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師匠と弟子
福音書を読んでいると、弟子たちのろくでもなさには唖然とする。こういった弟子たちにイエスはいったい何を期待していたのだろうか。裏切り、つまずく弟子たちを、なぜイエスは見捨てなかったのだろうか。逆に言えば、なぜ弟子たちは今までイエスについてきたのだろうか。福音書を読む限り、サタン呼ばわりされたペテロはもとより、他の弟子たちはなぜイエスに愛想を尽かさずにいられたのだろうか。おまえたちは裏切り、つまずくと断言されてなお、イエスに付き従っていこうとするその意思はいつたいどこからわきあがってくるのだろうか。ペテロはきわめて巧妙な心理の劇を生きているが、ユダの内心はどうだったのだろう。
イエスは三度目に来て、彼らに言われた。「まだ眠って休んでいるのですか。もう十分です。時が来ました。見なさい。人の子は罪人たちの手に渡されます。
立ちなさい。さあ、行くのです。見なさい。わたしを裏切る者が近づきました。」
そしてすぐ、イエスがまだ話しておられるうちに、十二弟子のひとりのユダが現われた。剣や棒を手にした群衆もいっしょであった。群衆はみな、祭司長、律法学者、長老たちから差し向けられたものであった。
イエスを裏切る者は、彼らと前もって次のような合図を決めておいた。「私が口づけをするのが、その人だ。その人をつかまえて、しっかりと引いて行くのだ。」
それで、彼はやって来るとすぐに、イエスに近寄って、「先生。」と言って、口づけした。
すると人々は、イエスに手をかけて捕えた。
そのとき、イエスのそばに立っていたひとりが、剣を抜いて大祭司のしもべに撃ちかかり、その耳を切り落とした。
イエスは彼らに向かって言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってわたしを捕えに来たのですか。
わたしは毎日、宮であなたがたといっしょにいて、教えていたのに、あなたがたは、わたしを捕えなかったのです。しかし、こうなったのは聖書のことばが実現するためです。」
すると、みながイエスを見捨てて、逃げてしまった。
ある青年が、素はだに亜麻布を一枚まとったままで、イエスについて行ったところ、人々は彼を捕えようとした。
すると、彼は亜麻布を脱ぎ捨てて、はだかで逃げた。(14章41~52節)
イエスはわざわざ三人の弟子を連れて行き、起きておれと命じて、ひとり祈る。いったいイエスはだれに向かって何を祈ったのか。もし弟子たちが起きていれば、イエスの祈りの声を聞くことができたのか。三人の弟子のうちひとりぐらいはイエスの祈りの言葉に特別な注意を向けて覚醒していてもよさそうなものなのに、ここでも見事に馬鹿弟子ぶりを存分に発揮している。それともここには何か、読者をたぶらかす仕掛けが施されているのだろうか。
この時、福音書記者はいったいどこにいたのだろうか。彼だけはひそかにイエスと三人の弟子の目をくぐって、イエスの動向に全注意を払っていたのだろうか。彼のみはイエスの祈りの内容をも把捉していたのだろうか。福音書記者の役割は表現と伝達という意味では弟子たちの役割をも超えている。福音書記者はイエスの内部にすら深く入り込む機能を備えている。
マルコ福音書の記者を実在する人物と見た場合、彼はイエスと三人の弟子たちのごく近くに接近することに成功している。彼の姿はイエスや弟子たちに目撃されていない。しかし、マルコ福音書に書かれた情報(事柄)は、実在する人物では入手し得ないものを含んでいる。つまり福音書記者は、坂口安吾の言葉で言えば〈無形の説話者〉、つまり作中人物ではない、語りの機能だけを作者から賦与された透明人間のような存在ということになる。
人間の外部と内部をまで見聞きできる高度の聴覚機能と視覚機能を備えた機器を自在に操作し再構築できる記者であれば、福音書はドストエフスキー文学並の深さをもった作品となるだろう。
記者は、ひとりになったイエスが「深く恐れもだえ始められた」ことを伝えるが、その内実を詳細に語ることはなかった。イエスは自らの過酷な運命を引き受けようとしているのか、それともここでイエスはひとりの人の子として、運命からの解放を願っていたのか。もしイエスがキリストであるなら、自分の運命に恐れもだえることはなかったであろう。わたしはここに深い恐れともだえに苦しむ人間イエスの姿を見る。弟子たち三人がイエスの命令に背いて寝入ってしまったのは、〈人間イエス〉を目撃しないためであったとさえ思える。換言すれば、〈人間イエス〉であっては困る者たちによる、書き換えとさえ思えるということである。マルコ福音書にはイエスを〈人の子〉と見る視点と〈神の子〉として見る視点の混在が見られる。確かにイエス自身にも迷いが見られるが、福音書記者は迷いを迷いのままに描きながら、イエスを〈人の子〉から〈神の子〉へと変容させる語りの魔術を駆使している。
ドストエフスキー文学に関心のあるひとはぜひご覧ください。
「清水正先生大勤労感謝祭」の記念講演会の録画です。
https://www.youtube.com/watch?v=_a6TPEBWvmw&t=1s
「池田大作の『人間革命』を語る──ドストエフスキー文学との関連において──」
動画「清水正チャンネル」で観ることができます。
https://www.youtube.com/watch?v=bKlpsJTBPhc
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これを観ると清水正のドストエフスキー論の神髄の一端がうかがえます。日芸文芸学科の専門科目「文芸批評論」の平成二十七年度の授業より録画したものです。是非ごらんください。
ドストエフスキー『罪と罰』における死と復活のドラマ(2015/11/17)【清水正チャンネル】 - YouTube