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清水正・画
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有即無 無即有 有無即空 空即空 空空空 正空 (清水空雲)
随想 空即空(連載192)
さて、〈キリスト〉と一言で言っても、そのイメージは多様である。第一、キリストの言行を記した福音書が四つもあり、その中に記されたキリスト像は厳密に言って同一ではない。いつ、誰が、何を資料として記したのか、科学的に実証しようとすれば幾多の困難を克服しなければならない。イエス・キリストは実在しなかったという説もあり、これらすべてを勘案すると、唯一絶対のキリスト像を構築することなど不可能に思えてくる。少なくともわたしにとってキリスト像は多面的であり、一義的絶対的に迫ってくる存在ではない。イエスを〈神の独り子〉として見ることができれば、キリスト教に入信する可能性が零であったとは言えないが、わたしはイエス・キリストをあくまでも一人の人間と見なして福音書を読んできた。従って、福音書に書かれたイエスの奇蹟は一種のフィクションとして受け止めざるを得なかった。ヨハネ福音書に記された〈ラザロの復活〉はドストエフスキーが『罪と罰』で取り上げたことでも有名なエピソードであるが、死者が四日もたって蘇生するなどという奇蹟話をそのまま信じることはできない。この奇蹟話をそのまま認める前に多くの疑問が湧出してやまない。まず疑問なのは、なぜイエスは頼まれもしないのにラザロを復活させたのかである。当のラザロはもとより、血縁者のマルタでさえイエスに死者の蘇生を頼み込んではいない。福音書の記述に限定する限り、蘇生した後のラザロについては何の報告もない。蘇生したラザロが二千年の時空を超えて生き続けているという報告はどこにもないので、要するに蘇生したラザロは再び黄泉の国へと還っていったということになろう。〈ラザロの復活〉はイエスによる死に対する勝利を意味するが、蘇生したラザロが再び死に呑み込まれたとするなら、結局は死の勝利を意味することになる。さらに奇蹟に関して言えば、荒野におけるイエスは悪魔の誘惑をしりぞけて石をパンに変えるという奇蹟をきっぱりと拒絶している。つまりイエスは、ある時は奇蹟を断固として拒みながら、別の時には平然と奇蹟をなしている。要するにイエスの言動は福音書に描かれたその生涯を通して首尾一貫していない。換言すればイエスは矛盾の権化のような存在である。この矛盾だらけのイエスに直面して、激しい内的葛藤を経てキリスト教徒になった者をわたしは知らない。
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