情念で綴る「江古田文学」クロニクル(連載3)

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 情念で綴る「江古田文学」クロニクル(連載3)

 ――または編集後記で回顧する第二次「江古田文学」(8号~28号)人間模様

 

 清水正

 

 15号(平成元年3月)は小沢信男(文芸学科卒、第一次「江古田文学」に積極的に参加、小説家)と万波鮎(文芸学科卒)の企画で「清水義介」を特集

清水義介の略歴は「昭和2年長野市生。昭和24年日本大学芸術学部文芸学科に入学。昭和25年第一次「江古田文学」創刊号に参加。その後、俳人・編集者として活躍。昭和62年没」。清水義介の俳句作品と小説「少女記」、小沢信男の「江古田今昔物語」、滝田照雄の「晩年の義介さんと」、万波鮎の「清水義介様」、横木香子の「「俳句と人間の会」と清水義介」を掲載。  小沢信男の「江古田今昔物語」によれば第一次「江古田文学」の編集を実質担当していたのは文芸学科三年の和田明(小路明)で、彼の卒業後は経理面は学校へ返し、小沢が編集長となったということである。小沢は「学生による学生のための市販文芸誌。そう確信して、つまりはいい玩具にして遊んでいた」と書いている。小沢が卒業した後は文芸学科助手の赤塚行雄が編集長になった。この点について小沢は「編集権はついに学生の手をはなれたが、学校側もこっちが卒業するのを待っていたのだろうし、あとが赤塚ならばこっちも異議はなかった」と書いている。小沢の文章は第一次「江古田文学」に関わった学生たちの人間模様や当時の江古田界隈の様子を生々しくリアルに伝えている。

 

 島田雅彦の講演「今、小説を書くとはどういうことか」を掲載。島田は昭和35年東京生、東京外国語大学ロシア語科卒、『夢遊王国のための音楽』で野間文芸新人賞を受賞、新進気鋭の小説家として活躍していた。島田はゴーゴリドストエフスキーの文学にも精通しているのでわたしは彼の小説に関心を寄せていた。それで特別講座にお招きし、講演記録を「江古田文学」に掲載することにしたのである。講演後、江古田の居酒屋で呑んだのは言うまでもない。

 

 

 表紙絵は皆川孝一(美術学科卒)の版画「佐渡シリーズ」の一枚。皆川は当時美術学科の技術員であったが、会ったのは江古田駅近くの小料理屋「登美」である。彼の作品が店内に飾られていた。彼は「登美」の常連、知るひとぞ知る酒豪、呑むほどに気も声も大きくなる。素面の時は別人のように紳士だが、呑むときには覚悟が必要かも。 「登美」は漫画家の石ノ森章太郎やマンガジャパンの初代事務局長原孝夫(美術学科卒。後に文芸学科の講師)などが馴染みにしていた小料理屋で、ここでのエピソードを語り出せばきりがない。一編の「登美」物語を書かなければならない。わたしは皆川孝一の「佐渡シリーズ」に静謐な怒りと悲しみ、孤独と諦念と祈りを感じ、「江古田文学」の表紙を飾ることを頼んだ。即座に快諾を得て実現した。皆川は五年前、65歳で日芸を定年退職した。

 

 16号(平成元年9月)はどういうわけか特集を組まず、編集後記も書かなかった

今回は上田薫(文芸学科卒)のエッセイ「グラオーグラマンの夢」を取り上げる

 

 上田は文芸学科二年の時、わたしのゼミに所属、一年間、ドストエフスキーの『罪と罰』を読み続けた。〈グラオーグラマーン〉はミヒャエル・エンデの『はてしない物語』後半に登場する。色の砂漠ゴアプの王で、夜は石、朝にライオンとなって蘇る人物で、彼は砂漠の色にあわせて体色を変える。上田は書いている《有名な『罪と罰』のエピローグの中に、人間の知性に食い入る微生物の話がでてくる。主人公のラスコーリニコフが見た夢なのであるが(中略)この夢の中で暗示されている、最も大きな問題は、それぞれの人間が自分が発見したと思っている真理のために、お互いに理解し合うことができなくなり、全ての人間が不幸な結末に導かれていくということである。もっと大ざっぱな言い方をすれば、硬直した思考が自ら人間を孤独と狂気の中に陥れるということである。そこには自然と世界の中にある見えざる微風のようなものに対する信頼のかけらもない。全てを一度投げ出して、狭い理知的世界の中から自分自身をすっかり解き放ってしまうような心のおおらかさが欠けているのである》。

罪と罰』の世界に没入する傾向を持った青年は、たちまちラスコーリニコフと同化する。この同化体験のない研究者のドストエフスキー論には魂の煩悶も求道する精神の悩ましい揺らぎも感じられない。上田もまたラスコーリニコフと共に悩ましい孤独な時間を生きていたにちがいない。が、ドストエフスキーをどんなに読み続けても「狭い理知的世界の中から自分自身をすっかり解き放ってしまうような心のおおらかさ」を得ることはできない。ドストエフスキーの人物たちは例外なく病的な自意識過剰に苦しんでいる。処女作のマカール・ジェーヴシキンから『カラマーゾフの兄弟』のイワン・カラマーゾフに至るまで、ドストエフスキーの人物たちは例外なく〈心のおおらかさ〉に欠けている。

 

 作品の人物に救いを求めようとすれば、ドストエフスキーの文学から距離をおかざるを得ない。ドストエフスキーの文学世界は狂気と分裂と歓喜を内包する大いなるディオニュソス的カオスであり、そこに観念的次元での法悦はあっても、暮らしの次元での救いはない。上田がドストエフスキーからアラン研究に進み、一遍にたどり着く必然性の一端がこのエッセイに秘められていたとも言えようか。

 

 《結局、理知の支配する意味の世界では、人間の営みは、虚しく、救いがないと言えるだろう。しかし、もし逆に人々が何らかの意味や価値によって人の一生を計ることをやめ、子供が子供と接する時のように対等の立場にまで降りて人と接したならば、そこには理知で物事を判断していた時とは全く違った世界が生れるはずである。判断するのではなく、一緒になって喜んだり悲しんだりする子供の世界には、恐らく私たちのように何でも用心深く、周到に物事の解決をはかろうとする不信の徒が住んでいる世界とはまた違った救いも生き続けているのではあるまいか》――引用していてふと、寝る前に子供に絵本を読み聞かせているという上田パパの微笑ましい姿が浮かんできた。寝ると石になるグラオーグラマーン上田はいったいどんな《夢》を見るのだろうか

 

 エピローグで「思弁の代わりに生活が到来した」と作者から保証されたラスコーリニコフに対して、わたしは今も批評の手を休めてはいない。わたしにとってドストエフスキーの文学は「はてしない物語」であり、はてしない批評遊泳に値する〈物語〉(玩具)なのである。

 

 17号(平成2年1月)の特集は「土方巽・舞踏」である。わたしがなぜ第二弾・土方巽特集を組む情念にかられたか。次に編集後記を引用する。

 

 《■平成元年12月17日、浅草・常盤座にて麿赤児主演の『シャートフ』を観る。先に岩波ホールで上映されたアンジェ・ワイダ監督の『悪霊』もそうであったが、なぜか両作とも副主人公のシャートフを主役に仕立てあげている。

■好みの問題もあろうが、わたしには『シャートフ』が圧倒的に感動的であった。シャートフ殺害に始まりシャートフ殺害に終わる、否、あたかも月から地球へと到着した怪異なる列車音のごとき音響に始まり小松方正演ずるD氏のコメントに終わる、否、闇に始まり闇に終わる『シャートフ』は、わずか九人の出演者をもって、ドストエフスキーの大長編『悪霊』のひとつの核心部をたしかに貫きあぶり出すことに成功したというべきだろう。

■『悪霊』はドストエフスキーの作品の中でも複雑な構成を持った作品であるが、『シャートフ』は題名通り、主にシャートフ一人に照明をあて続けることで、良い意味での単純化に成功している。これは脚本(中野正豊)演出(福井泰司)の勝利である。原作を熟読玩味した者でなければ、こういった単純化による舞台構成は不可能である。■小松方正に原作者D氏とニコライ・スタヴローギンの二役を配したことも、この舞台の成功の一因である。私見によれば、ニコライは不在であり続けることによってその存在意義を全うする。つまり、ニコライは『悪霊』の舞台に登場してはならない。

■主役シャートフを演ずる麿赤児の肉体性(存在感)は突出して圧倒的である。彼の肉体性は、原作者D氏とニコライ・スタヴローギンの肉体性をも奪いかねない。まさに『悪霊』は舞台いっぱい『シャートフ』と化した。

■「それぞれに独立して溶け合うことのない声と意識たち、そのそれぞれに重みのある声の対位法を駆使したポリフォニイこそドストエフスキーの小説の基本的性格である」(バフチン)。もちろん『シャートフ』もまたこのバフチン指摘するところの基本的性格を踏襲している。神経質な憑かれたる青年の狂気を熱演して独自のキリーロフ像を打出した宮城聰をはじめ、ピョートル役の金守珍、D氏役の小松方正、マリヤ役の余貴美子等それぞれが「独立して溶け合うことのない声と意識」を存分に発揮し体現していたことを疑う者はいないだろう。が、にも拘らず、ロシアの百姓を彷彿とさせるがっしりとした体躯、丸坊主にそりあげた頭、その原作のシャートフ像を逸脱した麿赤児の、大いなる悲しみ大いなる憤怒を秘めたマグマのごとき熱き肉体性が、舞台上の他者を圧倒し呑み込んでしまう異様な迫力を持っていたということだ。

■『悪霊』が執筆されてからすでに百十余年の歳月が経ちながら、未だこの作品は全貌を見せてはいない。今後、『キリーロフ』が、『ピョートル』が、『ステパン氏』が、『ヴァルヴァーラ夫人』が、『スクヴァレーシニキ』が……次々と主役を要求してくるだろう。麿赤児の『シャートフ』は『悪霊』読み直しの幕開けを告げる舞台であったことは確かであり、ドストエフスキーに関心のある者でこの舞台を観なかった者は大いなる後悔にさいなまれること必至である》  《本号は、土方巽の特集としては第10号に続く第二弾であるが、今回は土方巽映像展での批評家五氏(合田成男・中村文昭・古沢俊美・宇野邦一小阪修平)の講演記録に加えて、現在活躍されている代表的な舞踏家諸氏の玉稿を賜ることができた。本誌特集によって、現代舞踏の内的外的情況が浮彫りされれば幸いである。

■今回の企画が実現されるにあたっては、舞踏批評家の中村文昭氏、舞踏家の大森政秀氏、テルプシコールの秦宜子氏の絶大なる協力があった。特に大森氏には多忙の折、原稿依頼、数度に及ぶ打合せとたいへんお世話になった。記して謝意を表する次第です。■また、わざわざ土方巽氏の肖像写真をお運び頂いたアスベスト館主宰者の元藤華子氏、表紙に作品を使わせて頂いた中谷忠雄氏、大野一雄氏の肖像写真を提供して頂いた神山貞次郎氏をはじめ多くの写真家の方々、『御殿、空を飛ぶ。』(大野一雄舞踏論集)からの再録を快諾された思潮社編集部の山村武善氏に厚くお礼申しあげます。》

 

 わたしは大森政秀の舞踏を初めて観た時から、舞踏がドストエフスキーの文学世界と通底するのを強く感じていた。特に大野一雄の舞踏はドストエフスキー文学の恐るべき深淵をかいま見せた。『土方巽を読む』の増補新装改訂版『暗黒舞踏論』(平成17年3月 鳥影社)では「大野一雄・母性とカオスの暗黒舞踏――暗黒舞踏を振り返る――」「キリスト者と舞踏――神様と一緒に遊ぶ大野一雄――」「舞踏の神にすべてを捧げ尽くした大森政秀の舞踏公演「ギリギリス」を観る――」の三編をつけ加えた。  

 

本号に古沢俊美の舞踏論八編を掲載した。「悲惨な闇をひき裂く詠唱土方巽」(日本読書新聞・昭和48年3月5日号より)、「蘇生する死体」(日本読書新聞・昭和48年9月24日号より)、「聖 土方巽」(図書新聞・昭和61年2月8日号より)、「肉体が沈黙する次元」(日本読書新聞・昭和48年6月4日号より)、「負性への限りなき傾斜」(日本読書新聞・昭和52年5月31日号より)、「宇宙・生命・舞踏の始源渦巻く」(図書新聞・昭和63年7月9日号より)、「土方巽燔犠大踏鑑」(映画評論・昭和47年4月号より)、「肉体と風景」(映画評論・昭和47年6月号より)。

 

 合田成男もそうだが古沢俊美もまた、どういうわけか舞踏論を本にしない。そうとう多くの舞踏に関する原稿や講演があるはずだが、いっこうに本を出す気配がない。わたしは古沢俊美とは池袋の地下の飲み屋や家まで訪ねて、いろいろ話したりお願いしたりしたが、彼の優しいおだやかな笑顔だけが妙に印象に残っている。二人で水槽に踊るクラゲをじっと観ていたこともある。水中の舞姫クラゲの自在な舞踊にしばし時を忘れた。彼は何を想っていただろうか。『暗黒舞踏論』には古沢俊美の撮影した52枚に及ぶ土方巽舞踏写真を使わせて頂いた。感謝の気持ちでいっぱいである。 エピソード。実はこの号は二種類ある。91頁上段に載せた古沢俊美撮影の舞台写真が反転していたのが納品後に秦宜子によって発見された。印刷所の担当者に相談し、急遽刷り直すことになった。最初の雑誌の背表紙には「特集 土方巽・舞踏」が印刷されていない。