清水正「ソーニャの部屋 ──リザヴェータを巡って──(連載11)    時計回りで老婆宅へと向かうロジオン ──リザヴェータ不在の部屋で老婆殺害──」江古田文学107号より再録

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清水正画 「ドストエフスキーの肖像」

罪と罰』と日大芸術学部創設者松原寛先生について熱く語っています。下記の動画は2016年の四月、三か月の入院から退院した直後の「文芸批評論」の最初の講義です。帯状疱疹後神経痛に襲われながらの授業ですが、久しぶりに見たら、意外に元気そうなので自分でも驚いている。今は一日の大半を床に伏して動画を見たり、本を読んだりの生活で、アッという間に時が過ぎていく。自分の動画を見て元気づけられた。大学も依然として対面授業ができず、学生諸君と話す機会がまったくない。日芸の学生はぜひこの動画を見てほしい。日芸創設者松原寛先生の情熱も感じ取ってほしい。

https://www.youtube.com/watch?v=awckHubHDWs 

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江古田文学』107号ドストエフスキー論特集号に掲載した論考の再録。

何回かにわたって再録します。

江古田文学』107号ドストエフスキー特集号刊行  

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ソーニャの部屋

──リザヴェータを巡って──(連載11)

 時計回りで老婆宅へと向かうロジオン

──リザヴェータ不在の部屋で老婆殺害──

 

清水 正

  ロジオンは途中、偶然、ある店の柱時計が〈七時十分〉を指しているのを目にする。〈正七時〉を十分もオーバーしている。この時、とうぜんロジオンは急がなければならないと思う。しかしロジオンは同時に回り道をして目的の現場に近づかなければならないと考える。さて、これはどういうことだろう。急いでいるにもかかわらず、敢えて回り道を通らなければならないということは?

 ロジオンは自分の住まいから通りに出て、К橋(コクーシキン橋)を渡り、ユスーポフ公園経由(時計の右回り)で老婆宅に向かった。時計盤上にロジオンの住まいを〈一〉の場所に定めると、老婆宅は〈七〉の場所に位置する。背の高いロジオンを〈長針〉に見立て、小柄な老婆を〈短針〉に見立たてると、〈長針〉が時計回りにセンナヤ広場を丸く経由して〈短針〉に重なるとき、まさにその時(七時三十八分)がロジオンによる老婆殺害時間となる。〈一〉の地点から〈七〉の地点までの距離は〈七百三十歩〉とあり、わたしはこの〈七百三十〉を数秘術的減算〈7+3+0=10=1+0〉して〈一〉と考えた。またロジオンの住まい〈一〉と老婆宅〈七〉、および〈あれ〉を実行するために経由した〈四〉〈七〉を〈死と復活〉を意味する象徴的な数字とも考えた。〈一〉は〈棺桶〉に例えられていたようにロジオンの〈生きながらの死〉を意味しているばかりでなく、同時にこの〈渇く者〉は不断に〈復活〉を求めていた。殺された老婆宅〈七〉もまた単なる〈死〉だけを意味しているのではない。この〈七〉にはリザヴェータもまた同居していたことを忘れてはならない。

 さて、問題はなぜロジオンがこの時計の右回りにこだわったかである。ロジオンは普段からК橋を渡ってセンナヤ広場周辺を散歩していた。この辺りは多くの人が行き交っており、このコースをたどれば特に目立たないという目算もあったに違いない。ロジオンは予め、老婆宅までの距離も〈七百三十歩〉としっかりと確認し、〈あれ〉の実行に向けてぬかりなく準備を進めていた。が、それにしてもである。「正七時」に間に合わなければ、用事をすませたリザヴェータが帰宅する可能性が大いにあり得るのだから、道順を〈回り道〉から〈最短距離の経路〉(中メシチャンスカヤ→ヴォズネセンスキー通り→ヴォズネセンスキー橋→エカテリンゴフ通り→老婆宅)に急遽変更する考えが浮かんできてもおかしくはない、否、むしろその方が理に叶っていよう。なぜ〈回り道〉をしなければならないのか。要するに、ロジオンが庭番小屋に偶然〈斧〉を発見した時に思わず独語した《Не рассудок, так бес!》(理性でなければ、つまり悪魔のしわざだ!)なのである。もはやロジオンは〈分別〉(рассудок)ではなく、〈悪魔〉(бес)の支配下に落ちている。この〈悪魔〉はロジオンを時計の盤上に長針として固定化し、右回りに動かして短針の老婆宅へと至らせるのである。さる店の壁にかかった時計が〈七時十分〉を指していたのは、その時長針ロジオンが〈二〉の位置にいたことを示している。ユスーポフ公園の傍らを過ぎて老婆の住むアパートの門近くで、ロジオンは〈どこか〉(Где-то)で、〈突然〉(вдруг)、時計が一つ打つのを耳にする。この時ロジオンは『なんだあれは、もう七時半だって! そんなはずはない、きっとあれは進んでるんだ!』(82)〔《Что это, неужели половина восьмого?  Быть не может, верно, бегут!》〕(ア・60)と考える。〈七時半〉の時、それは長針ロジオンが〈六〉の位置に達したことを意味する。ロジオンがどのように思おうと、時計盤上に固定された彼は〈七時半〉(六)に門の前にたどり着いたのである。ロジオンは彼の時間意識などとは関係なく、長針として〈悪魔〉の統治する〈時〉に呪縛され、〈運命の予定〉を刻一刻と生き切らなければならない。〈運命の予定〉に一切の変更は許されていないのである。

 ロジオンはまんまと老婆宅に入り込み、紐で堅く縛った偽の質草(銀の巻きたばこ入れ)を差し出す。質草を受け取った老婆を作者は次のように書いている。

 

ひもを解こうとつとめながら、彼女は明かりのさす窓のほうへふり向いた(このむし暑いのに、窓がみな締めきってあった)。彼女は幾分間か、まったく彼をうっちゃらかして、くるりと後ろ向きになった。(85) 

 

 わたしがわざわざこの叙述場面を引用したのは、前々日、瀬踏みに老婆宅を訪れたロジオンが、夕日を受けてかっと明るく照らし出された紗のカーテンを見つめながら『その時もきっとこんなふうに、日がさしこむにちがいない!』と考えた、そのことを鮮明に蘇らせるためである。おそらくここに引用した叙述場面から、ロジオンのその〈考え〉を思い出した読者はいないだろう。作者は、それを思い出されては困るといった具合に〈その時〉の〈夕日〉に無関心を決め込んでいるし、ロジオン自身もまたそれに敢えて注意を向けようとはしない。つまり作者は〈夕日=リザヴェータ〉をロジオンにも読者にも隠しておきたいのである。ロジオンは目撃者〈夕日=リザヴェータ〉が不在であるという思いこみの内でしか〈あれ〉を実行できない、そういう〈悪魔のしわざ〉にまんまと乗っかってしまっている。犯行前のロジオンの意識の内にリザヴェータは一瞬といえども現れてこない。ロジオンが認識している〈あれ〉はリザヴェータ不在が前提になっている。〈悪魔のしわざ〉は徹底している。悪魔は、ロジオンの〈あれ〉(アリョーナ婆さん殺し)が実行された《後》にリザヴェータを登場させることに決めているのである。作者もまたこの〈悪魔のしわざ〉に逆らうことはない。作者は〈悪魔〉と結託して、ロジオンの〈あれ〉を実現する。

 

「まあ、なんだってこんなにからみつけたもんだろう!」と、老婆はいまいましそうに言い、彼のほうへちょっと身を動かした。

もう一瞬も猶予していられなかった。彼はおのをすっかり引き出すと、はっきりした意識もなく、両手で振り上げた。そして、ほとんど力を入れず機械的に、老婆の頭上へおののみねを打ちおろした。そのとき力というものがまるでないようだっだが、ひとたびおのを打ちおろすやいなや、たちまち彼の身内に力が生まれてきた。(85)

 

 「もう一瞬も猶予していられなかった」まさにロジオンは〈踏み越え〉の時を予定されている。長針と短針がぴったりと重なり合う時間、七時三十八分、予定通りロジオンの斧はアリョーナ婆さんの頭上に振り下ろされた。ロジオンに〈運命の予定〉を変更する力はない。彼は、得体の知れない或る何ものかの意志に従って〈あれ〉を実行したに過ぎない。

 さて、この時、夕日はこの現場を照らし出していたのだろうか。ロジオンはこのことをまったく意識しない。作者もまたこのことについて改めて読者の注意を促そうとはしない。ただはっきりしているのは、〈あれ〉を実行するにあたって、ロジオンがまったくその〈在宅〉と〈帰宅〉を予測しなかったリザヴェータが、アリョーナ婆さんの死体の目撃者として登場したことである。要するに作者は、〈夕日〉の代わりに〈リザヴェータ〉を登場させたのである。はたしてここにはどのような秘密が隠されているのか。

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江古田文学ドストエフスキー特集・収録論考
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ソコロワ山下聖美……サンクトペテルブルク~美しく、切ない、芸術の街~
齋藤真由香……理想の人生を降りても
高橋実里……子どもとしての存在――『カラマーゾフの兄弟』と宮沢賢治
伊藤景……ドストエフスキーとマンガ――手塚治虫版「罪と罰」を中心にして――
坂下将人……『悪霊』における「豆」
五十嵐綾野……寺山修司ドストエフスキー~星読みをそえて~
猫蔵……三島由紀夫ドストエフスキー~原罪

下原敏彦……「ドストエーフスキイ全作品を読む会」五十周年に想う

牛田あや美……ドストエフスキー文学の翻訳とメディア化

岩崎純一……ドストエフスキーニーチェ──対面なき協働者──

清水正……ソーニャの部屋ーーリザヴェータを巡ってーー

 

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清水正ドストエフスキー論全集

 

清水正の著作の購読申込、課題レポートなどは下記のメールにご連絡ください。
shimizumasashi20@gmail.com

清水正ドストエフスキー論全集』第11巻(D文学研究会A5判上製・501頁が出来上がりました。

購読希望者はメールshimizumasashi20@gmail.comで申し込むか、書店でお求めください。メールで申し込む場合は希望図書名・〒番号・住所・名前・電話番号を書いてください。送料と税は発行元が負担します。指定した振込銀行への振り込み連絡があり次第お送りします。

 

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定価3500円+税

 これを観ると清水正ドストエフスキー論の神髄の一端がうかがえます。日芸文芸学科の専門科目「文芸批評論」の平成二十七年度の授業より録画したものです。是非ごらんください。

https://www.youtube.com/watch?v=MlzGm9Ikmzk

六月一日から開催予定だった「清水正・批評の軌跡」展示会はコロナの影響で九月一日から9月24日までと変更となりました

 会期:2021年9月1日(水)~9月24日(金)

 会期中開館日:平日のみ。午前9時30分~午後4時30分(完全予約制)

 ※ご来場の際は事前に公式HP(https://sites.google.com/view/shimizumasashi-hihyounokiseki)にご確認ください。

九月一日から日大芸術学部芸術資料館に於いて清水正・批評の奇跡──ドストエフスキー生誕二〇〇周年記念に寄せて──』展示会が開催される。1969年から2021年まで五十余年にわたって書き継がれてきたドストエフスキー論、宮沢賢治論、舞踏論、マンガ論、映画論などの著作、掲載雑誌、紀要、Д文学通信などを展示する。著作は単著だけでも百冊を超える。完璧に近い著作目録の作業も進行中である。現在、文芸学科助手の伊藤景さんによって告知動画も発信されていますので、ぜひご覧になってください。