大宇宙を彷徨う(1)
横尾和博
五十年の軌跡
清水正氏が最初にドストエフスキー論を執筆してから五十 年。半世紀、長い歳月だ。清水氏は初期作品『停止した分 裂者の覚書―ドストエフスキー体験』(一九七一年九月)の 「あとがき」でこのように書いている。 「十七の時に『地下生活者の手記』を読んだのがドストエ フスキーに憑かれる一契機となった。以来ドストエフスキー 作品を読み続けることが、〈私〉に与えられた宿命であるか のように、〈私〉は夜昼となくドストエフスキーの創造した 大宇宙を彷徨い続けねばならなかった」。 以来、清水氏は「ドストエフスキーの創造した大宇宙」を 彷徨い、光源を見出し、またあるときは暗黒の銀河空間に明滅する言葉を手探りに、孤独な航海を続けているように私に は思えた。そしてその営為は現在もなお続いて、「清水ドス トエフスキー」は健在である。
では「清水ドストエフスキー」とは何か。その本質、根源 はどこにあるのだろうか。
清水氏の文芸批評はいままで日本の批評家だれもがなしえ なかった、テクストそのものを揺さぶる方法を確立した。テ クストを構成する分子、原子にいたるまでの初源にさかのぼ り、批評のメスを入れていく読みである。
いままでの文学研究は実証研究が重要視されてきた。その 流れはいまも変わらない。
文芸批評においても作家論、作品論(テクスト論)、構造 主義、ポスト・モダニズムなど時代の流れで華やかな時期もあったが、現在は新しく確立された文芸批評理論は皆無であ る。文芸批評全体がお寒い時代なのである。
そのような時代の流れとは無関係に、清水氏はただひたす らテクストと向かいあい、「テクストを揺さぶり」続けてき た。
清水氏は、かつて新聞の書評欄で亀山郁夫氏の『謎とき 「悪霊」』を評し、このように指摘をしている。 「作品の謎をとくためには、まずは謎自体を発見する必要 がある。そのためにはテキストに揺さぶりをかけ、徹底して テキストを解体し、想像力と創造力を発揮して再構築しなけ ればならない」(東京新聞二〇一二年十月十四日付)。 「揺さぶりをかける」とは簡単な言葉だが、意味は深い。 なぜなら地震の耐震実験のようにテクストを台座の上に乗 せ、起震装置で揺するようなわけにはいかないからだ。あた りまえである。ではどう考えるのか。
私の理解でいえば、テクストの登場人物の脇役ひとりにい たるまで、人間としての喜怒哀楽、すなわち個人史や全存在 に光をあてることなのだ。それは舞台上の脇役、せりふのな い通行人の一人ひとりまでが、自分の人生や思いを語りだ し、舞台が収拾不可能になるまで演劇を解体してしまう行為 に似ている。登場人物すべてに立体的に照明をあてることで ある。
また宇宙物理学でいえば、最近亡くなったホーキング博士のいう虚時間である。相対性理論の発見により、時間は一意 的な絶対時間でないとすれば、私たちにとっての過去と未来 の概念は変化する。そう考えた博士の「われわれは過去を憶 えているのに、なぜ未来を思い出せないのだろうか?」とい う実時間に対する指摘がある(『ホーキング、宇宙を語る』)。 これに呼応するのが清水氏の批評であり、テクストの未来の 記憶までをもひきだすのである。
この方法を駆使した文芸論は、ドストエフスキーを基軸に しながら宮沢賢治、志賀直哉、林芙美子などの批評にもつな がった。