清水正「ソーニャの部屋 ──リザヴェータを巡って──(連載10)   屋根裏部屋を出たロジオン ──〈斧〉にこだわるロジオン──」江古田文学107号より再録

f:id:shimizumasashi:20210807170724j:plain

清水正画 「ドストエフスキーの肖像」

罪と罰』と日大芸術学部創設者松原寛先生について熱く語っています。下記の動画は2016年の四月、三か月の入院から退院した直後の「文芸批評論」の最初の講義です。帯状疱疹後神経痛に襲われながらの授業ですが、久しぶりに見たら、意外に元気そうなので自分でも驚いている。今は一日の大半を床に伏して動画を見たり、本を読んだりの生活で、アッという間に時が過ぎていく。自分の動画を見て元気づけられた。大学も依然として対面授業ができず、学生諸君と話す機会がまったくない。日芸の学生はぜひこの動画を見てほしい。日芸創設者松原寛先生の情熱も感じ取ってほしい。

https://www.youtube.com/watch?v=awckHubHDWs 

大学教育人気ブログランキングに参加しています。応援してくださる方は押してください。よろしくお願いします。

 

江古田文学』107号ドストエフスキー論特集号に掲載した論考の再録。

何回かにわたって再録します。

江古田文学』107号ドストエフスキー特集号刊行  

f:id:shimizumasashi:20210719140523j:plain

 

ソーニャの部屋

──リザヴェータを巡って──(連載10)

 

屋根裏部屋を出たロジオン

──〈斧〉にこだわるロジオン──

 

清水 正

 

    ロジオンは外套にわさを縫いつけ、偽の質草を用意すると、用心深く部屋を出る。次にロジオンは殺人の道具に選んだ斧を手に入れなければならない。ロジオンがねらいを付けたのは、女中のナスターシャが使っていた料理用の斧である。ところが、どういうわけか、いつもはこの時間、使いに出て留守のはずのナスターシャが台所にいる。ロジオンの計画はあっけなく挫折する。ロジオンは殺人の道具として〈斧〉しか考えていなかった。〈斧〉が手に入らなければ、〈あれ〉は断念せざるを得ないのである。

 ロジオンは門の方へ降りながら考える『あの女が今きっといないなんて、何から割り出したんだろう? なぜ、なぜ、おれはそうと決めてたんだろう?』(80)〔с чего взял я, что ее непременно в эту минуту не будет дома?  Почему, почему, почему я так наверно это решил?〕(ア・59)と。【引用者注=米川訳では〈なぜ〉(почему)が一回少なくなっている。豪華版全集でも訂正されていない】

 このロジオンの思いを読み飛ばすわけにはいかない。〈ее〉を米川正夫は〈あの女〉と訳し、江川卓は〈彼女〉と訳したが、ロジオンをはじめ多くの読者もまた〈ее=ナスターシャ〉と理解するであろう。確かに、ロジオンは居ないはずのナスターシャが台所にいるのを発見して衝撃を受けている。ロジオンは一度として、自分が〈斧〉を手に入れる時に必ずしもナスターシャが不在とはかぎらない、とは考えなかった。まさにロジオンは事をなすにあたって肝心要の想像力に欠けている。

 『罪と罰』を一読して、ロジオンを想像力豊かな青年と考えてしまう読者は少なくないと思うが、よく読み込んでいくとこの青年はあんがい鈍感な、他者の内心に思いを寄せられない青年であることがわかる。ロジオンは自分の母親や妹に対しては限りなく愛情あふれる想像力を働かせるが、殺す相手に選んだアリョーナ婆さんやその妹リザヴェータに関してはなんら想像力を働かせることがなかった。〈高利貸しアリョーナ婆さん〉を〈社会の虱〉の枠で括ってしまうような想像力は貧相としか言いようがない。

 ナスターシャの〈在〉を想定できなかったロジオンの想像力の貧困さはきちんと認識しておかなければなるまい。ロジオンは、ナスターシャが予想に反して台所に居たことにショックを受けながらも、〈ее=ナスターシャ〉から〈ее=リザヴェータ〉へと連想を発展させることができない。換言すれば、作者は〈ее〉が〈リザヴェータ〉でもあることをロジオンから隠しきっている。ロジオンは〈運命の予告〉に関して、作者から第二の殺人(リザヴェータ殺し)を完璧に隠されているので、そのことを意識にのぼらせることができないのである。作者は、〈ナスターシャ〉と書かずに〈ее〉と書くことで、ロジオンのみならず読者に対しても〈ее=ナスターシャ〉という一義的読みへと誘っていると言えよう。なんなら、作者は〈あれ〉(это)をイタリック体(это)で示したように、〈ее〉をイタリック体(ее)にしてもよかったはずである。

 いずれにしても、ここでロジオンが〈ее〉を〈リザヴェータ〉とも考えていれば、後の展開はまったく違ったものになったはずである。どんなバカでも、この時〈ее=リザヴェータ〉とも考えれば、「明日の晩きっかり七時に、老婆の唯一の同棲者たる妹リザヴェータが家にいない」「老婆は晩の正七時には必ずひとりきり家に残る」などという思い込みを保持することはなかったであろう。ナスターシャの〈在〉は、リザヴェータの〈在〉の可能性を大きく浮上させ、〈あれ=アリョーナ婆さん殺し〉を確定的に断念させたはずなのである。しかし、見ての通り、ロジオンの想像力はこのようにまともな働きかたをしない。

 ロジオンの運命を操る作者の残酷な手つきは微塵の容赦も見せない。作者はすでにロジオンが犯行を犯す前に「この事件ぜんたいに関しても、彼はその後いつも一種の不可思議性、神秘性を感じた。そして特殊な力の作用と、さまざまな偶然の一致が存在するように感じた」(71)〔И во всём этом деле он всегда потом наклонен был видеть некоторую как бы странность, таинственность, как будто присутствие каких-то особых влияний и совпадений.〕(ア・52)「さながら何者かが彼の手を取って、いやおうなしに、盲目的に、超自然的な力で、むりやりに引っぱって行くようなあんばいだった。それはまるで、着物の端を機械の車輪にはさまれて、その中へじりじり巻きこまれて行くのと同じであった」(79)〔как будто его кто-то взял за руку и потянул за собой, неотразимо, слепо, с неестественною силой, без возражений.  Точно он попал клочком одежды в колесо машины, и его начало в нее втягивать.〕(ア・58)と書いている。

 〈一種の不可思議性〉〈神秘性〉〈特殊な力〉〈偶然の一致〉をロジオンに作用させている〈何者か〉とは作者である(作者をこのようにし向けている《ある何ものか》を作者と同一視することはできないが、その点についての言及はここでは避けておく)。作者がロジオンに仕掛けた罠ぐらいはきちんと検証しておく必要があろう。

ナスターシャが台所に居たことで、一度は〈あれ〉を断念したロジオンを待っていたのは何か。ロジオンの呪われた〈運命の予定〉を変更する気のまったくない作者は、次のように書いている。

 

彼は思案にくれながら、門の下に立ちどまった。ちょっと見せかけのために、町へ散歩に出るのもいやだったし、家へ引っ返すのはなおさらいまわしかった。『ああ、せっかくの好機を永久に逸してしまった!』門の下で、同じくあけ放しになっている暗い庭番小屋とまともに向き合って、ぼんやり突っ立ったまま、彼はこうつぶやいた。と、ふいに彼はぴくっとした。ふた足ばかり離れた庭番小屋の中から、床几の右手下にあたって、何かぴかりと彼の目を射たものがある......彼はあたりを見まわした──だれもいない。そっとつま立ちで庭番小屋へ近づき、段々を二つおりて、弱い声で庭番を呼んだ『はたしてるすだ! もっとも、ドアがあけ放しになってるところを見ると、どこか屋敷内の近まにいるんだ』彼はしゃにむにおのに飛びついた(それはおのだったのである)。そして、二本のたきぎの間にころがっているのを、床几の下から引き出すと、外へ出ないうちにすぐその場で、例のわさにひっかけて、両手をポケットへ突っ込み、庭番小屋を出た。だれもそれには気がつかなかった!『理性でなければ、つまり悪魔のしわざだ!』と、奇妙なうす笑いを浮かべながら彼は考えた。この偶然は、ひとかたならず彼を元気づけた。(80〜81)

 

 ここでも、〈突然〉(вдруг)がロジオンに新たな局面を開かせる。〈断念〉はたちまち撤回され、ロジオンは再び、性懲りもなく〈運命の予定〉に身を委ねることになる。さて、この叙述場面でまず気になるのは、庭番小屋で〈何か〉(что-то)がピカッと〈光った〉(блеснуло)ことである。突然、ロジオンの目を射たこの光るものはすぐに「それはおのだった」(это был топол)と種明かしされる。作者はナスターシャの〈斧〉の代わりに、すぐに庭番の〈斧〉をロジオンに与える。この〈偶然〉を安易な設定と見るか、〈一種の不可思議性〉〈神秘性〉と見るかはとりあえず置いておいて、薄暗い庭番小屋でなぜこの時〈斧〉が光ったのかに注目してみたい。 

 もうとっくに晩の六時をまわったこの時間に、庭番小屋の〈斧〉を光らせたものはなんなのかである。物理的に考えれば、夕陽が庭番小屋に射して〈斧〉の刃先を光らせたということになろう。すると、一度は〈あれ〉を断念したロジオンに再び〈好機〉を与えたのは〈夕陽〉ということになる。ロジオン自身は『理性でなければ、つまり悪魔のしわざだ!』〔Не рассудок, так бес!〕(ア・60)と独語するが、この言葉に寄せて換言すれば、まさに〈夕陽〉が〈悪魔〉(бес)に加担したということになる。

 わたしが連想しているのは、ロジオンが前々日、瀬踏みのためにアリョーナ婆さんを訪れた時の一場面である。ロジオンは「おりしも夕日を受けて、かっと明るく照らし出されて」いる老婆の部屋を眺めながら『その時もきっとこんなふうに、日がさしこむにちがいない!......』と思った、あの場面である。〈夕陽〉は〈あれ〉の現場の目撃者(立会人)としての役割ばかりではなく、〈あれ〉に致る決定的な局面においても重要な役割(ここでは悪魔の役割)を果たしていたということになる。少なくとも、庭番小屋の〈斧〉を光らせた〈夕陽〉は、ロジオンに〈あれ〉を決定的に断念させる〈神の光〉としての役目を担っていたとは言えない。夕陽に照らされてロジオンの目を射った〈斧〉が、ロジオンの理性を蘇らせることはなかった。〈夕陽〉が〈悪魔〉と結託して、ロジオンの〈分別〉(рассудок)を完全に封じ込めてしまったのである。

 さて、次の疑問に照明を当てよう。なぜ、この時、つまりロジオンがナスターシャの斧を入手できずに〈あれ〉を断念した、まさにその直後に、庭番小屋の中に斧を発見したのか、またなぜ、よりによってこの時、庭番が悪魔と結託したかのように小屋の戸をあけ放したまま留守にしていたのか。ロジオンは庭番はまだ中庭のどこかに居ると判断するが、その根拠は戸があけ放されていたということだけである。ここでもまたわたしは、ロジオンの想像力の貧困を指摘しなければならない。

 先にわたしは、ロジオンの〈幻覚〉を覚醒させた〈時計の打つ音〉は〈時鐘〉(時および奉神礼を告げる鐘の音)ではないかという一解釈を示し、その解釈の上に立って裏庭から聞こえた二人の叫び声を、熱心な正教徒が急いで教会へと向かう際のものではなかったかと指摘した。この解釈を庭番の〈留守〉に適用すれば、この名も知れない庭番が信心深い正教徒で「とっくに六時を過ぎた」ことを知ってあわてて教会へと向かったと考えることもできる。わたしはこういった解釈を絶対視するつもりはないが、しかしロジオンの判断よりは数段興味深い解釈だと思っている。

 作者の側に立てば、ロジオンは料理用のナスターシャの〈斧〉よりは、薪を〈叩き割る〉庭番の〈斧〉の方がはるかにふさわしいと考えていたに違いない。なにしろロジオンの苗字〈ラスコーリニコフ〉(Раскольников)は〈分離派教徒〉(Раскольники)の意味もあるが、〈расколоть〉(叩き割る)という動詞や〈раскол〉(分割、分裂、分離)という名詞にも繋がっている。薪を一瞬にして二つに叩き割る庭番の〈斧〉こそが、これから二人の女の頭を叩き割るロジオンに最もふさわしいものだったということになる。なんとも恐ろしいことを作者は考えたものである。礼拝のために教会へと急いで向かった庭番が残した〈斧〉を手にしたロジオンは、これまた急いで〈あれ〉(殺人)を実行するためにアリョーナ婆さん宅へと向かうのである。

 ロジオンが〈рассудок〉(理性、分別、常識)を保持していれば、いつもは居ないはずのナスターシャが台所にいることを発見した時点で〈あれ〉を断念したはずである。しかし、見ての通り、ロジオンは〈運命の予定〉を生き切るほかはないらしい。作者ドストエフスキーアポロンの神よりもはるかに残酷な手口でロジオンを〈あれ〉の現場へと拉致していく。ロジオンは〈あれ〉のために何度でも悪魔の誘惑にのらなければならないらしい。

 ここでわたしは一つのことを改めて指摘しておきたい。ロジオンはナスターシャという平凡な女の備えている力、その魅力や優しさを理解していない。ロジオンはナスターシャというふつうの、ロシア庶民の感覚や常識から乖離して、屋根裏部屋の思弁家になり果ててしまった。ロジオンのからだを心配して、自腹でお茶やスープを差し入れてくれたナスターシャの好意を受け止められないロジオンは、〈сострадание〉(同情、憐憫)を口にする資格もないのである。現実の世界で身近なひとの優しさを受け止められない者が、いくら〈幻覚〉の世界で〈いのちの水〉をがぶ飲みしても、神の世界へと入場することはできない。ナスターシャの差し入れたお茶にまったく口をつけないようなロジオンに、悪魔は容易に忍び寄ってくるのである。わたしは、ロジオンが「考えていることが仕事だ」と言った時、全身をふるわせて笑いころげるナスターシャが好きである。わたしは『罪と罰』に登場する多くの女性の中でも、特にナスターシャにロシア庶民の健全な常識と大いなる力を感じる。ドストエフスキー文学にひかれるような読者は、傲岸不遜なロジオンの観念世界に迎合して〈рассудок〉(分別、常識)を貶めがちであるが、わたしは〈五カペイカ並の分別〉の重要さを改めて強調しておきたい。

 再び、先の叙述場面に戻ろう。ここにはもう一つ不思議な符号が記されている。ロジオンは中庭に出ると、あけ放された庭番小屋の前に佇むが、彼と庭番小屋の距離は〈二歩〉である。ロジオンは小屋の段々を〈二段〉ほど降りて、〈二本〉の薪の間にあった斧を盗み出す。引用した叙述場面だけでも〈二〉が三回ほど出てくる。これを単なる偶然と見ることはできない。それで改めてこの日を振り返ってみると、まずナスターシャがロジオンの屋根裏部屋を〈二度目〉に訪れた時間が午後〈二時〉、ロジオンが外套の内側にわさを縫いつけることを思いついたのが〈二週間前〉、あわてて作り上げた偽の質草は板切れと薄い鉄板の〈二枚〉を重ねて作り上げている。ここまで〈二〉が出てくる以上、この数字が特別の意味を暗示していると考えるのは当然であろう。

 ドストエフスキーの文学において数字は様々な象徴的多義的な意味を賦与されている。『罪と罰』においては三、六、八、九、十三、七百三十など重要な数字が頻出するが、ここでは〈二〉についてのみ言及することにしよう。 ギリシア語の〈人殺し〉(ανθρωποκτονος)のゲマトリアは「1+50+9+100+800+80+70+20+300+70+50+70+200」で、13の倍数1820となる。この数を数秘術的減算して一桁の数にすると「1+8+2+0」で2になる。ロジオンは屋根裏部屋から〈十三〉の階段を降り、〈二〉の歯車に巻き込まれるようにして〈人殺し〉の現場に向かっていく。まさに次々に現れた〈二〉はロジオンの〈運命=人殺し〉を予告していたことになる。

 因みに〈人殺し〉のロシア語は〈челевекоубийца〉でヨハネ福音書8:44に出てくる。参考に日本語とロシア語のヨハネ福音書から引用しておく。

 

44  あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。

44 Ваш отец диавол, и вы хотите исполнять похоти отца вашего; он был челевекоубийца от начала и не устоял в истине, ибо нет в нем истины; когда говорит он ложь, говорит свое. ибо он лжец и отец лжи. 

 

 こうして引用してみると、改めて『罪と罰』はヨハネ福音書ヨハネ黙示録の世界と密接に有機的に繋がっていることがわかる。ロジオンはアリョーナ婆さんとリザヴェータを殺した〈殺人者〉(убийца)であったばかりでなく、〈父である悪魔〉(отец диавол)から出た〈偽り者〉(лжец)であり〈人殺し〉(челевекоубийца)であったということになる。〈神〉(Бог)から離れ、〈真理〉(истина)に立っていないロジオンは〈幻覚〉(греза)の中で〈渇く者〉(Жаждущий)としてどんなに〈いのちの水〉(вода жизни)をがぶ飲みしても、畢竟〈悪魔〉(диавол)の欲望を成し遂げる運命から逃れることはできないということなのか。

 ロジオンは〈悪魔〉から出たものとして、〈運命の予定〉を生き切らなければならない。ロジオンを支配しているのはアリョーナ婆さんがひとりきりになる〈正七時〉である。冷静に客観的に自分のしていることを判断する〈рассудок〉(理性、分別、常識)は失われている。尤も、ロジオンは庭番小屋に〈斧〉を発見した時、それが〈分別〉(рассудок)じゃなくて〈悪魔〉(бес)の仕業であることを認識する〈рассудок〉は持ち合わせていた。さらにこの時、ロジオンは奇妙な薄笑いを浮かべ、この〈偶然〉(случайность)に力づけられているのであるから、まさに〈悪魔〉(диавол)の弟子として振る舞っていたことになる。

 大学教育人気ブログランキングに参加しています。応援してくださる方は押してください。よろしくお願いします。 

 

江古田文学ドストエフスキー特集・収録論考
清水正……「ドストエフスキー特集を組むにあたって――ドストエフスキーとわたしと日大芸術学部
ソコロワ山下聖美……サンクトペテルブルク~美しく、切ない、芸術の街~
齋藤真由香……理想の人生を降りても
高橋実里……子どもとしての存在――『カラマーゾフの兄弟』と宮沢賢治
伊藤景……ドストエフスキーとマンガ――手塚治虫版「罪と罰」を中心にして――
坂下将人……『悪霊』における「豆」
五十嵐綾野……寺山修司ドストエフスキー~星読みをそえて~
猫蔵……三島由紀夫ドストエフスキー~原罪

下原敏彦……「ドストエーフスキイ全作品を読む会」五十周年に想う

牛田あや美……ドストエフスキー文学の翻訳とメディア化

岩崎純一……ドストエフスキーニーチェ──対面なき協働者──

清水正……ソーニャの部屋ーーリザヴェータを巡ってーー

 

f:id:shimizumasashi:20210407131544j:plain

清水正ドストエフスキー論全集

 

清水正の著作の購読申込、課題レポートなどは下記のメールにご連絡ください。
shimizumasashi20@gmail.com

清水正ドストエフスキー論全集』第11巻(D文学研究会A5判上製・501頁が出来上がりました。

購読希望者はメールshimizumasashi20@gmail.comで申し込むか、書店でお求めください。メールで申し込む場合は希望図書名・〒番号・住所・名前・電話番号を書いてください。送料と税は発行元が負担します。指定した振込銀行への振り込み連絡があり次第お送りします。

 

f:id:shimizumasashi:20210525161737j:plain

定価3500円+税

 これを観ると清水正ドストエフスキー論の神髄の一端がうかがえます。日芸文芸学科の専門科目「文芸批評論」の平成二十七年度の授業より録画したものです。是非ごらんください。

https://www.youtube.com/watch?v=MlzGm9Ikmzk

六月一日から開催予定だった「清水正・批評の軌跡」展示会はコロナの影響で九月一日から9月24日までと変更となりました

 会期:2021年9月1日(水)~9月24日(金)

 会期中開館日:平日のみ。午前9時30分~午後4時30分(完全予約制)

 ※ご来場の際は事前に公式HP(https://sites.google.com/view/shimizumasashi-hihyounokiseki)にご確認ください。

九月一日から日大芸術学部芸術資料館に於いて清水正・批評の奇跡──ドストエフスキー生誕二〇〇周年記念に寄せて──』展示会が開催される。1969年から2021年まで五十余年にわたって書き継がれてきたドストエフスキー論、宮沢賢治論、舞踏論、マンガ論、映画論などの著作、掲載雑誌、紀要、Д文学通信などを展示する。著作は単著だけでも百冊を超える。完璧に近い著作目録の作業も進行中である。現在、文芸学科助手の伊藤景さんによって告知動画も発信されていますので、ぜひご覧になってください。