「演出家・清水正を知る」(連載3)

清水正への原稿・講演依頼は  qqh576zd@salsa.ocn.ne.jp 宛にお申込みください。ドストエフスキー宮沢賢治宮崎駿今村昌平林芙美子つげ義春日野日出志などについての講演を引き受けます。

清水正が薦める動画「ドストエフスキー罪と罰』における死と復活のドラマ」

https://www.youtube.com/watch?v=MlzGm9Ikmzk

これを観ると清水正ドストエフスキー論の神髄の一端がうかがえます。日芸文芸学科の専門科目「文芸批評論」の平成二十七年度の授業より録画したものです。是非ごらんください。



清水正宮沢賢治論全集 第2巻』が刊行された。
清水正宮沢賢治論全集 第2巻』所収の「師弟不二 絆の波動」より伊藤景「演出家・清水正を知る」を3回にわけて連載する。



「演出家・清水正を知る」(連載3)
伊藤景


 私が今までにビデオカメラに収めてきただけでも、「どんぐりと山猫」「まなづるとダァリヤ」「蜘蛛となめくぢと狸」といった三作品が存在する。演者を変更して、ときには演出を変えて講義の中で学生たちはこれらの作品を演じ続けてきた。まさに、演出の素晴らしさが際立つ演劇作品になっている。具体的に、清水先生が宮沢賢治作品においてどのような画期的な演出を行なっているのか、私が特に衝撃を受けた「どんぐりと山猫」から紹介しておこう。
 宮沢賢治作品である「どんぐりと山猫」も、演出家・清水正の手にかかれば登場するもの全てが命を得る。特に、衝撃的だった役は?すきとおった風?である。この?すきとおった風?は、栗の木から栗の実をばらばらと落とした犯人であるが、他の動物や植物のようには台詞が存在しないことからも、ただの自然現象であると認識されてしまう。しかし、その風にも清水先生は注目し、存在としての命を与えてしまうのだ。この?すきとおった風?を演じた学生は何人か存在したが、私は特に演劇学科の洋舞コースのある学生が演じた?すきとおった風?が忘れられない。彼は清水先生に「すきとおった風をやってみろ」と言われて、最初は少し戸惑い、ただ教室の前を跳ねたりして横切っただけであったが、演出家・清水正の求める?すきとおった風?はそんな風ではない。「栗の実を落とすくらいの風だぞ。そんな風じゃ、一つも栗の実は落ちない」と学生に指導する。そのとき、彼の顔つきが変わった。文芸学科の講義で、演劇学科の学生に演じてみろと言っても、最初はどこか照れくさそうな、それでいてここは自分の演じるべき舞台ではないと思っているような学生が多いのだ。先生からの指示のもと、彼は少し思案するかのように顔を俯かせてから、もう一度清水先生のことを見た。「よし、もう一度やってみろ」と清水先生が学生に声をかける。これは珍しいことである。一度、先生が演技を見て?違う?と思ったら、演者はやる気があろうがなかろうが、その舞台からは退場させられてしまう。同じ役を何度もキャスティングしてもらえる学生の方が少なく、そのぴったりと役に当てはまる学生を探すためにも、先生は多くの学生に役を与える。今回も、違う学生が?すきとおった風?を演じるのだろうと思っていたが、まさかのリテイクである。再び、彼がどんな動きをしても追いかけられるようにピントを合わせたとき、さっきまでそこにいた演劇学科の学生を録ることはできなかった。そこには、?すきとおった風?になりきった一人に洋舞家が存在していたのだ。このときの彼がまとう空気は、清水先生が身にまとっている空気に似ていた。一人の学生の本気を演出家・清水正は引きずり出したのだ。二度目の?すきとおった風?の縁起は素晴らしいものだった。今でも、私は?すきとおった風?を思い出すときには、彼の身軽でいながら、力強くしなやかな風を思い出す。彼の?すきとおった風?を見たのは、それ一度きりだが、未だにはっきりと思い出すことができる。ただの自然描写であると思われてきた?すきとおった風?にさえ、批評家・清水正は注視し、演出家・清水正は存在を与えた。これこそが、作品の解体と再構築である。さらに、演出家・清水正によって、多くの学生は講義内で蕾から満開の花へと成長していく。今まで、固く閉ざした蕾のように、静かに講義を聞くだけだった学生を本気にさせ、清水先生の講義から得た知識と解釈を栄養にし、演者として満開の花を咲かせる。普段の講義中では記憶にも残らなかったような学生が、舞台に立つと生き生きとした姿を見せつけてくるのだ。受講生があんなにも華やかな笑みを浮かべる講義があるなんて、私は今まで知らなかった。
 ビデオカメラ越しに、批評家・清水正の姿と演出家・清水正の姿を知った。多くの学びをビデオカメラ越しに得てきた。これからも私が知らなかった清水先生の一面を知っていきたい。