動物で読み解く『罪と罰』の深層

江古田文学97号に掲載したドストエフスキー論を何回かに分けて紹介しておきます。



動物で読み解く『罪と罰』の深層
清水正

罪と罰』には様々な動物(哺乳動物・鳥・昆虫・神話的動物)が登場する。どのような動物がどのような役割を担って登場しているのかを見ていくことにしよう。

■〈猫〉(кошка)

 まず最初に登場するのが猫である。手塚治虫のマンガ版『罪と罰』では第一頁2コマ目、画面左下に一匹の黒猫が描かれている。この黒猫は『罪と罰』の舞台となった十九世紀中葉のペテルブルクを俯瞰的に眺められる高い建築物の上にすわっている。次の3コマ目、左半分には乾草を積んだ荷馬車とその中で眠りほうける百姓男、中央に継ぎ接ぎだらけの上着を着てヨロヨロ歩く酔漢の後ろ姿、右端に二人の子供が走り去っていく姿が描かれている。酔漢と子供たちの間には「旅人はその町で見た。ハダシの子どもたちと、酔っぱらいと、売春婦のむれ。みんなが何かを期待し、そして絶望してくらしていたのである」と記されている。ここで言われている〈旅人〉は1コマ目では空を飛ぶ〈鳥〉であり、2コマ目の〈猫〉である。端的に言えば、3コマ目は猫の目に張り付いたカメラが映し出した世界である。手塚治虫は二十世紀日本から百年の時空を飛翔して十九世紀ペテルブルクへと至りついた〈鳥〉を、高層建築物の上に〈猫〉として変容させ、さらにその〈猫〉の目にカメラを装着して現実の世界を映し出す描法をたった三コマで駆使している。
 原作『罪と罰』ではどうか。『罪と罰』は13日間の物語で第一日目は一九六五年七月八日である。途方もなく暑い夕方時分、主人公の〈一人の青年〉が屋根裏部屋から通りに出て、何か惑いがあるらしく、のろのろとK橋の方へ向かって行くところから物語は始まる。この時点で主人公の名前は明かされていない。主人公はあくまでも〈一人の青年〉である。この青年はペテルブルク法学部の学生時代に下宿の娘ナタリヤと婚約し、女将に百五十ルーブリの借金を負っていた。が、ナタリヤは一年半前に腸チフスで死んでしまい、その死にショックを受けた青年は大学も家庭教師の仕事もやめて、今は屋根裏部屋に引きこもっている。青年は夕方になると散歩するために外に出るが、外に出るためには女将の部屋の前を通らなければならない。もし女将に見つかれば、面倒な話もしなければならない。そこで彼は〈猫〉となって、そっと誰にも知れぬように外に出るというわけである。この〈青年〉が〈猫〉となって女将と出会うことを回避したことは、意外と重要な意味を持っている。女将と出会えば、青年は借金弁済のことやら仕事のことやら、要するに現実的な話をしなければならない。青年は〈猫〉になることで、当面する現実的問題を回避し、自分でも〈幻想〉(фантазия)としか思えなかった「はたして私にアレができるだろうか?」(Развие я способен на это?)という〈アレ〉(это=表層的には高利貸し老婆アリョーナ殺し)へと向かっていかざるを得なかった。


清水正ドストエフスキー論全集第10巻が刊行された。
清水正・ユーチューブ」でも紹介しています。ぜひご覧ください。
https://www.youtube.com/watch?v=wpI9aKzrDHk

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