随想 空即空(連載193)

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随想 空即空(連載193

清水正  

 

 わたしはイエスが生前起こした奇蹟の大半を信じない。さらにイエスが十字架上で死んだ、三日後の復活を信じない。従ってわたしは間違ってもキリスト教徒にはなり得ない。イエスが起こしたという奇蹟や、イエスの復活を幻想としか見ようのない者にとってキリスト教は無縁な宗教である。にも拘わらず、わたしがイエスに興味を抱くのは、彼から奇蹟や復活をのぞいても人間としての魅力が存在するからである。奇蹟を起こすことのできるイエスは超人的能力を備えた強者であり〈神の子〉であるが、わたしが認めるイエスは無力な存在である。わたしが見るイエスはあくまでも人間であるから、わけもわからずこの世に生まれ、そしてわけもわからず死んでいく運命を負った存在である。イエスはふつうの人よりは同情心のあつい存在であったことはわかる。その意味でナスターシャやロゴージンの精神世界に限りなく寄り添うムイシュキン公爵は、確かに十九世紀ロシアに降臨したイエスのイメージを体現していた。しかし、ドストエフスキーが〈真実美しい人間〉(キリスト)の具現化を目指したというムイシュキン公爵は、ただ一つの奇蹟も起こしていなかったことに注意しなければならない。ムイシュキン公爵は余命いくばくもないイポリートを救うことはできない。ドストエフスキーはこの少年を通して十字架から降ろされたイエス・キリストの〈死〉そのものを凝視させた。ハンス・ホルバインの描く〈死せるキリスト〉は絶対に〈復活〉することはない。この〈死体〉はすべての人間の死体と同様に、いずれは朽ち果てるほかはない。福音書はイエスの生々しい〈死体〉を描かず、その死体の消失と〈復活〉を記した。

 イエスが処刑される前、彼の復活を信じていた弟子は一人もいなかった。イエスと弟子たちの関係を一言で言えば〈実存の異時性〉ということになる。物理的には同じ時空間を生きていても、イエスの生きる時空を共にする弟子はいなかった。イエスは弟子たちの誰一人として彼を理解していないことが分かっていた。イエスは孤独であり、時に凄まじい苛立ちに駆られたりもしている。わたしはイエスと弟子たちの関係を〈神の子〉と〈人間〉の関係と見たことはない。イエスをわたしはどこまでも、弟子たちとはレベルの違った人間と見ている。このレベルの違った人間イエスを神の領域に属する者と見なす視点はわたしにはない。福音書の記者たちはイエスを〈神の子〉として描き出そうとしているが、わたしはできうる限りイエスに粉飾された虚妄を取り払い、人間イエスを凝視するようにしている。イエスにわざわざ神の衣裳など着せなくても、彼はそれなりに魅力的な人間であり、わたしはそこにとどまることをよしとしている。

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