下原敏彦「清水正・ドストエフスキー論」五十周年に想う(3)

f:id:shimizumasashi:20181123183509j:plain

講演「『罪と罰』再読」2018-11-23

 

f:id:shimizumasashi:20181123163513j:plain

清水正ドストエフスキー論執筆50周年記念  清水正先生大勤労感謝祭」での挨拶 日大芸術学部芸術資料館に於いて。2018-11-2

清水正の著作はアマゾンまたはヤフオクhttps://auctions.yahoo.co.jp/seller/msxyh0208で購読してください。 https://auctions.yahoo.co.jp/seller/msxyh0208 日芸生は江古田校舎購買部・丸善で入手出来ます。

 

清水正への講演依頼、清水正の著作の購読申込、課題レポートなどは下記のメールにご連絡ください。
shimizumasashi20@gmail.com

(人気ブログランキングに参加しています。よろしければクリックお願いします)
https://www.youtube.com/watch?v=MlzGm9Ikmzk
これを観ると清水正ドストエフスキー論の神髄の一端がうかがえます。日芸文芸学科の専門科目「文芸批評論」の平成二十七年度の授業より録画したものです。是非ごらんください。
https://www.youtube.com/watch?v=MlzGm9Ikmzk

(人気ブログランキングに参加しています。よろしければクリックお願いします)
 
https://www.youtube.com/watch?v=MlzGm9Ikmzk
清水正ドストエフスキー論全集第10巻が刊行された。
清水正・ユーチューブ」でも紹介しています。ぜひご覧ください。
https://www.youtube.com/watch?v=wpI9aKzrDHk

https://www.youtube.com/watch?v=MlzGm9Ikmzk

 

 

ドストエフスキー曼陀羅」特別号から紹介します。

 

清水正ドストエフスキー論」五十周年に想う(3)

下原敏彦

 


三 一九六八年の日大闘争
 
学園闘争の真っただなかで無心にドストエフスキーを読む 日大生。彼の頭にはドストエフスキーしかなかった。ドスト エフスキー以外のものは目に入らなかった。「人間の神秘を 解く」十七歳のときにドストエフスキーが宣言したように、 その学生も、十七歳のとき人生を懸けて「ドストエフスキー の作品をすべて批評しつくす」と決心し歩みはじめたのだ。
 
ところで教授は、知っていただろうか。ちょうどその頃、 ドストエフスキー論で知られる日大出身の作家が、義憤に駆 られ(日大出身の俳優や評論家たちと協力して)ある声明文を発表していたことを。
 
清水教授の学生時代は、はるかデモ群衆を離れてだった。 ドストエフスキーを読み、作品論を書きはじめた。それはニ コライ一世の(秘密警察)統制抑圧の嵐が吹くロシアで文学 を志し、小説『貧しき人々』を書きはじめたドストエフス キーの青春と重なる。文豪は、やがて活発な思想活動に嵌っ ていく。
 
教授は、学園紛争には「行動する理論的根拠をなくしてし まった」として、ドストエフスキー論を書きつづけたが、戦 い終わった日大の戦場ガ原にはどんな風が吹いたか。それを 知るために、あの日大闘争について、もう少し振り返ってみ たい。
 
一九六八年五月、フランスで燃え上がった学園紛争の炎 は、たちまちのうちに全世界の大学に燃え移った。日本も例 外ではなかった。その炎は、枯野に放たれた野火のごとく勢 いよく日本全土に燃え広がった。  そのなかにあって唯一日本大学だけは、学園紛争と無縁 だった。それ故「ポン大生がデモなどやるか」そんな悪口が 公然と囁かれた。
 
しかし、その年の夏、突如、日大に火の手はあがった。日 本一の学部数、学生数を誇る各地の日大校舎から一斉に火の 手があがったのだ。世間もマスメディアも驚いた。「あの日大生が?…」誰もが唖然とした。容易に信じなかった。が、 真実だった。学部ごとに各地に聳える日大校舎は、学生たち によって次々に落城、占拠されていった。
 
大学も政府も、対策には、なぜか機敏だった。香港帰りの 警視庁公安部警視正佐々淳行警備第一課長を、鎮火すべき 神田三崎町の日大校舎に向かわせた。彼は、後に東大安田講 堂攻防戦や連合赤軍浅間山荘事件で警備幕僚長として活躍、 名将として名を馳せた。その彼とて「日大生起つ」の報に接 したとき、容易に信じられなかった。どうせ他大学の学生運 動家が、宿り木のように巣くったに違いない。そう思った。
 
それもそのはずである。当時、彼の知る日本大学はこのよ うだった。

 
日大は徹底した商業主義に基づくマンモス教育企業であ り、その放漫きわまる経営方針のゆえに私立大学紛争の最高 峰となったのである。

 そもそも学生の総数すら日大当局の誰にきいてもはっきり しない。あるいは十二万人、あるいは十五万人という。(中 略)二部(夜間)や通信教育をいれると三十万人ともいう。
佐々淳行著『東大落城』文春文庫一九九六)
 学生の大量生産化は、学生たちを無気力、無関心にした。 また応援団や暴力右翼勢力によって問題意識の徹底的な排斥
もおこなってきた。それにより向こう百年、日本大学には、 学生運動は起きない。そんな定説が生まれもした。
 
それだけに日大生の反乱は、市井の人々にとっても驚きで あった。そして、或る種の感動でもあった。あの日大生が、 ついに起った。不正に怒りの狼煙をあげた。
 
バリケード解除を要請された警視庁にも
 
「これじゃあ日大の学生たちが怒るのも無理はない」 (佐々淳行著『東大落城』)

 
とまで思わせた日大紛争だった。が、暴力に対する暴力の 訴えは、しだいに彼らを窮地に追い込んでいった。

 孤軍奮闘の彼らに援護の声明文を送ったのは、ドストエフ スキー論で知られる作家、埴谷雄高はじめ九名の日大出身者 だった。(埴谷雄高   宇野重吉   佐古純一郎   池田みち子   伊藤逸平   後藤和子   沙羅双樹   当間嗣光   中桐雅夫)(『叛 逆のバリケード――日大闘争の記録』日本大学文理学部闘争 委員会一九六八)
 
埴谷氏は、自らの経験からも組織運動の末路、暴力闘争の 果てを充分に理解し認識していた。ドストエフスキーにも学 んでいたはず。だが、それでもなお身を挺して、声明文に名 を連ねた。彼らは、世間の評価を気にすることなく、学校当局を恐れることなく、正々堂々、日大魂を見せた。次がその 声明文である。
※このとき筆者が知っていたこのなかの著名人は、俳優の宇 野重吉だけだった。宇野重吉は、NHK大河ドラマ「赤穂浪 士」の大泥棒・蜘蛛の陣十郎役で覚えていた。
「燃える怒りの火を消すな」
 
三四億円の使途不明金問題をかわきりに、学園の民主化を めざして闘っている学生諸君、君らは今、日本大学の新しい 歴史をきり刻んでいる。日本大学民主化闘争は日本の最右 翼の大学における反逆である。だからこそ、砲丸から日本刀 まで持出した体育系右翼の暴力と、機動隊の介入は決して偶 然のものではありえない。しかし、一〇万人の日大生は、か いならされてはいなかった。その証明を、君らは闘いの中で 展開している。日本大学のこれまでの恥辱の歴史に勇然とた ちあがった怒りの炎を、君らの胸にもやしつづけろ。それは 自由を暴圧するすべてを包み、反逆の怒りをさらにもえあが らせる力となるだろう。私たち日本大学を巣立った有志は、 君たちの闘いを支持し次のことがらを声明する。 一
、三四億円の使途不明金問題を出し、さらに右翼暴力団、 体育系学生を動員しての暴力事件に対して、理事会は責任
の所在を明確にし、大学を真の教育の場とする方針を具体 化せよ。

、大学は学問追究の場として、学生の、表現・出版・集会 の自由を認めよ。 一
、これまでにおこった暴力事件の責任を学生に転嫁した退 学・停学等の処分を撤回し、今後このような学生に対する 不当処分をくりかえすな。 一
、学園民主化のため、暴力と弾圧に屈せず闘っている学生 諸君の勇気ある行動をたたえこれを支持する。 (『朝日ジャーナル』一九六八年六月三〇日号より転載) (『叛逆のバリケード    日大闘争の記録』)
 
このときたちあがった学生たちは、結果的には国家権力の 前に敗北した。だが、この声明文は十万日大生の胸を打っ た。心のなかに支えとして残った。そして日本社会底辺で働 く数十万余の日大OBの誇りにもなった。そして、それ以 降、日大の名誉を高める原動力となった。日大闘争の敗北を 境に日大の評判は、少しずつ良くなっていった。大学の評価 も高まっていった。結果、蔑称「ポン大」は忘却の彼方に 去った。それは、まさに『カラマーゾフの兄弟』の序文を飾 る福音書の教えを見るようでもあった。
 
まことに、まことに汝らに告ぐ。一粒の麦、もし地に落ち
−134−
て死なずば、一粒のままにてあらん。されどもし死なば、多 くの実をもたらすべし。 (「ヨハネ福音書」第十二章二十四節)
 (世界文学全集十九『カラマーゾフの兄弟江川卓訳   集英社一九七五)
 
その後「されどもし死なば、多くの実をもたらすべし。」 となった日大闘争だが、それほどまでに我が日本大学は、 「恥辱の歴史に」まみれていたのだ。
 
ちなみに清水教授が学生だった頃の日本大学は社会からど う見られていたのか。日大芸術学部敗戦時の状況はどんな だったか。余談になるが機動隊警備課長の任にあたっていた 佐々淳行氏の実況報告を証言としてもう少し聞いてみよう。
 
昭和四十三年十一月十二日、三機、五機を主力とする機動 隊一千二百二十五名が豊田武雄第五方面本部長の指揮のもと 練馬区江古田の日本大学芸術学部攻めに出動した。  日大芸術学部は、六月十九日以来日大全共闘バリケード 封鎖され、要塞化が進んでいたが、十一月八日未明、スト反 対派の体育会系学生約二百名が角材をもって殴りこみをかけ てきた。ところが全共闘約四百名に反撃され、大乱闘となっ たあげく、体育会系学生六十二名が監禁され、リンチを受け て重軽傷を負うという流血事件が発生した。        
佐々淳行著『東大落城』)
 
機動隊は、この流血事件の捜査協力を要請されたとみられ る。が、事件の推移に、筆者が当事者から直接聞いたことと 『東大落城』にある報告と、多少のズレがある。佐々氏の報 告は、流血事件に至る推移をこのように報告している。大乱 闘の結果、
 日大芸術学部全共闘、黒ヘル・銀ヘルたちは体育会幹部 数名を、針金で縛ったあげく両手の指を折り、ローソクで髪 などを焼き裸にして江古田の街をひきまわすという、正気の 沙汰とは思われないリンチにかけたのだった。
佐々淳行著『東大落城』)
 
筆者が、その場にいたというスト学生から聞いた話はこう だ。
 
日大全共闘が籠城している芸術学部校舎(機動隊は「千早 城」と呼んでいた)から右翼学生に襲われているので応援頼 むという連絡を受けた。各方面から小隊がかけつけ奪還し た。なかにはいると全裸にされた男女が針金で縛られ吊るさ れていた。それで激怒したスト学生たちが捕虜にした右翼学 生にリンチを加えた。そのとき空手部部員の拳を砕いたとも 言った。まさに『悪霊』を彷彿させる惨劇。仕掛けたのはどちらか。藪のなかである。が、わかっているのは、暴力は、 結局暴力を呼ぶ空しさである。
 
当初、警視庁も機動隊も日大全共闘には同情的だった。 佐々氏は、こう証言する。
 
わがまま勝手で無責任な大学当局の機動隊出動要請に、や や中っ腹で対応してきていたのだ。  
佐々淳行著『東大落城』)
 
警察も世間も日大生に同情的だった。だが、あの瞬間から 風向きは変わった。一九六八年九月四日午前五時四十分頃、 神田三崎町日本大学経済学部本館四階から投げ落とされた人 頭大の石。真下で支援警備に従事していた機動隊第三分隊 長・西条秀雄巡査部長(三十四歳)に直撃したのだ。その造 りから難攻不落といわれていた「千早城」の異名をもつ日大 芸術学部バリケード砦は、あっという間に陥落した。それ を契機に日大闘争は、一気に終焉を迎えた。  同時に気骨ある日大出身者たちが掲げた、あの声明文も忘 れ去られていった。筆者の心の片隅に残存するのみであっ た。筆者は、この頃、ドストエフスキーを知らなかった。当 然、埴谷雄高という作家も、である。夢は、文学とは程遠い 海外(海外技術協力隊)にあった。既に茨城県内原で大型特 殊(カタピラ車)免許を取得していた。
 
数年後、筆者は、はじめてドストエフスキーと出会って衝 撃を受けた。岡村昭彦の『続南ヴェトナム戦争従軍記』、石 川達三の『蒼氓』を経てのドストエフスキー体験。この世 界に、こんな小説があるのか。驚きと覚醒。「ドストエフス キーとは何か」知りたくなった。ドストと名のつくものを手 当たりしだいひろげてみた。様々な人たちがドストエフス キー論や作品論を出していることを、このときはじめて知っ た。そのなかに埴谷雄高という作家の名前を見つけた。 「埴谷雄高」…はて、どこかで聞いた名前…。思い出せな かった。だが、あるとき突然、記憶がよみがえった。
 
そうか、声明文に名前を連ねていた気骨ある先輩たちの一 人だったのか。わかるとその作家が、なつかしく思えた。以 前からの知り合いのような気がした。うれしかった。
 
映画『二〇〇一年宇宙の旅』(キューブリック監督一九六 八)を見たばかりだった。洞窟で獣のように暮らしていた類 人猿(筆者も仲間)は、神の贈りものモノリスに触れたおか げで智を授かった。そうして短い歳月の間に進歩した。「人 間の謎」を解くために宇宙船で他の星に旅することができる ようにまでなった。映画を思い出して、ふとあの声明文は、 筆者にとって、『二〇〇一年宇宙の旅』に出てくるモノリス だったかも。そのように思えた。そんなことで最初に読んだ ドストエフスキーに関する論考は、埴谷雄高の『ドストエフ スキイ   その生涯と作品』(NHKブックス一九六五)だっ
た。