエスさま〉であることを看破したように、ペテロがこの〈汚れた霊〉と同等の力を備えたサタンであるなら、とうぜんイエスの〈神の子〉であることを知っていたことになる。

 ペテロを単なる愚かな弟子のひとりと見るか、それともイエスを〈神の子〉と知っていながら、イエスを平気で裏切る者と見るかで彼の像もそうとう違ってくる。

 イエスの発する言葉は、ふつうの人間が生活するにあたって配慮する時と場所と人を配慮しない。師であるイエスが弟子のペテロをみんなの前でサタン呼ばわりしたのである。いったいペテロはこれからどのようにイエスにつき従っていけばいいのか。一番弟子としての面目丸潰れである。普通の人間関係であったら、ペテロが恨みの感情を抱くのは当然ということになる。福音書の記者は弟子たちの内面に照明をあて、その心理心情を詳細に描き出すことはなかった。それにしても、イエスにサタン呼ばわりされたペテロは以後、どのような心持ちで師に従ったのであろうか。普通なら復讐の念に燃えても不思議ではない。イエスの激しい言葉は弟子たちの心をいたく傷つけ、彼から去っていっても当然である。にもかかわらず、十二使徒のうちイエスの生前、彼から去っていったのはイスカリオテのユダひとりであった。

 

  夕方になって、イエスは十二弟子といっしょにそこにこられた。

  そして、みなが席に着いて、食事をしているとき、イエスは言われた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたのうちのひとりで、わたしといっしょに食事をしている者が、わたしを裏切ります。」

  弟子たちは悲しくなって、「まさか私ではないでしょう。」とかわるがわるイエスに言いだした。

  イエスは言われた。「この十二人の中のひとりで、わたしといっしょに、同じ鉢にパンを浸している者です。確かに、人の子は、自分について書いてあるとおりに、去って行きます。しかし、人の子を裏切るような人間はのろわれます。そういう人は生まれなかったほうがよかったのです。」(14章17~21節)(88~89)

 

 十二弟子と一緒に食事しながら、イエスの発する言葉は恐ろしいの一語に尽きる。イエスは弟子たちの中に一人の裏切り者がいると告げる。まず疑問に思うのは、なぜイエスはその〈裏切り者〉の心に思いを寄せないのかということである。わたしたちはすでに〈裏切り者〉がユダであることを知っているから、この時の弟子たちの緊迫感を共有することは容易ではない。先にペテロはイエスにサタンと呼ばれている。イエスから〈裏切り〉という言葉が発せられた時のペテロの内心はどんなであったろう。また当事者のユダはどうであったろうか。その他の弟子たちそれぞれの内心に照明をあてれば、この最後の晩餐は途方もなく恐ろしい場面として浮上してこよう。

 

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帯状疱疹後神経痛と共に読むドストエフスキー(連載16) 師匠と弟子

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帯状疱疹後神経痛と共に読むドストエフスキー(連載16)

師匠と弟子

清水正

 柳宗悦は聖書に書かれた具体に当たらないので、自己欺瞞が暴かれずに済んでしまうのである。モーセ十戒において神は「殺すなかれ」と命じる。だがユダヤの神は至るところで「殺せ」と命じている。これだけでも神の言葉は矛盾している。柳宗悦は神のこういった矛盾に直面しないし、従ってその事に悩むこともない。ヤハウェユダヤ民族の神であり、すべての人間の神ではない。ヤハウェユダヤ民族の繁栄を願って命令する者であり、ユダヤ民族のためには他の部族の者は殲滅してもかまわないのである。旧約聖書の中に〈聖絶〉という言葉が何回出てくるだろうか。ヤハウェユダヤ人同士における〈殺し〉を厳しく禁じても、他部族間の闘争においては何の迷いもなく〈聖絶〉(すなわち老若男女の別なく皆殺しをするということ)を命じる神なのである。日本人である柳宗悦は、しかしそういった事に関して関心を示していない。これでは信仰の問題をわが問題として取り扱ったことにはならない。

 柳宗悦東京大学英文科を卒業すると声楽家の兼子と結婚、我孫子に居を構えて研究生活に入った。我孫子には叔父の嘉納治五郎の別荘があり、その別荘の管理も兼ねて、家賃などはいっさい払う必要もなく、研究に没頭できた。志賀直哉もそうだが白樺文学派の人たちは生活費のことなどなんら心配することなく自分のやりたいことに没頭した、実に経済的には恵まれていたが、そのかわり、生活人の生(なま)の喜怒哀楽を感じることは少なかったように思える。

 

  それから、イエスは弟子たちとピリポ・カイザリヤの村々へ出かけられた。その途中、イエスは弟子たちに尋ねて言われた。「人々はわたしをたれだと言っていますか。」

  彼らは答えて言った。「バプテスマのヨハネだと言っています。エリヤだと言う人も、また預言者のひとりだと言う人もいます。」

  するとイエスは、彼らに尋ねられた。「では、あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」ペテロが答えてイエスに言った。「あなたは、キリストです。」

  するとイエスは、自分のことはだれにも言わないようにと、彼らを戒められた。

  それから、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日の後によみがえらなければならないと、弟子たちに教え始められた。

  しかも、はっきりとこの事がらを話された。するとペテロは、イエスをわきにお連れして、いさめ始めた。

  しかし、イエスは振り向いて、弟子たちを見ながら、ペテロをしかって言われた。「下がれ。サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」

  それから、イエスは群衆を弟子たちといっしょに呼び寄せて、彼らに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。(8章27~34節)( 75)

 

 この場面は最初に読んだときから戦慄が走った。イエスの発する言葉は微妙で曖昧に聞こえる。それでいて微動しない覚悟も伺える。イエスは奇蹟を施しながら、そのことを広めてはならないような言い方をする。広められてはならない奇蹟なら起こさなければいいのにとわたしは単純に思う。ゲラサの豚に〈汚れた霊〉を乗り移させた時には、狂気から正気に戻った人に、自分がなした事を伝えよ、と言っている。イエスは神から使わされたひとり子であることを、多くの人に伝えたいと思っているのか、それとも人の子であることを強調したいのか、どうもこのへんが微妙である。

 ここに引用した場面ではイエスは自分の口から神の子であるとは断言していない。ペテロがイエスに向かって「あなたは、キリストです」と言った時にも「自分のことはだれにも言わないように」と戒めている。この〈戒め〉は何を意味しているのか。自分がキリストであることは事実だが、今そのことが知れるとやっかいなことになるから、しばし内緒にしておけということなのか。なんかもったいつけた言い方である。こういう言い方をする師は弟子たちに理解されることはほとんど不可能と見るほかはない。

  イエスは弟子たちに対していつも苛立っているが、ここでペテロに向かって「下がれ。サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」と叱っている。自分の、言わば一番弟子であるペトロを、他の弟子たちのいる前で〈サタン〉と言っている。人間間のやりとりであれば、「この、おおバカもの」ということですまされようが、この場合はイエスとその弟子である。なぜイエスはこんなにも怒りを露わにしたのか。ペテロはイエスを〈キリスト〉と口先では言いながら、実はイエスを〈人〉と見なしていた。そのキリストではなく、単なるひとが、「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日の後によみがえらなければならない」とはっきりと口にした。ペテロはイエスのこの言葉を〈キリスト〉の言葉として受け止めることはできなかった。ペテロはこの言葉を人の言葉としてのみ聞いたので、イエスがこういう自分の悲惨な運命を多くの人々の前で口にすることはまずいと判断し、弟子の身でありながら師をたしなめる愚を犯してしまったのである。

 イエスのこの言葉をそのまま受け止めることは弟子たちにとって耐えられないことであったろう。なにしろイエスは、長老や祭司長たちに殺されてしまうと言っているのであるから。殺されてしまうことが分かっている師に、ついて行く弟子がはたして何人いるのだろうか。しかも弟子たちのうちでイエスが口にした三日後の〈復活〉を理解している者は一人もいない。イエスをキリストとして信じている弟子たちであれば、イエスの言葉は絶対である。しかし、ペテロに見られるごとく弟子たちはイエスを理解していない。イエスの言葉は人の言葉として相対的に受け止められている。 

 それにしても他の弟子たちの前でよりによって〈サタン〉呼ばわりされたペトロの内心たるやどうであったろうか。ペテロの心の中にイエスに対する憎悪の念は生じなかったであろうか。もしペテロの心のうちをドストエフスキーが描いたらと思うだけで戦慄が走る。それでなくてもイエスは弟子たちに対して優しい言葉をかけるようなことはなかった。マルコ福音書におけるイエスは弟子たちに対する苛立ちを隠そうともしていない。イエスは激しい感情の持ち主で、それを押さえることのできない人であった。ドストエフスキーの人物たちは時に〈感情の爆発〉(надрыв)を起こす。時に激情の発作に襲われるイエスカラマーゾフ家の一員に入れてもおかしくはない。

 さて、ペテロ=サタンに話を戻そう。イエスの言葉を言葉通りに受け止めれば、イエスはペテロがサタンであることを知っていながら彼を弟子にしたことになる。これをペテロの側から言わせればどうなるか。ゲラサの墓場の狂人(〈汚れた霊〉)はイエスを瞬時に〈いと高き神の子、イエスさま〉であることを看破している。ペテロはこの狂人と同様に師イエスを神の子とみなしていただろうか。ペテロは口ではイエスをキリストと言っているが、その実、イエスをキリストを装っている人の子と見なしていた可能性も高い。ゲラサの豚に乗り移った〈汚れた霊〉よりも、ペテロ=サタンはより一層一筋縄ではいかない側面を持っているように感じる。

 先にも触れたが、〈汚れた霊〉(レギオン)は豚に乗り移ることの許可をイエスから得た上で墓場の狂人から出ている。もちろん豚は死んだが、〈汚れた霊〉が死滅したわけではない。つまりここでイエスと〈汚れた霊〉は彼らだけに分かる取引をしたことになる。

 さて、イエスとペテロに話を戻そう。ペテロがサタンだとすれば、イエスはこのサタン=ペテロとどのような関係を取り結ぼうとしていたのかである。イエスは彼が一方的に弟子にしたペテロの何者であるかを予め承知している。ペテロはイエスを口先では〈キリスト〉と言い、内心では〈人〉と見ている。ペテロがサタンだとすれば〈人〉であるイエスを〈神の子キリスト〉に偽装する欺瞞を全うしたことにあろう。ペテロの悪魔性こそドストエフスキーの文学にふさわしいかも知れない。ペテロ=サタンは、真理と共にあるよりはキリストと共にありたいと願ったドストエフスキーの眼差しをすり抜けて、彼の文学世界に潜入する資格を有している。

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動画「清水正チャンネル」で観ることができます。

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ドストエフスキー『罪と罰』における死と復活のドラマ(2015/11/17)【清水正チャンネル】 - YouTube

 

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帯状疱疹後神経痛と共に読むドストエフスキー(連載15) 師匠と弟子

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近況報告

先日、泰葉の歌がすばらしいと聞いたので、今日の昼に動画で探して聞いてみた。泰葉は林家三平(初代) の娘で、春風亭小朝との離婚騒動でマスコミを騒がせたことがある。今回、初めて泰葉の歌を聞いて、その声の美しさとピアノのうまさにも感動した。純粋というものは他人にも本人にも厄介なもので、時に世間的な騒動の引き金にもなったりするのだろうが、泰葉の歌は素直に心に響いてくる。世俗に染まらぬ、厄介な純粋を抱え込んだ泰葉の歌はほんものだ。わたしは韓国の歌が好きでよく聞くが、彼らの歌声は魂に響く力を持っている。日韓断交を主張し続ける桜井誠氏の動画もよく観ているが、芸能や芸術、文学は魂の発露であり、それが本物であれば国家、民族、宗教、言語をも超えて交じり合うことができる。政治、経済上の問題で主張すべきことはしっかりと主張しなければならないが、それらを超えた魂の交流を何よりも大切にしなければならない。泰葉さんの動画を下に貼り付けておきますので是非ご覧ください。

 https://www.youtube.com/watch?v=FdNs79yHPNQ

帯状疱疹後神経痛と共に読むドストエフスキー(連載15)

師匠と弟子

清水正

 柳宗悦は次のように書いている。

「マルコ」は西暦六十五年乃至七十年頃、即ちイエス磔刑せられた時から三十五年乃至四十年の後に書かれたと云はれる。マルコとは恐らく受難週の折イエスに接した「マルコと称ふるヨハネ」の事であらう。彼はパウロの最初の伝導に伴つた人であり、且つ多くの聖徒が屡ゞ彼の家に集つたと云はれる。「ペテロ前書」末に現はれるマルコを同一人とすれば、彼が後に親交をペトロとも結んだ事が推量される。故にマルコの記事は受難週のイエスに就ては直接の知識により、初年のイエスの事は主としてペトロにその材料を得たのであらう。その他目撃者の証言や、イエルサレム教会の伝説や、普通‘Logia’として知られる所詮マタイの聖語集或は又今日‘Q’と呼ばれる古記録、及びパウロの書翰等によつて編纂されたものである。此福音書は他の福音書に比して長さ最も短く文字簡潔である。寧ろ教訓や教理よりもイエスの行動を主に画いたのである。最も古く書かれ且つ直接の目撃、又は目撃者からの間接の材料によつたと云ふ事は、此福音書が歴史的に最も依拠するに足りると云ふ事を示してゐる。故に今日イエス伝を綴るに際しては厳密に「マルコ」にのみ依らねばならぬとさへ屡ゞ主張される。(483~484)

 

 マルコに限らず福音書の記者及び書かれた年代を特定することは困難を極める。これを正確に知ろうとすればするほど迷宮深くへと迷い込むことになる。なにごともあきらめが肝心、自分ができる範囲で充足するほかはない。

 マルコはイエスの弟子であったのか。しかしマルコは十二使徒の一人であったわけではない。特別の弟子ではなくても、イエスと行動を共にすることがあったのか。それともマルコは生きていたときのイエスを全く知らず、イエスに関する情報はペテロなどから得ていたのか。いずれにしてもはっきりした事は何一つわからない。あるのはマルコによって書かれたと云われる福音書だけである。従って、わたしはマルコ福音書を文学作品を対象にする時と同じ姿勢で批評するしかない。わたしが持っている唯一の武器が批評である。

 先に柳宗悦の奇蹟に関する論文を引用した。柳宗悦は実によく関係文献にあたり、奇蹟について言及している。それは優等生の書いたレポートのように、百点満点で百五十点をあげたいような実によくできた論文である。わたしが最初に読んだ柳宗悦の宗教に関する著作は『信と美』(昭和十八年十月 生活文化研究會)で、この本を読んでいる最中ずっとわたしは柳宗悦は敬虔なキリスト者だと思っていた。キリスト信仰とはこれ以外にはないという模範解答のような論文で、しかもそこには愛と情熱もたっぷりと込められていた。しかし、後で柳宗悦の年譜を見ると、彼がキリスト者になったことは一度もなかった。わたしは驚いた。キリスト者でない者が、キリスト信仰の模範解答を執筆しているのだ。やはりこれはおかしい、と思うのが普通であろう。そこでわたしは柳宗悦の「奇蹟について」の論文はキリスト者でない一知識人の論文として冷静に読み進めた。

 わたしと柳宗悦の違いを一つあげれば、わたしにあって彼にないのはドストエフスキーがデカブリストの妻フォン・ヴィージナに宛てて書き記した〈不信と懐疑〉である。柳宗悦にはドストエフスキーの人神論者に共通して見られる「わが魂の震え」をもってする、神に対する不信と懐疑の声がない。柳宗悦にはイエスの起こした奇蹟に対する生々しい驚き、不信、懐疑がないのだ。イエスと行動を共にしていた弟子ですら、イエスを理解できず、いつも裏切り続けている。優等生柳宗悦には、弟子たちの裏切りの内実に身を寄せることはできないだろう。イエスの苛立ち、弟子たちの無知と傲慢と卑小卑劣に、優等生柳宗悦の論文の言語は食い込んでいけないのだ。キリストを信じるということはどういうことかを、完璧に書き記すことのできる柳宗悦、だが彼はキリスト教に入信することはなかった。これは欺瞞ではないのか。柳宗悦がこの自らの欺瞞に徹底して照明を与え、自己検証しないのであれば、彼の言葉は文学の言葉とはならないのである。

 

 

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これを観ると清水正ドストエフスキー論の神髄の一端がうかがえます。日芸文芸学科の専門科目「文芸批評論」の平成二十七年度の授業より録画したものです。是非ごらんください。

ドストエフスキー『罪と罰』における死と復活のドラマ(2015/11/17)【清水正チャンネル】 - YouTube

 

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帯状疱疹後神経痛と共に読むドストエフスキー(連載14) 師匠と弟子

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帯状疱疹後神経痛と共に読むドストエフスキー(連載14)

師匠と弟子

清水正

  今日、キリスト者でない知識人の何人が福音書に書かれてある奇跡を文字通り信じることができるのであろうか。熱い純朴な信仰心が病を癒すことは知られている。イエスの衣に触れただけでもある種の病を癒されたということは今日の医学ではとうぜん認められるであろう。しかし、比喩的表現でないとすればどうしても納得できない奇跡もある。

 柳宗悦は『宗教的奇蹟』(柳宗悦全集著作篇第二巻。昭和五十六年三月 筑摩書房)で次のように書いている。

   抑も奇蹟とは何事であるか。今日何事の意味を吾々に示すのであるか。奇蹟とは自然法の破壊を意味するではないか。自然の法則に反抗の旗を翻して迄、之は守護すべき真理であるか。之を如何なる意味で自然法への違反でないと解し得るか。科学と矛盾しない奇蹟をどこに求めたらいゝのであるか。かゝる企てはもしや先天的にも不可能ではあるまいか。吾々は此問題を理知によつて笑ひ去らうか。又は不可解だと云つて封じ去らうか。それよりも一層、古い昔の教へに過ぎぬと云つて棄て去らうか。かゝるものを強ひて弁明する任務が、吾々にはないと云ひ棄てようか。

  実際今日ではかゝる疑惑や否定が寧ろ一般であらう。或者がまだ奇蹟に思ひ惑ふ時、人々は屡々その誠実をさへ疑つてゐる。多くの者は奇蹟を既に決定された題材だとさへ見做してゐる。彼等は奇蹟を許さない自然をこそ寧ろ愛してゐる。近世の宗教思想を顧る時、かゝる否定の態度は躊躇なく採用された。

  イエスの最も美しい伝記を書いたルナンすら奇蹟の記事を彼の筆から除き去つた。かゝる物語の捏造は、寧ろ弟子が主に加へた侮辱であるとさへ考へられた。ルナンは彼の「耶蘇伝」第十六章に於て勇敢にも此見解を明言した。吾々と同じ時代に生きてゐた偉大な宗教家であつたトルストイも、彼の編纂した聖書の翻訳から、奇蹟の部分を抽き去つて了つた。(略)近世哲学の柱であるカントも、多くの執着なく奇蹟を彼の思索の領域から退けて了つた。況や大部分の科学者が此問題に冷であるのは云ふを俟たない。自然法が普遍の法則であるなら、之に矛盾する奇蹟を自然から棄て去るのが、至当な理解であると考へられる。之は科学を守る者の自然な明白な立論であつた。然し科学者でなくとも、批評を愛する歴史家は、聖書に不合理な出来事を読むのを欲しない。奇蹟の記録は歴史的保証を欠くと云ふのが、その研究によつて帰納せられた結果であつた。奇蹟へのかゝる否定は今理知の文明に漂ふ思潮である。実に多くの者はかゝる否定を発言する事に、何等の疑惑をも又逡巡をも持たないのである。

  かゝる風潮の中に基教は再び反省せられた。抑も奇蹟と宗教との間には、何等の本質的関係がないではないか。実際奇蹟なき宗教は可能ではないか。寧ろ宗教を合理的ならしめる任務が吾々にありはしまいか。よし古代には奇蹟への信仰が意味を齎らしたにせよ、教養ある今日の吾々は、かゝる理解を反復すべきではないであろう。奇蹟は何事の意味をも宗教に与へはしない。寧ろそれは不純な要素の追加に過ぎまい。奇蹟なくともイエスは驚くべきイエスではないか。録された凡ての奇蹟を聖書から抹殺しても、吾々は尚深い聖書をそこに読む事が出来る。寧ろ基教を奇蹟から救ふ事によつて、一層倫理的な基教を確立する事が出来はしまいか。吾々の求めるものは合理的宗教ではないか。之は実に多くの信徒が今日抱く見解であると云はねばならぬ。(385~387)

 わたしは福音書に描かれた奇蹟物語は「弟子が主に加へた侮辱」であり「不純な要素の追加」であると考えている。「奇蹟なくともイエスは驚くべきイエス」であり、「録された凡ての奇蹟を聖書から抹殺しても、吾々は尚深い聖書をそこに読む事が出来る」と考えている。

 福音書から人間イエスを具象的に浮き彫りにすることは困難を極めるが、わたしはわたしなりのテキスト解読の方法を駆使してそれをなさなければならない。まず、マルコ福音書を書いたマルコとは何者なのか、を問わなければならない。

 

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