井ノ森詩織  ザアカイと私

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ドストエフスキー曼陀羅」特別号から紹介します。

ザアカイと私
井ノ森詩織

 

 

罪と罰』『カラマーゾフの兄弟』『貧しき人々』『白夜』 『白痴』これは私が約一年間で読み漁ったドストエフスキー 作品だ。私がこれらに出会えたのは、他でもない清水正先生 の存在があったからこそである。またドストエフスキーだけ でなくトルストイや、スタンダールなど他にも先生無くして は出会えなかった文学がいくつもある。
 
清水正という宇宙に放り出された作品達は、細胞一つひと つにまで分解され、再構築をされていく。初見のドストエフ スキー作品だけでなく、小学生時代に親しんできた宮沢賢治 作品やグリム童話、学部時代に知った林芙美子も、先生の評 論によって見方がガラリと変化するのだ。自分では知ってい た気になっていた登場人物が、全くの別人となってしまうこ とだってある。そうして私が表面上でしか作品を読みこめていないことや、理解していたつもりになってしまっているこ とが嫌というほど分かる一年だった。
 
大学院で清水先生のもとに付いてから、研究のことだけで なく、先生と先生を取り囲む人々との関係にも驚かされた。 先生は相手の肩書や立場で人を差別することをしない。自分 がどんな立場にいようとも、全ての人に分け隔てなく接して いる。学生や職員の方だけでなく、学校付近の蕎麦屋さん、 警備員の方の家族構成や近況まで把握しているのだ。校舎内 でも校舎の外でも色んな人が、先生を見つけると、ニコニコ しながら挨拶をしていく。そして先生が彼らの名前を呼び、 話しかけると嬉しそうに近況などを話しだすのだ。
 
そんな先生を見ると、私はいつも日曜日の教会学校で聞い たザアカイについての説教を思い出す。街で嫌われ者の徴税人ザアカイはイエス・キリストがやって来ることを聞いて、 広場にやって来る。しかし人々がごったがえしていたため、 背の低いザアカイは木に登りイエスを観察する。するとイエ スはザアカイに声をかけるのだ。 「ザアカイ、急いで降りてきなさい。今日はぜひ、あなた の家に泊まりたい。」
 
とても印象的な場面だが、当時の幼い私は、イエス様を喜 んで迎えたザアカイはどんな気持ちだったのだろう、と不思 議に思っていた。
 
少し話がそれるが、先生は周囲の人にニックネームを付け るのが得意だ。先生曰く、一度自分でニックネームを付けた 人のことは絶対に忘れないのだという。では、私が先生に何 と呼ばれているかというと、名前のまま「詩織」だ。という のも、そもそも私の前に別の詩織がいたので、それと同様に 名前呼びになったのだが、今回はそれについては省いてお く。
 
私のことを名前で呼ぶ人は限られている。中高時代は本名 とは異なるニックネームを持っていたし、上京してからはほ とんど名字で呼ばれるようになった。それに対し無意識のう ちに寂しさを覚えていたのかもしれない。 「詩織、ほら行くぞ。」
 
そう先生に名前を呼ばれるといつもくすぐったいような、 うれしいような、かなしいような気持ちになる。そして今の私なら、ザアカイの気持ちがほんの少しわかるような気がす るのだ。
(いのもり・しおり   日本大学大学院芸術学研究科博士前期)