清水正「ソーニャの部屋 ──リザヴェータを巡って──(連載9) 〈幻覚〉から覚醒したロジオン ──〈時計の打つ音〉とは?──」江古田文学107号より再録

罪と罰』と日大芸術学部創設者松原寛先生について熱く語っています。下記の動画は2016年の四月、三か月の入院から退院した直後の「文芸批評論」の最初の講義です。帯状疱疹後神経痛に襲われながらの授業ですが、久しぶりに見たら、意外に元気そうなので自分でも驚いている。今は一日の大半を床に伏して動画を見たり、本を読んだりの生活で、アッという間に時が過ぎていく。自分の動画を見て元気づけられた。大学も依然として対面授業ができず、学生諸君と話す機会がまったくない。日芸の学生はぜひこの動画を見てほしい。日芸創設者松原寛先生の情熱も感じ取ってほしい。

https://www.youtube.com/watch?v=awckHubHDWs

 

大学教育人気ブログランキングに参加しています。応援してくださる方は押してください。よろしくお願いします。

 

f:id:shimizumasashi:20210807170724j:plain

清水正画 「ドストエフスキーの肖像」

 大学教育人気ブログランキングに参加しています。応援してくださる方は押してください。よろしくお願いします。

 

江古田文学』107号ドストエフスキー論特集号に掲載した論考の再録。

何回かにわたって再録します。

江古田文学』107号ドストエフスキー特集号刊行  

f:id:shimizumasashi:20210719140523j:plain

 

ソーニャの部屋

──リザヴェータを巡って──(連載9)

 

〈幻覚〉から覚醒したロジオン

──〈時計の打つ音〉とは?──

清水 正

 

 四時間ものあいださまざまな〈幻覚〉(греза)を視たという、ロジオンのそれをヨハネの啓示ばりに描き出したら、それこそ「ロジオンの黙示録」ができあがったかもしれない。ロジオンはヨハネ黙示録の〈七〉に神秘的に呪縛された〈渇く者〉であり、シベリアの監獄では世界終末の悪夢を視ることになる。が、今は先を急がず、再びロジオンの〈幻覚〉の場面、正確には〈幻覚〉後の場面に立ち戻ろう。

 作者は次のように書いている。

 

......ふいに、時計の打つのがはっきりと聞こえた。彼は身ぶるいしてわれにかえった。頭を持ち上げて、窓を見ながら時刻を考え合わせた。と、すっかり正気づいて、まるでだれかに引きむしられたように、いきなり長いすからはね起きた。それからつま先立ちで戸口へ近づき、ドアをそっとあけて、下の階段に聞き耳を立てた。彼の心臓は恐ろしいほど鼓動した。けれど階段は、だれもかれも寝てしまったように、しんとしている。彼は昨日からこんなにたわいなく眠りこけ、まだなんにもせず、なんの準備もしないでいられたのが、ふしぎな、ありうべからざることに思われた......しかも時計はもう六時を打ったのかもしれない......と、急にとっ拍子もない熱病やみのような、妙にあわただしい活動性が、眠気と自己忘却に代って彼を引っつかんだ。(76)。

 

 もっとも気になるのは「ふいに、時計の打つのがはっきりと聞こえた」〔Вдруг он ясно услышал, что бьют часы〕(ア・56)である。ロジオンが小川の水をがぶがぶ飲んでいる、まさにその時を狙ったかのように、〈突然〉(вдруг)時計の打つのが聞こえる。ロジオンの〈新しきエルサレム〉を連想させるような〈幻覚〉はこの時計の音によっていきなり断ち切られる。

 いったいこの〈時計の打つ音〉(бьют часы)とは何なのか。訳語だけで考えれば、ロジオンの住んでいるアパートのどこかに置かれた柱時計が時を告げたかのように思える。少なくともロジオンが住む屋根裏部屋には時を告げる柱時計はない。ちなみにロジオンは父の形見として持っていた時計も前々日、質に出しており、彼は時を正確に知る道具をいっさい身近に置いていなかった。

 作者はどういうわけか、この〈時計〉に関して客観的な説明をしない。当時、ペテルブルクの正教会の時計台が一日に何回、何時に鐘を打っていたのか詳らかにしないが、午後の毎晩六時頃に打っていたとしてもおかしくはない。もし、ロジオンがはっきりと耳にした〈時計の打つ音〉が正教会の時鐘だとすると、彼の見た〈幻覚〉と〈覚醒〉は特別の意味を持つことになろう。何しろロジオンは〈渇く者〉として〈いのちの水〉をがぶ飲みしていたまさにその時に、六時を告げる時鐘によってたたき起こされたのであるから。

 もし、ロジオンが〈時計の打つ音〉に気づかず、七時過ぎまで〈幻覚〉を視続けていれば、彼は〈正七時にひとりきり〉のアリョーナ婆さんを殺す絶対的好機を逃し、再び〈呪われた運命〉から解放されたはずである。しかし、そうは行かなかった。ロジオンは〈時計の打つ音〉によって突然覚醒しなければならなかった。それにしても〈いのちの水〉を飲んでいるロジオンを〈六時すぎ〉にたたき起こしたものの残酷さは尋常ではない。ロジオンはどうしても〈運命の予定〉から逃れることはできないのか。

 ロジオンは時計の打つ音によって覚醒し、窓を見ながら時刻を考え合わせる。時計を持ち合わせていないロジオンは窓からの明かりによって時刻を推測し、「時計はもう六時を打ったのかもしれない......」〔может, и шесть часов било...〕(ア・56)と考える。ロジオンは極度の緊張のうちに、外套の左内側に斧の刃を差し込むための〈わさ〉(петля=紐を輪の形に結んだもの)を縫いつける。終えるとすぐにロジオンは、長いすと床板の間の隙間から、隠しておいた偽の質草(板切れと薄い鉄板を重ねて糸で十文字に縛り、白い紙で包んだもの)を取り出す。ロジオンは二週間も前から〈あれ〉のために、質草を準備したり、わさのことなど具体的に考えていたらしい。

 さて、問題は次の叙述である。

 

彼が質ぐさを取り出したとたんに、裏庭のどこかでだれかの叫び声が聞こえた。

「六時はとうにまわったぜ!」

「とうに! さあたいへんだ!」

彼は戸口へ駆けよって、聞き耳を立てると、帽子を引っつかんで、猫ねこみたいに用心ぶかく足音を忍び、いつもの十三段の階段をおり始めた。(77)

Только что он достал заклад,  как вдруг где-то на дворе раздался чей-то крик:

──Семой час давно!

──Давно! Боже мой!

Он бросился к двери, прислушался, схватил шляпу и стал сходить вниз свои тринадцать ступеней, осторожно, неслышно, как кошка.(ア・57)

 

 ロジオンは〈突然〉(вдруг)、裏庭の〈どこか〉(где-то)で、〈だれか〉(чей-то)が叫ぶのを耳にする。ここでも〈突然〉である。〈突然〉は過去をいきなり断ち切って、ロジオンを切迫した〈今〉へと駆り立てる。この〈今〉は、将に来るべき〈将来〉を予め引き受ける本来的な〈現在〉ではない。ロジオンは過去を忘却し、未だ来ぬ恐るべき〈未来〉を戦慄的に予感し、切断された〈今〉〈今〉〈今〉に支配される。〈突然〉の切迫した時性に支配されたロジオンにとって、叫び声が発せられた場所は裏庭の〈どこか〉であり、叫び主は〈だれか〉としてしか把捉されない。ロジオンはこの時、だれがどういった理由で「六時はとうにまわったぜ!」「とうに! さあたいへんだ!」といった声を発したのかを考えない。考えないのは読者も同じことで、この場面に言及した論者をわたしは知らない。

 まず疑問に感じるのは、六時をとうにまわると、どうしてたいへんなのか、ということである。この叫び声を裏庭で発した者たちは、〈第七時〉に何か特別な用事でもあったのだろうか。わたしの頭に浮かんできたのは奉神礼の時を告げるロシア正教会の鐘の音である。もしこの会話を発した二人が熱心な正教徒信者であれば、晩の六時からはじまる奉神礼(礼拝式)に間に合わないと「たいへんだ!」ということになる。

〈渇く者〉として〈いのちの水〉をがぶ飲みしていた、その〈幻覚〉(греза)を突然断ち切った〈時を打つ音〉が正教会の奉神礼を告げる鐘の音であり、裏庭で叫び声を発した二人がその鐘の音を聴いてあわてて教会へと向かう信者であったとすれば、この場面は新たな恐るべき場面へと変容する。もしロジオンが、彼を突然覚醒させた〈時を打つ音〉を正教会の鐘楼が打ち鳴らした奉神礼を告げる鐘の音と認識すれば、まさに彼は覚醒した後も〈いのちの水〉を飲み続ける者として生きていけたかもしれない。が、切迫した時性に支配されたロジオンは、〈神〉ではなく、一度は振り捨てた〈悪魔の誘惑〉を再び受け入れてしまう。

 ところで、わたしは『罪と罰』を読み始めた頃から、ロジオンが突然耳にした会話を、裏庭でふたりの人間が発した言葉とは受け取っていなかった。最初の「六時はとうにまわったぜ!」は他者の言葉として受け止めたが、次の「とうに!さあたいへんだ!」はロジオンの内心の言葉として受け止めていた。つまり、わたしはロジオンの心と同調して読んでいたので、アリョーナ婆さんが一人きりになる〈正七時〉に強くこだわっていた。〈あれ〉を実行するためには、なんとしてでも〈正七時〉に間に合わなければならない。ロジオンの思いに同調した読者もまた〈神〉ではなく、〈悪魔〉の働きに加担することになる。この場面を読んだわたしの脳裡に正教会の鐘の音が鳴り響いたことなどかつて一度もなかった。

 ロジオンの生きていたペテルブルクには大小の多くの教会、修道院があった。ドストエフスキーにとって最も縁のあるのはウラジーミル生神女教会である。ドストエフスキーは一八四六年と晩年の一八七八年〜一八八一年二月九日までクズネーチヌイ小路五番地に住んでいたが、ここから百メートルほど離れた場所にこの教会は建っている。しかもドストエフスキーの二階の部屋の窓からはこの教会の鐘楼を見ることができる。実はドストエフスキーは一八四二年から一八四五年にかけてもこの教会の近くのウラジーミル大通りに面したアパートに住んでいた。ドストエフスキーが処女作『貧しき人々』を執筆したアパートと『カラマーゾフの兄弟』を執筆したアパートの近くにウラジーミル生神女教会があったということは単なる偶然ではなかろう。

 さて『罪と罰』に戻ろう。ロジオンの耳には〈時計の打つ音〉は聞こえても、それが教会の鐘の音と結びつけられることはなかった。裏庭から聞こえてきた叫び声に関しても、ロジオンが反応したのは、「六時はとうにまわった」という事実だけである。ロジオンの実存は正教会の諸行事からも断ち切られたものだったことがわかる。ロジオンが教会で礼拝する生活を保持していれば、「いったいあれがおれにできるのだろうか?」などという妄想に支配されることはなかっただろう。が、今、ロジオンを圧倒的に支配しているのは、〈あれ〉を実行しなければならない〈七時〉という運命の〈時〉である。この〈七時〉までにアリョーナ婆さんの所にたどり着けなければ〈あれ〉の計画はすべて水泡に帰してしまうのである。

 

江古田文学ドストエフスキー特集・収録論考
清水正……「ドストエフスキー特集を組むにあたって――ドストエフスキーとわたしと日大芸術学部
ソコロワ山下聖美……サンクトペテルブルク~美しく、切ない、芸術の街~
齋藤真由香……理想の人生を降りても
高橋実里……子どもとしての存在――『カラマーゾフの兄弟』と宮沢賢治
伊藤景……ドストエフスキーとマンガ――手塚治虫版「罪と罰」を中心にして――
坂下将人……『悪霊』における「豆」
五十嵐綾野……寺山修司ドストエフスキー~星読みをそえて~
猫蔵……三島由紀夫ドストエフスキー~原罪

下原敏彦……「ドストエーフスキイ全作品を読む会」五十周年に想う

牛田あや美……ドストエフスキー文学の翻訳とメディア化

岩崎純一……ドストエフスキーニーチェ──対面なき協働者──

清水正……ソーニャの部屋ーーリザヴェータを巡ってーー

 

f:id:shimizumasashi:20210407131544j:plain

清水正ドストエフスキー論全集

 

清水正の著作の購読申込、課題レポートなどは下記のメールにご連絡ください。
shimizumasashi20@gmail.com

清水正ドストエフスキー論全集』第11巻(D文学研究会A5判上製・501頁が出来上がりました。

購読希望者はメールshimizumasashi20@gmail.comで申し込むか、書店でお求めください。メールで申し込む場合は希望図書名・〒番号・住所・名前・電話番号を書いてください。送料と税は発行元が負担します。指定した振込銀行への振り込み連絡があり次第お送りします。

 

f:id:shimizumasashi:20210525161737j:plain

定価3500円+税

 これを観ると清水正ドストエフスキー論の神髄の一端がうかがえます。日芸文芸学科の専門科目「文芸批評論」の平成二十七年度の授業より録画したものです。是非ごらんください。

https://www.youtube.com/watch?v=MlzGm9Ikmzk

六月一日から開催予定だった「清水正・批評の軌跡」展示会はコロナの影響で九月一日から9月24日までと変更となりました

 会期:2021年9月1日(水)~9月24日(金)

 会期中開館日:平日のみ。午前9時30分~午後4時30分(完全予約制)

 ※ご来場の際は事前に公式HP(https://sites.google.com/view/shimizumasashi-hihyounokiseki)にご確認ください。

九月一日から日大芸術学部芸術資料館に於いて清水正・批評の奇跡──ドストエフスキー生誕二〇〇周年記念に寄せて──』展示会が開催される。1969年から2021年まで五十余年にわたって書き継がれてきたドストエフスキー論、宮沢賢治論、舞踏論、マンガ論、映画論などの著作、掲載雑誌、紀要、Д文学通信などを展示する。著作は単著だけでも百冊を超える。完璧に近い著作目録の作業も進行中である。現在、文芸学科助手の伊藤景さんによって告知動画も発信されていますので、ぜひご覧になってください。