下原敏彦「清水正・ドストエフスキー論」五十周年に想う(4)

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講演「『罪と罰』再読」2018-11-23

 

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清水正ドストエフスキー論執筆50周年記念  清水正先生大勤労感謝祭」での挨拶 日大芸術学部芸術資料館に於いて。2018-11-2

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これを観ると清水正ドストエフスキー論の神髄の一端がうかがえます。日芸文芸学科の専門科目「文芸批評論」の平成二十七年度の授業より録画したものです。是非ごらんください。
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清水正ドストエフスキー論全集第10巻が刊行された。
清水正・ユーチューブ」でも紹介しています。ぜひご覧ください。
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清水正ドストエフスキー論」五十周年に想う(4)

下原敏彦

 

四 清水正ドストエフスキー論」との四十年
 
極めて個人的ではあるが、五十年前の日大闘争。筆者は気 骨ある日大OBたちの勇気ある声明文によって智を得た。あ の声明文は、世界無銭旅行を夢見て柔道とアルバイトに明け 暮れていた筆者にとって巨大なモノリスだった。連名にあっ た埴谷雄高という作家が、ドストエフスキー愛読者と知っ て、より身近で親しいものになった。
 
前に書いたが声明文を見てから数年後、筆者は、突然、ド ストエフスキーと出会った。きっかけは退屈凌ぎに開いた小 説本のあとがきだった。 〈十九世紀末のロシア。友人がはじめて書いた小説。読み 終えた二人の若者は、感動のあまり、白夜の街を走って作者 に感想を知らせに行った。〉
 
そんな文豪デビューのエピソードだった。この話は真実 か。そんな面白い本が実際にあるのか。そんな疑問から手に した翻訳本『貧しき人々』(江川卓訳)。読みはじめたらとま らない。周囲の景色が変わっていった。あの話は本当だっ た。気がつくと筆者は、ドストエフスキーの世界から抜け出 せなくなっていた。その時期に発足した「ドストエーフスキイの会」に入会し、併せて「ドストエーフスキイ全作品を読 む会・読書会」に参加するようになっていた。あんな小説を 書いた作者のことを知りたかった。
 
そして、そこで清水正という名を知った。ドストエーフス キイの会開催の第九回例会報告で、「ドストエフスキーに関 する勝手気儘なる饒舌」を報告して、話題になった日大の学 生とのこと。日大にも、そんな学生がいたんだとうれしく 思った。声明文の作家と同じく勇気と誇らしさをもらった。
 
清水正ドストエフスキー論」を、はじめて読んだときの ことはよく覚えている。大失敗をやらかしたのだ。
 
清水正発行の『ドストエフスキー狂想曲Ⅰ~Ⅶ』(一九七五~一九七九)の書評が回りまわって筆者のところにきた。 ドストエフスキー熱にかかったばかりの筆者は、迂闊にも引 き受けてしまった。しかし、送られてきた、雑誌を見て、言 葉をなくした。十年近くドストエフスキーを読みつづけてい る清水教授と、昨日今日、読みはじめたばかりの筆者では、 比較対象にもならなかった。作品理解度の差は歴然、到底内 容に踏み込んでの書評など書けるはずもなかった。失礼とは 思ったが、一部感想と、内容の紹介だけに留まった。
 
後日、画家・小山田チカエさんのアトリエで『ドストエ フスキー狂想曲』雑誌発行者のメンバーと顔を合わせるこ とになった。清水教授とは、はじめての邂逅だった。印象 は、うわさに聞いていた通りだった。(ラスコーリニコフ的雰囲気)。もしくはそれ以上だった。筆者は、逡巡するばか りだった。
 
当然ながら、メンバーから先の書評は「よく読んでいな い」と批判された。険悪な雰囲気になった。救ってくれたの は教授だった。不満の仲間たちをなだめてその場を治めた。 おそらく、教授は、筆者の未熟さをすでに看破していて批判 は無用と思っていたのだろう。筆者は、安易に書評を引き受 けることの怖さと、自分のドストエフスキー作品読みの浅さ を、痛感した。教授とは、二度とふたたび会うことはないと 思った。
 
しかし縁は異なもの不思議なもの。十余年の後、筆者のも とに、なぜかふたたび清水教授が出した本の書評依頼がき た。筆者もドストエフスキーの道を歩きはじめて十余年、こ んどばかりは躊躇することなく引き受けた。 『宮沢賢治ドストエフスキー』(創樹社一九八九)が、そ れであった。この本は、亡くなった息子さんに捧げた命の書 でもあった。読後、ひろがっていく静かな感動。私は、この ときはじめて教授の批評精神の真髄に触れたように感じた。 文明という荒れ野に立つモノリスを思った。
 
その後、筆者は「清水正ドストエフスキー論」が発表さ れるたびに読み続けていくようになる。教授は、「批評しつ くす」の言葉通り、様々な場所で書きあげたドストエフス キー論を、発信し報告した。あるときは自ら発行の『D文学
通信』で、あるときは編集長を務めた日芸誌『江古田文学』 で、またあるときは様々な出版物で、二〇一八年の今日ま で、筆者は、ひたすら「清水正ドストエフスキー論」を読 みつづけてきた。その歳月を指折る、四十年という長き歳月 に驚く。筆者の人生は、まさに「清水正ドストエフスキー 論」とともにあったのだ。改めてそのことを思うと感慨無量 である。
 
五 現代のモノリス
 
現在、日本においてドストエフスキー熱はまだまだ衰えて いない。一九六九年発足の「ドストエーフスキイの会」は、 健在で隔月に開催する例会で、若い研究者たちに発表の門戸 を開いている。また、二〇一七年四月には、新進の研究者が 集う「日本ドストエフスキー協会」が誕生した。ドストエー フスキイの会発足時からつづいている「全作品を読む会・読 書会」も、毎回二十名前後の参加があり、盛会である。
 
いつの間にか五十年の歳月が流れた。が、いつの時代も読 者も研究者も変わらない。そんな気がする。
 
いつだったか孤高のドストエフスキー研究者として名高い A氏と会食した折りこんな質問をしたことがある。 「これまでのドストエフスキー研究で、注目している人は、いますか」 「そうですねえ、わたしの考えですが」と、A氏は断って から迷うことなく言った。「一人は江川卓さんでしょう。も うなくなられましたが。それからあとの一人は、やっぱり清 水正さんかな」
 
福音書を手引きとしてドストエフスキー研究を進めるA氏 は、清水正教授の、想像・創造批評を高く評価していた。多 くのドストエフスキー論があるなか、清水正・ドストエフス キー論は、独創的で質、量ともに群を抜いている。
 
二十一世紀、テロで荒れた序盤だったが、この先世界はど うなるか。トランプ米大統領北朝独裁者との会談で、ほん とうに極東に平和はくるのか。アフリカの混乱、欧州の移民 問題、ユダヤ人とアラブ人の対立。W杯から東京オリンピッ ク。民族の興奮と熱狂はつづくが、あるべき世界は渾沌とし ている。不透明なままである。
 
全世界の統一を目指すための道標、ドストエフスキーは、 人類にとってまだまだ必要だ。そのことは、取りも直さず清 水正教授の母校(筆者の母校でもあるが)日本大学にとって も必要といえる。
 
二〇一八年上半期、日大は、大変な苦境に立たされてい る。アメフト選手のラフプレーに端を発した問題は、日大の 存亡がかかるほどの大騒動となった。露呈された日大体質。 連日、テレビはNHKはむろんすべての局がトップニュース
として報じた。地に落ちた日大を救ったのは、なんとラフプ レーした加害選手だった。日本中が彼の誠実な一人会見に心 打たれた。指導者たちの無策と無責任さを知った。その後に つづく日大経営者たちの対応に怒りの声があがった。
 
今後、日大問題は、どう展開していくのか。現経営陣が潔 く身を引くのか、それとも半世紀前のような混乱があるの か。たとえ事態がどうなろうと、これだけは言える。加害選 手の勇気ある謝罪を無にしてはいけない。正義の火を消して はいけない。
 
そうして、五十年前の声明文を思い出してほしい。
日本大学のこれまでの恥辱の歴史に勇然とたちあがった 怒りの炎を、君らの胸にもやしつづけろ。」
 
デモ学生が、右翼学生が、ノンポリたちが、OBが足をと めて振り返った。そうして日大生であることに誇りと希望を もった。その進化は、すぐに壁新聞にあらわれた。雑誌記 者・柳田邦夫は、「不滅の夏」と題してこう報じた。
 
九月一〇日、嵐の先ぶれで、本降りになりはじめた神田三 崎町の経済学部付近で、私はこの一文を書いている。
 
たった今、三つの文章を読んだばかりである。雨にうたれ て半ば破れかかった「壁新聞」ではあったが、それぞれに、胸を衝く文章であった。 (『叛逆のバリケード 日大闘争の記録』)
(日大問題がニュースになってから、日大出身の著名人た ちは、意識してか無意識にか、姿も声も見せなくなった。先 日、人気タレントの毒蝮三太夫さんが出演して、堂々「日芸 出身」と名乗っていた。久々の日大魂を見た。彼もまたモノ リスとなって日大生に勇気を与えた。)
 
今日、ふたたび日大は、渾沌の闇のなかにある。
 
あのモノリスは、いまどこに。
 
モノリスは、名を変え姿を変えて、いま日芸に悠然と聳え ている。「清水正ドストエフスキー論」がそれである。十 七歳の少年が目指した夢は、確かな成果として光り輝いてい る。日大には、こんな教育者がいる。日本にはこんな研究者 がいる。そのことをひろく世界に知らしめている。
清水正ドストエフスキー論」五十周年、おめでとうご ざいます!

(しもはら・としひこ  日本大学芸術学部文芸学科講師)