猫蔵の「生贄論」(連載3)

 

猫蔵『日野日出志体験』2007年九月 D文学研究会

 

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■生贄論
〜原罪と芸能〜 (連載3)


猫蔵


南インド
 そして、見世物的なもの(つまりは虚実皮膜的な世界観)を追い求めているうちに、いつしか僕は、南インドに辿り着いていました。その理由も、発端は「かの地には奇妙な芸能集団がいまだ現存している」という噂を耳にしたからでした。南インドのタミルナードゥ州には、「チョーラカ族」と呼ばれる古い芸能集団が現存しています。
 彼らのパフォーマンスは非常にユニークです。なんと、楽器の演奏に合わせ、自らの肉体を鞭でバシバシと叩くのです。そして興が乗ってくると、短剣で二の腕をグサグサと切り裂くのです(そして、滴り落ちる血を、地面に寝かせた子供の上に振りかけます)。これは一見、野蛮で原始的な芸ですが、文明人である僕らの魂を鷲掴みにする、凄味を兼ね備えています。そして僕が一番驚いたのが、このチョーラカの芸がいまだ、お祭りや大道などで普通に見られるという事実です。政府に保護され、整備された劇場で演じられる古典芸能なんかでもなんでもなく、です。つまり、土着の民間芸能者である彼らの芸が、今なお路上の野生種として生息し続けているということは、裏を返せば、彼らの芸が、民衆の"何らかの需要"を満たし続けている証だと言えるでしょう。なぜなら、すべからく職業というものは、対価を払ってそれを必要とするニーズがあってこそ成り立つものだからです。
 では、この一見グロテスクで猟奇趣味ともとれる見世物芸のどこに、一般大衆の求めるニーズが隠されているのか?
 例えばこの日本においてもかつては、紙芝居が子供たちにとっての娯楽の王様だった時代がありました。娯楽の少なかった時代や地域においては、このように視覚的に刺激のある芸が大衆の欲求を満たしてきたのかもしれません。しかし、往来において彼らの芸と向き合う一般庶民の表情は、見た限り、一様に怪訝そうで、この考えにやや違和感を覚えるのも事実です。むしろ、ややもすると一方的に荒芸を披露し、抜け目なく金銭を無心するチョーラカたちを、庶民はどこか冷ややかな目で見つめているようにも感じます。
 どちらかといえば、(僕自身は実際に目にしたことはありませんが)先の戦争が終ってしばらくの間、上野や新宿の駅前でハーモニカやアコーディオンなど、楽器を弾いてお布施を求めていた"傷痍軍人"たちに対する、人々の視線を髣髴とさせます。
 現在70歳を越す僕の母に聞くところによると、昔はまれに、北埼玉の利根川近くにあるわが家にも傷痍軍人が訪ねてきて、心づけを求めて渡り歩いていたそうです。当時はまだ社会全体が、戦争という共通の体験を有していました。それに、身に傷を負った軍人たちは、結果として日本を勝利へと導くことはできなかったものの、身を挺してお国のために戦ってくれた存在である以上、「お疲れ様でした」というねぎらいの感情も、世間には確かにあったと察せられます。しかしその一方で、傷痍軍人の醸し出す禍々しさは決して、一般家庭が歓迎するものではなかったでしょう。むしろ、「おい、後で塩撒いとけ」と耳打ちされる類いのものだったに違いありません。
 傷痍軍人たちの楽器演奏が、純粋な“芸”というよりも、物乞いまがいに大衆に金銭を無心せざるを得なかった彼らの矜持を、ギリギリのところで保つためのものだったと考えると。人に何かを見せ、対価を貰い、生きていくこととはそもそも何なのだろうという問いに突き当たります。彼らはきっと、「俺たちはけっして物乞いじゃない」、「演奏を聞いてくれ」と言うに違いありません。逆説ですが、ここに惹かれている僕がいます。純粋な“芸”のみを、その芸能者から外して考えることは、果たして可能なのでしょうか?

清水正著『日野日出志を読む』の出版記念会。池袋「嵯峨」にて(2004年11月24日)
画面右より猫蔵・副島信太郎・日野日出志清水正・原孝夫

 

右より日野日出志清水正・猫蔵 (日野日出志の仕事場にて)



猫蔵(プロフィール)

1979年我孫子市に生まれる。埼玉県大利根にて育つ。日本大学芸術学部文芸学科卒。日本大学大学院芸術学研究科博士前期課程文芸学専攻修了。見世物学会会員。日野日出志研究家。日本大学芸術学部文芸学科非常勤講師。単著に『日野日出志体験』(2007年 D文学研究会)、共著に『「ガロ」という時代』(2014年 創林社)がある。本名 栗原隆浩。