猫蔵の「生贄論」連載6

 

猫蔵『日野日出志体験』2007年九月 D文学研究会

 

清水正の著作、D文学研究会発行の著作に関する問い合わせは下記のメール shimizumasashi20@gmail.com にお送りください

 

大学教育人気ブログランキングに参加しています。応援してくださる方は押してください。よろしくお願いします。


 

■生贄論〜原罪と芸能〜 (連載6)


猫蔵


ヨブ記の系譜】
 もはや、現代を生きる読者である僕たちは、"神の奇跡"を期待することはできません。つまり、沈黙のまま神からの応答がなく、周囲の者も誰一人として理解してくれない中で、「それでも自暴自棄に陥ることなく、何かを信じ続けることができるのか?」という命題を直視するべきです。いかなる理由かは分かりませんが、神はもはや、この地上において「奇跡」を引き起こすことを止めてしまった様に見えます。だからこそ、神の沈黙を前にした時の在り方にこそ、僕らに選択の余地が残されているのです。
神の沈黙。他者への不信。
 そして、その地獄から、ヨブはいかにして自分自身を復活させたのか?目を凝らすのはまさにそこです。自分を救えるのは、究極的には自分しかいません。この過程を描いた人類最大の文学が『ヨブ記』なのです。そして、この『ヨブ記』の問うた命題を引き継ぎ、更に発展させた人類の足跡として、書かれた形式も洋の東西も著者の民族も全く異なりますが、次の三つが静かに共鳴します。
 すなわち、元米国軍人クロード・イーザリー『ヒロシマ・わが罪と罰』(1968年)、ユダヤ系米国人ハロルド・クシュナー『なぜ私だけが不幸になるのか』(1981年)、そして、日本のカトリック作家・遠藤周作『深い河』(1996年)の三つです。これら、手記•エッセイ•小説は、自覚的にせよ無自覚にせよ、「ヨブ記」的状況を彷彿とさせながらも、主人公たちの辿る運命に、共通点と相違点があります。信じていた者の「沈黙」に直面した人間の根源的な相克を記した人類の記憶遺産であり、まさに「現代のヨブ記」とでも名付け得るものたちです。

日野日出志体験』の表紙・背表紙



清水正著『日野日出志を読む』の出版記念会。池袋「嵯峨」にて(2004年11月24日)
画面右より猫蔵・副島信太郎・日野日出志清水正・原孝夫

 

右より日野日出志清水正・猫蔵 (日野日出志の仕事場にて)

右より猫蔵・日野日出志・下原敏彦

日野日出志体験』を手に持つ日野日出志


猫蔵(プロフィール)

1979年我孫子市に生まれる。埼玉県大利根にて育つ。日本大学芸術学部文芸学科卒。日本大学大学院芸術学研究科博士前期課程文芸学専攻修了。見世物学会会員。日野日出志研究家。日本大学芸術学部文芸学科非常勤講師。単著に『日野日出志体験』(2007年 D文学研究会)、共著に『「ガロ」という時代』(2014年 創林社)がある。本名 栗原隆浩。