動画で立川談志の漫談を聴いた

近況報告

大学へは水曜と金曜に出かける。水曜は大学院の授業。終わると江古田の中華店「同心房」で食事会。アルコールが少し入ると痛みが和らいだ気になる。時に強烈な痛みに襲撃されたりもするが、我慢できないことはない。先日の金曜、「雑誌研究」はグリム童話ヘンゼルとグレーテル」について講義。「文芸批評論」は11-23の講演「『罪と罰』再読」の続編ということで「未亡人たちの踏み越え」というテーマで講義。これは後日、「清水正チャンネル」で発信の予定。このブログでも紹介したいと思っている。

授業終了後は金曜会を椎名町の「正ちゃん」で開催。先日は西鶴研究の浅沼璞さん、文芸評論家の山崎行太郎さん、日本文芸研究の山下聖美さん、この日、日芸で特別講義をした共感覚者の岩崎純一さん、博士課程在学でわたしの授業のビデオ・編集担当の伊藤景さんが集まった。話はニーチェドストエフスキーベルグソン日芸創設者松原寛、西田幾多郎西鶴など、硬いものから柔らかいものまで多様。帰り、ポメラを大学の研究室に忘れてきたことに気づき、ひとり江古田に戻る。わたしはこのポメラで電車の中、喫茶店などで原稿を執筆するので、戻らざるを得なかった。帰りは上野からグリーン車で原稿執筆。約一時間は書ける。書いているときは精神が集中しているせいか、ほとんど痛みは感じない。駅から家までゆっくり歩いて十五分、この間が強烈に痛い。

今日は動画で立川談志の漫談を聴いた。師匠小さんとの関係など面白かった。師匠に向かっての言いたい放題は良くも悪くも落語会の健全さを感じさせないでもない。談志が「俺は自分の落語より鑑賞眼が勝っている」というのはさすが自己分析の大家談志ならではの言葉。かつて立川談志論を書いてこのブログでも連載し、いずれ本にでもしようかと思っていたのだが、だいぶ時間があいてしまった。執筆するのはいいが本にまとめる作業はかなり面倒くさい。

下原敏彦「清水正・ドストエフスキー論」五十周年に想う(4)

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講演「『罪と罰』再読」2018-11-23

 

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清水正ドストエフスキー論執筆50周年記念  清水正先生大勤労感謝祭」での挨拶 日大芸術学部芸術資料館に於いて。2018-11-2

清水正の著作はアマゾンまたはヤフオクhttps://auctions.yahoo.co.jp/seller/msxyh0208で購読してください。 https://auctions.yahoo.co.jp/seller/msxyh0208 日芸生は江古田校舎購買部・丸善で入手出来ます。

 

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これを観ると清水正ドストエフスキー論の神髄の一端がうかがえます。日芸文芸学科の専門科目「文芸批評論」の平成二十七年度の授業より録画したものです。是非ごらんください。
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清水正ドストエフスキー論」五十周年に想う(4)

下原敏彦

 

四 清水正ドストエフスキー論」との四十年
 
極めて個人的ではあるが、五十年前の日大闘争。筆者は気 骨ある日大OBたちの勇気ある声明文によって智を得た。あ の声明文は、世界無銭旅行を夢見て柔道とアルバイトに明け 暮れていた筆者にとって巨大なモノリスだった。連名にあっ た埴谷雄高という作家が、ドストエフスキー愛読者と知っ て、より身近で親しいものになった。
 
前に書いたが声明文を見てから数年後、筆者は、突然、ド ストエフスキーと出会った。きっかけは退屈凌ぎに開いた小 説本のあとがきだった。 〈十九世紀末のロシア。友人がはじめて書いた小説。読み 終えた二人の若者は、感動のあまり、白夜の街を走って作者 に感想を知らせに行った。〉
 
そんな文豪デビューのエピソードだった。この話は真実 か。そんな面白い本が実際にあるのか。そんな疑問から手に した翻訳本『貧しき人々』(江川卓訳)。読みはじめたらとま らない。周囲の景色が変わっていった。あの話は本当だっ た。気がつくと筆者は、ドストエフスキーの世界から抜け出 せなくなっていた。その時期に発足した「ドストエーフスキイの会」に入会し、併せて「ドストエーフスキイ全作品を読 む会・読書会」に参加するようになっていた。あんな小説を 書いた作者のことを知りたかった。
 
そして、そこで清水正という名を知った。ドストエーフス キイの会開催の第九回例会報告で、「ドストエフスキーに関 する勝手気儘なる饒舌」を報告して、話題になった日大の学 生とのこと。日大にも、そんな学生がいたんだとうれしく 思った。声明文の作家と同じく勇気と誇らしさをもらった。
 
清水正ドストエフスキー論」を、はじめて読んだときの ことはよく覚えている。大失敗をやらかしたのだ。
 
清水正発行の『ドストエフスキー狂想曲Ⅰ~Ⅶ』(一九七五~一九七九)の書評が回りまわって筆者のところにきた。 ドストエフスキー熱にかかったばかりの筆者は、迂闊にも引 き受けてしまった。しかし、送られてきた、雑誌を見て、言 葉をなくした。十年近くドストエフスキーを読みつづけてい る清水教授と、昨日今日、読みはじめたばかりの筆者では、 比較対象にもならなかった。作品理解度の差は歴然、到底内 容に踏み込んでの書評など書けるはずもなかった。失礼とは 思ったが、一部感想と、内容の紹介だけに留まった。
 
後日、画家・小山田チカエさんのアトリエで『ドストエ フスキー狂想曲』雑誌発行者のメンバーと顔を合わせるこ とになった。清水教授とは、はじめての邂逅だった。印象 は、うわさに聞いていた通りだった。(ラスコーリニコフ的雰囲気)。もしくはそれ以上だった。筆者は、逡巡するばか りだった。
 
当然ながら、メンバーから先の書評は「よく読んでいな い」と批判された。険悪な雰囲気になった。救ってくれたの は教授だった。不満の仲間たちをなだめてその場を治めた。 おそらく、教授は、筆者の未熟さをすでに看破していて批判 は無用と思っていたのだろう。筆者は、安易に書評を引き受 けることの怖さと、自分のドストエフスキー作品読みの浅さ を、痛感した。教授とは、二度とふたたび会うことはないと 思った。
 
しかし縁は異なもの不思議なもの。十余年の後、筆者のも とに、なぜかふたたび清水教授が出した本の書評依頼がき た。筆者もドストエフスキーの道を歩きはじめて十余年、こ んどばかりは躊躇することなく引き受けた。 『宮沢賢治ドストエフスキー』(創樹社一九八九)が、そ れであった。この本は、亡くなった息子さんに捧げた命の書 でもあった。読後、ひろがっていく静かな感動。私は、この ときはじめて教授の批評精神の真髄に触れたように感じた。 文明という荒れ野に立つモノリスを思った。
 
その後、筆者は「清水正ドストエフスキー論」が発表さ れるたびに読み続けていくようになる。教授は、「批評しつ くす」の言葉通り、様々な場所で書きあげたドストエフス キー論を、発信し報告した。あるときは自ら発行の『D文学
通信』で、あるときは編集長を務めた日芸誌『江古田文学』 で、またあるときは様々な出版物で、二〇一八年の今日ま で、筆者は、ひたすら「清水正ドストエフスキー論」を読 みつづけてきた。その歳月を指折る、四十年という長き歳月 に驚く。筆者の人生は、まさに「清水正ドストエフスキー 論」とともにあったのだ。改めてそのことを思うと感慨無量 である。
 
五 現代のモノリス
 
現在、日本においてドストエフスキー熱はまだまだ衰えて いない。一九六九年発足の「ドストエーフスキイの会」は、 健在で隔月に開催する例会で、若い研究者たちに発表の門戸 を開いている。また、二〇一七年四月には、新進の研究者が 集う「日本ドストエフスキー協会」が誕生した。ドストエー フスキイの会発足時からつづいている「全作品を読む会・読 書会」も、毎回二十名前後の参加があり、盛会である。
 
いつの間にか五十年の歳月が流れた。が、いつの時代も読 者も研究者も変わらない。そんな気がする。
 
いつだったか孤高のドストエフスキー研究者として名高い A氏と会食した折りこんな質問をしたことがある。 「これまでのドストエフスキー研究で、注目している人は、いますか」 「そうですねえ、わたしの考えですが」と、A氏は断って から迷うことなく言った。「一人は江川卓さんでしょう。も うなくなられましたが。それからあとの一人は、やっぱり清 水正さんかな」
 
福音書を手引きとしてドストエフスキー研究を進めるA氏 は、清水正教授の、想像・創造批評を高く評価していた。多 くのドストエフスキー論があるなか、清水正・ドストエフス キー論は、独創的で質、量ともに群を抜いている。
 
二十一世紀、テロで荒れた序盤だったが、この先世界はど うなるか。トランプ米大統領北朝独裁者との会談で、ほん とうに極東に平和はくるのか。アフリカの混乱、欧州の移民 問題、ユダヤ人とアラブ人の対立。W杯から東京オリンピッ ク。民族の興奮と熱狂はつづくが、あるべき世界は渾沌とし ている。不透明なままである。
 
全世界の統一を目指すための道標、ドストエフスキーは、 人類にとってまだまだ必要だ。そのことは、取りも直さず清 水正教授の母校(筆者の母校でもあるが)日本大学にとって も必要といえる。
 
二〇一八年上半期、日大は、大変な苦境に立たされてい る。アメフト選手のラフプレーに端を発した問題は、日大の 存亡がかかるほどの大騒動となった。露呈された日大体質。 連日、テレビはNHKはむろんすべての局がトップニュース
として報じた。地に落ちた日大を救ったのは、なんとラフプ レーした加害選手だった。日本中が彼の誠実な一人会見に心 打たれた。指導者たちの無策と無責任さを知った。その後に つづく日大経営者たちの対応に怒りの声があがった。
 
今後、日大問題は、どう展開していくのか。現経営陣が潔 く身を引くのか、それとも半世紀前のような混乱があるの か。たとえ事態がどうなろうと、これだけは言える。加害選 手の勇気ある謝罪を無にしてはいけない。正義の火を消して はいけない。
 
そうして、五十年前の声明文を思い出してほしい。
日本大学のこれまでの恥辱の歴史に勇然とたちあがった 怒りの炎を、君らの胸にもやしつづけろ。」
 
デモ学生が、右翼学生が、ノンポリたちが、OBが足をと めて振り返った。そうして日大生であることに誇りと希望を もった。その進化は、すぐに壁新聞にあらわれた。雑誌記 者・柳田邦夫は、「不滅の夏」と題してこう報じた。
 
九月一〇日、嵐の先ぶれで、本降りになりはじめた神田三 崎町の経済学部付近で、私はこの一文を書いている。
 
たった今、三つの文章を読んだばかりである。雨にうたれ て半ば破れかかった「壁新聞」ではあったが、それぞれに、胸を衝く文章であった。 (『叛逆のバリケード 日大闘争の記録』)
(日大問題がニュースになってから、日大出身の著名人た ちは、意識してか無意識にか、姿も声も見せなくなった。先 日、人気タレントの毒蝮三太夫さんが出演して、堂々「日芸 出身」と名乗っていた。久々の日大魂を見た。彼もまたモノ リスとなって日大生に勇気を与えた。)
 
今日、ふたたび日大は、渾沌の闇のなかにある。
 
あのモノリスは、いまどこに。
 
モノリスは、名を変え姿を変えて、いま日芸に悠然と聳え ている。「清水正ドストエフスキー論」がそれである。十 七歳の少年が目指した夢は、確かな成果として光り輝いてい る。日大には、こんな教育者がいる。日本にはこんな研究者 がいる。そのことをひろく世界に知らしめている。
清水正ドストエフスキー論」五十周年、おめでとうご ざいます!

(しもはら・としひこ  日本大学芸術学部文芸学科講師)

下原敏彦「清水正・ドストエフスキー論」五十周年に想う(3)

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講演「『罪と罰』再読」2018-11-23

 

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清水正ドストエフスキー論執筆50周年記念  清水正先生大勤労感謝祭」での挨拶 日大芸術学部芸術資料館に於いて。2018-11-2

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ドストエフスキー曼陀羅」特別号から紹介します。

 

清水正ドストエフスキー論」五十周年に想う(3)

下原敏彦

 


三 一九六八年の日大闘争
 
学園闘争の真っただなかで無心にドストエフスキーを読む 日大生。彼の頭にはドストエフスキーしかなかった。ドスト エフスキー以外のものは目に入らなかった。「人間の神秘を 解く」十七歳のときにドストエフスキーが宣言したように、 その学生も、十七歳のとき人生を懸けて「ドストエフスキー の作品をすべて批評しつくす」と決心し歩みはじめたのだ。
 
ところで教授は、知っていただろうか。ちょうどその頃、 ドストエフスキー論で知られる日大出身の作家が、義憤に駆 られ(日大出身の俳優や評論家たちと協力して)ある声明文を発表していたことを。
 
清水教授の学生時代は、はるかデモ群衆を離れてだった。 ドストエフスキーを読み、作品論を書きはじめた。それはニ コライ一世の(秘密警察)統制抑圧の嵐が吹くロシアで文学 を志し、小説『貧しき人々』を書きはじめたドストエフス キーの青春と重なる。文豪は、やがて活発な思想活動に嵌っ ていく。
 
教授は、学園紛争には「行動する理論的根拠をなくしてし まった」として、ドストエフスキー論を書きつづけたが、戦 い終わった日大の戦場ガ原にはどんな風が吹いたか。それを 知るために、あの日大闘争について、もう少し振り返ってみ たい。
 
一九六八年五月、フランスで燃え上がった学園紛争の炎 は、たちまちのうちに全世界の大学に燃え移った。日本も例 外ではなかった。その炎は、枯野に放たれた野火のごとく勢 いよく日本全土に燃え広がった。  そのなかにあって唯一日本大学だけは、学園紛争と無縁 だった。それ故「ポン大生がデモなどやるか」そんな悪口が 公然と囁かれた。
 
しかし、その年の夏、突如、日大に火の手はあがった。日 本一の学部数、学生数を誇る各地の日大校舎から一斉に火の 手があがったのだ。世間もマスメディアも驚いた。「あの日大生が?…」誰もが唖然とした。容易に信じなかった。が、 真実だった。学部ごとに各地に聳える日大校舎は、学生たち によって次々に落城、占拠されていった。
 
大学も政府も、対策には、なぜか機敏だった。香港帰りの 警視庁公安部警視正佐々淳行警備第一課長を、鎮火すべき 神田三崎町の日大校舎に向かわせた。彼は、後に東大安田講 堂攻防戦や連合赤軍浅間山荘事件で警備幕僚長として活躍、 名将として名を馳せた。その彼とて「日大生起つ」の報に接 したとき、容易に信じられなかった。どうせ他大学の学生運 動家が、宿り木のように巣くったに違いない。そう思った。
 
それもそのはずである。当時、彼の知る日本大学はこのよ うだった。

 
日大は徹底した商業主義に基づくマンモス教育企業であ り、その放漫きわまる経営方針のゆえに私立大学紛争の最高 峰となったのである。

 そもそも学生の総数すら日大当局の誰にきいてもはっきり しない。あるいは十二万人、あるいは十五万人という。(中 略)二部(夜間)や通信教育をいれると三十万人ともいう。
佐々淳行著『東大落城』文春文庫一九九六)
 学生の大量生産化は、学生たちを無気力、無関心にした。 また応援団や暴力右翼勢力によって問題意識の徹底的な排斥
もおこなってきた。それにより向こう百年、日本大学には、 学生運動は起きない。そんな定説が生まれもした。
 
それだけに日大生の反乱は、市井の人々にとっても驚きで あった。そして、或る種の感動でもあった。あの日大生が、 ついに起った。不正に怒りの狼煙をあげた。
 
バリケード解除を要請された警視庁にも
 
「これじゃあ日大の学生たちが怒るのも無理はない」 (佐々淳行著『東大落城』)

 
とまで思わせた日大紛争だった。が、暴力に対する暴力の 訴えは、しだいに彼らを窮地に追い込んでいった。

 孤軍奮闘の彼らに援護の声明文を送ったのは、ドストエフ スキー論で知られる作家、埴谷雄高はじめ九名の日大出身者 だった。(埴谷雄高   宇野重吉   佐古純一郎   池田みち子   伊藤逸平   後藤和子   沙羅双樹   当間嗣光   中桐雅夫)(『叛 逆のバリケード――日大闘争の記録』日本大学文理学部闘争 委員会一九六八)
 
埴谷氏は、自らの経験からも組織運動の末路、暴力闘争の 果てを充分に理解し認識していた。ドストエフスキーにも学 んでいたはず。だが、それでもなお身を挺して、声明文に名 を連ねた。彼らは、世間の評価を気にすることなく、学校当局を恐れることなく、正々堂々、日大魂を見せた。次がその 声明文である。
※このとき筆者が知っていたこのなかの著名人は、俳優の宇 野重吉だけだった。宇野重吉は、NHK大河ドラマ「赤穂浪 士」の大泥棒・蜘蛛の陣十郎役で覚えていた。
「燃える怒りの火を消すな」
 
三四億円の使途不明金問題をかわきりに、学園の民主化を めざして闘っている学生諸君、君らは今、日本大学の新しい 歴史をきり刻んでいる。日本大学民主化闘争は日本の最右 翼の大学における反逆である。だからこそ、砲丸から日本刀 まで持出した体育系右翼の暴力と、機動隊の介入は決して偶 然のものではありえない。しかし、一〇万人の日大生は、か いならされてはいなかった。その証明を、君らは闘いの中で 展開している。日本大学のこれまでの恥辱の歴史に勇然とた ちあがった怒りの炎を、君らの胸にもやしつづけろ。それは 自由を暴圧するすべてを包み、反逆の怒りをさらにもえあが らせる力となるだろう。私たち日本大学を巣立った有志は、 君たちの闘いを支持し次のことがらを声明する。 一
、三四億円の使途不明金問題を出し、さらに右翼暴力団、 体育系学生を動員しての暴力事件に対して、理事会は責任
の所在を明確にし、大学を真の教育の場とする方針を具体 化せよ。

、大学は学問追究の場として、学生の、表現・出版・集会 の自由を認めよ。 一
、これまでにおこった暴力事件の責任を学生に転嫁した退 学・停学等の処分を撤回し、今後このような学生に対する 不当処分をくりかえすな。 一
、学園民主化のため、暴力と弾圧に屈せず闘っている学生 諸君の勇気ある行動をたたえこれを支持する。 (『朝日ジャーナル』一九六八年六月三〇日号より転載) (『叛逆のバリケード    日大闘争の記録』)
 
このときたちあがった学生たちは、結果的には国家権力の 前に敗北した。だが、この声明文は十万日大生の胸を打っ た。心のなかに支えとして残った。そして日本社会底辺で働 く数十万余の日大OBの誇りにもなった。そして、それ以 降、日大の名誉を高める原動力となった。日大闘争の敗北を 境に日大の評判は、少しずつ良くなっていった。大学の評価 も高まっていった。結果、蔑称「ポン大」は忘却の彼方に 去った。それは、まさに『カラマーゾフの兄弟』の序文を飾 る福音書の教えを見るようでもあった。
 
まことに、まことに汝らに告ぐ。一粒の麦、もし地に落ち
−134−
て死なずば、一粒のままにてあらん。されどもし死なば、多 くの実をもたらすべし。 (「ヨハネ福音書」第十二章二十四節)
 (世界文学全集十九『カラマーゾフの兄弟江川卓訳   集英社一九七五)
 
その後「されどもし死なば、多くの実をもたらすべし。」 となった日大闘争だが、それほどまでに我が日本大学は、 「恥辱の歴史に」まみれていたのだ。
 
ちなみに清水教授が学生だった頃の日本大学は社会からど う見られていたのか。日大芸術学部敗戦時の状況はどんな だったか。余談になるが機動隊警備課長の任にあたっていた 佐々淳行氏の実況報告を証言としてもう少し聞いてみよう。
 
昭和四十三年十一月十二日、三機、五機を主力とする機動 隊一千二百二十五名が豊田武雄第五方面本部長の指揮のもと 練馬区江古田の日本大学芸術学部攻めに出動した。  日大芸術学部は、六月十九日以来日大全共闘バリケード 封鎖され、要塞化が進んでいたが、十一月八日未明、スト反 対派の体育会系学生約二百名が角材をもって殴りこみをかけ てきた。ところが全共闘約四百名に反撃され、大乱闘となっ たあげく、体育会系学生六十二名が監禁され、リンチを受け て重軽傷を負うという流血事件が発生した。        
佐々淳行著『東大落城』)
 
機動隊は、この流血事件の捜査協力を要請されたとみられ る。が、事件の推移に、筆者が当事者から直接聞いたことと 『東大落城』にある報告と、多少のズレがある。佐々氏の報 告は、流血事件に至る推移をこのように報告している。大乱 闘の結果、
 日大芸術学部全共闘、黒ヘル・銀ヘルたちは体育会幹部 数名を、針金で縛ったあげく両手の指を折り、ローソクで髪 などを焼き裸にして江古田の街をひきまわすという、正気の 沙汰とは思われないリンチにかけたのだった。
佐々淳行著『東大落城』)
 
筆者が、その場にいたというスト学生から聞いた話はこう だ。
 
日大全共闘が籠城している芸術学部校舎(機動隊は「千早 城」と呼んでいた)から右翼学生に襲われているので応援頼 むという連絡を受けた。各方面から小隊がかけつけ奪還し た。なかにはいると全裸にされた男女が針金で縛られ吊るさ れていた。それで激怒したスト学生たちが捕虜にした右翼学 生にリンチを加えた。そのとき空手部部員の拳を砕いたとも 言った。まさに『悪霊』を彷彿させる惨劇。仕掛けたのはどちらか。藪のなかである。が、わかっているのは、暴力は、 結局暴力を呼ぶ空しさである。
 
当初、警視庁も機動隊も日大全共闘には同情的だった。 佐々氏は、こう証言する。
 
わがまま勝手で無責任な大学当局の機動隊出動要請に、や や中っ腹で対応してきていたのだ。  
佐々淳行著『東大落城』)
 
警察も世間も日大生に同情的だった。だが、あの瞬間から 風向きは変わった。一九六八年九月四日午前五時四十分頃、 神田三崎町日本大学経済学部本館四階から投げ落とされた人 頭大の石。真下で支援警備に従事していた機動隊第三分隊 長・西条秀雄巡査部長(三十四歳)に直撃したのだ。その造 りから難攻不落といわれていた「千早城」の異名をもつ日大 芸術学部バリケード砦は、あっという間に陥落した。それ を契機に日大闘争は、一気に終焉を迎えた。  同時に気骨ある日大出身者たちが掲げた、あの声明文も忘 れ去られていった。筆者の心の片隅に残存するのみであっ た。筆者は、この頃、ドストエフスキーを知らなかった。当 然、埴谷雄高という作家も、である。夢は、文学とは程遠い 海外(海外技術協力隊)にあった。既に茨城県内原で大型特 殊(カタピラ車)免許を取得していた。
 
数年後、筆者は、はじめてドストエフスキーと出会って衝 撃を受けた。岡村昭彦の『続南ヴェトナム戦争従軍記』、石 川達三の『蒼氓』を経てのドストエフスキー体験。この世 界に、こんな小説があるのか。驚きと覚醒。「ドストエフス キーとは何か」知りたくなった。ドストと名のつくものを手 当たりしだいひろげてみた。様々な人たちがドストエフス キー論や作品論を出していることを、このときはじめて知っ た。そのなかに埴谷雄高という作家の名前を見つけた。 「埴谷雄高」…はて、どこかで聞いた名前…。思い出せな かった。だが、あるとき突然、記憶がよみがえった。
 
そうか、声明文に名前を連ねていた気骨ある先輩たちの一 人だったのか。わかるとその作家が、なつかしく思えた。以 前からの知り合いのような気がした。うれしかった。
 
映画『二〇〇一年宇宙の旅』(キューブリック監督一九六 八)を見たばかりだった。洞窟で獣のように暮らしていた類 人猿(筆者も仲間)は、神の贈りものモノリスに触れたおか げで智を授かった。そうして短い歳月の間に進歩した。「人 間の謎」を解くために宇宙船で他の星に旅することができる ようにまでなった。映画を思い出して、ふとあの声明文は、 筆者にとって、『二〇〇一年宇宙の旅』に出てくるモノリス だったかも。そのように思えた。そんなことで最初に読んだ ドストエフスキーに関する論考は、埴谷雄高の『ドストエフ スキイ   その生涯と作品』(NHKブックス一九六五)だっ
た。

下原敏彦「清水正・ドストエフスキー論」五十周年に想う(2)

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講演「『罪と罰』再読」2018-11-23

 

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清水正ドストエフスキー論執筆50周年記念  清水正先生大勤労感謝祭」での挨拶 日大芸術学部芸術資料館に於いて。2018-11-2

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清水正ドストエフスキー論全集第10巻が刊行された。
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清水正ドストエフスキー論」五十周年に想う(2) 

下原敏彦

 

二   はるか学園紛争を離れて
 
半世紀に及ぶドストエフスキー作品との格闘。その人生は 内外ともに決して安楽な旅ではなかった。とくに学生時代― ―教授がドストエフスキー論に着手した頃、外的には、大変 な時代だった。一九六八年、その年の五月フランスのパリで 燃え上がった大学紛争は、あっという間に全世界に燃え広がった。日本でも全国の大学に火の手があがった。全共闘時 代の幕開けである。しかし、教授の母校日大は 「我が日大からはデモ学生は一人も出ない。出さない。学園 紛争など起こるはずはない」 と、豪語していた。
 
だが、日大も例外ではなかった。ある日、突然に自然発火 し、一気に燃え広がった。もっとも日大闘争の発端は、他の 大学のように政治や思想的背景ではなかった。当時、激化し つつあったベトナム戦争反対でもなかった。
 
日大の学生運動は、単純で深刻な問題から発生した。学校 当局の不正、学園の封建体制への反発。そして社会のなかで の差別と偏見と、いわれのない侮蔑。日大闘争は、悲しき魂 の怒りの爆発だった。正義の訴えと、悪の追放。それがはじ まりだった。
 
そんな吹き荒ぶ学園嵐のなかで、「清水正・ドストエフス キー論」の執筆はスタートした。右派でも左派でもない。ま してノンポリでもない。
 
清水教授は、たった一人、孤独の闘いを開始したのだ。こ の頃の様子を、教授は『日藝ライブラリー   No.3』のな かでこのように回想している。

 全学連の連中が動き出し、連日、校舎前ではデモ行進が行 われた。わたしは大講堂の二階から彼らの熱い行動をひたすら見ていた。わたしには彼らと行動を共にする情熱も理論的 な支柱もすでに崩壊していた。わたしは十七歳でドストエフ スキーの『地下生活者の手記』を読んで以来、行動する理論 的根拠をなくしてしまったのだ。 (『日藝ライブラリー   No.3』「松原寛との運命的な邂逅」)
「一人衝立のなかに籠って、ドストエフスキーを読みつづ け、作品論を書きつづけていた」近年、清水教授は、当時の ことを、飲み会の席などでこのようにも述懐していた。
 
バリケード破り、学校封鎖、投石、火炎瓶。右翼学生とデ モ学生の衝突。戦場となった大学構内。そんな江古田校舎の 校内にこんな架空場面を想像する。
 
デモ学生、体育会系の右翼学生、機動隊が入り乱れての芸 術学部校舎。戦いすんで日が暮れて森閑となった教室や研究 室。無人の教室を見回る勝ち組の学生たち。彼らは、文芸棟 の教室の隅に衝立を見つけた。なかに人の気配。  「だれだ!」   誰何すれども返答なし。
  さては逃げ遅れた敵対勢力か。気色ばんで衝立を開けれ ば、なかにいたのは学生一人。机にうず高く積まれた書籍の なかに顔を埋め黙々と本を読んでいた。取り囲む男たちに動 ずる様子もない。我関せずで読書に没頭している。長身の体
はやせ細り、背中までたれた長髪。幽谷でなくても不気味な 雰囲気が漂う。 「だれだ!   なにをしている?」   さすがの兵どもも恐怖に駆られて叫んだ。
  その問いに、漸くその学生は緩慢に振り返った。眼鏡の奥 からの視線は、どこか遠くを見据えているようだった。その 異様さに取り囲んだ暴力学生たちは、逡巡した。 「ここで何してる」一人が勇気を振り絞って大声で聞いた。 「もう少し静かに願えませんか。本を読んでいるんです」
 
突然、その学生は口を開いた。落ち着いた低い声だった。 「ほん?   本を読んでいるだと?」 「こんなときにか 」 「いったい、どんなほんか?」
 
興味をもったのか一人が聞いた。

 若者は、無言で読んでいた厚い本をもちあげ表紙を見せ た。 「ど、す、とえふ 」 「なんだ、それは」

 
彼らは、あんぐり口をあけて佇んでいた。不可解なもの、 理解できぬことには対応できないらしい。 「こんなときに、なんなんだ。あたまがおかしいのか」

 
彼らは、首を傾げ口々に疑問を呟きながら去って行った。

 
その学生は、何事もなかったように再び、読書をはじめた。
 
彼らは知る由もなかった。その本がドストエフスキー全集 だったことも、その学生がその後、五十年も同じ姿勢で、そ の本を読みつづけていくことも、作品の謎に挑戦してドスト エフスキー論を執筆しつづけていくことも。そして、日芸の 名物教授にして日本を代表するドストエフスキー研究者の一 人になることも、想像すらできなかった。
 
少々、空想的過ぎたが、清水正教授が、ドストエフスキー 論を執筆しはじめたときの身辺は、およそ、このようなシー ンが展開されたのではなかったか。
(しもはらとしひこ 日芸文芸学科非常勤講師・ドストエーフスキイ全作品を読む会代表)