清水正の『浮雲』放浪記(連載188)

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清水正の『浮雲』放浪記(連載188)
平成A年8月18日
浮雲』の舞台と言えばダラット、伊香保とすぐに思い浮かぶが、わたしがもっとも注目するのは、当時、日本領最南端であった屋久島である。ダラットでゆき子は富岡兼吾と悦楽の三年間を過ごすが、そこには加野久次郎との三角関係もあったし、現地妻とも言うべきニウの存在もあった。作者はゆき子・富岡・加野の三角関係の修羅場を現在形で描かず、富岡とニウの関係と別れのドラマも軽く回想風に描くにとどめている。富岡の妻・邦子や伊庭杉夫の妻真佐子にいたってはほとんど照明が当てられていない。ゆき子と富岡の腐れ縁の関係も、それほど必然性を感じさせなかった。伊香保での心中行も、嘘っぽい感じで何らリアリティを感じなかった。中でも一番説得力がないのは、向井清吉によるおせい殺害事件であった。

この殺人事件にリアリティがないので、富岡が向井の弁護士を世話したりという設定がなおのことリアリティに欠けている。もしリアリティを出そうと思えば、向井のおせい殺害現場や、殺害後の向井と富岡の関係を緻密に描く必要がある。一つの小説で何もかも描き出すことは不可能にしても、人生を悟りすまして生きていた向井のおせい殺しは、筋の流れから見ても不自然さを感じさせる。事実は小説よりも奇なりの諺を否定しているのではない。まさにその通りであろう。が、描かれた限りで判断すれば、向井は若い妻おせいに逃げられても、伊香保の安バーにとどまっていた方が、彼の性格に合っている。おせいも、富岡となど同棲しないで、さっさと若い男と浮き名を流すようなドライな女に設定した方がいい。おせいは向井に殺されるようなドジな運命を生きる女ではなく、東京の夜をたくましく生き抜くような女であって欲しかった。これは個人的な願望というより、やはり『浮雲』という小説の世界で、各人物のキャラがきちんと立っていた方がリアリティが出るし、説得力もあるということである。
 わたしは『浮雲』を一級の作品と見ることに異存はないが、だからと言ってすべてを認めているわけではない。ゆき子が富岡に執着し続けることに対しても、腹の底から納得しているわけではない。何度でも言うが、ゆき子と富岡の関係は肉欲の次元で成立している。富岡の精神性に牽かれるようなところはまったくない。男の読者で富岡に魅力を感じる者はいないだろう。ゆき子と富岡の関係は動物的な性欲の合致で成り立っている。「電気蒲団で腰があたたまって来ると、ゆき子は、富岡の荒々しいあの時の力を、微笑して思い出していた。いつまでも心の名残りになるような、あの時が、肉体の一点に強く残っているそのことを考えると、富岡に対して平静にはなれなかった。富岡のすべてに牽かされる愛情が、自分の血液を創るための女の最後のあがきのような気もして来て、富岡にだけは、その愛情が安らかに求められる気がした。」(361〈五十一〉)「富岡のことを考えると、ゆき子は、今朝の快楽が、しめつけられるようになつかしくたまらなかった。」(362〈五十一〉)「富岡を、いま初めて見るような気持ちで、じいっと見ていると、女を誘うような、むせかえる男の体臭が感じられた。この体臭が、女を誘うのかもしれないと、ゆき子は、富岡に盃を差した。」(370〈五十四〉)「まかり間違えばゆき子は自分だけでも屋久島へ行くつもりだった。この男の体臭からいまは離れられなくなっている。/伊庭にも、加野にもない、男らしい体臭に、ゆき子は狂人のようにしがみついて行きたかった」(378〜379〈五十五〉)引用はこれぐらいでいいだろう。ゆき子が富岡のどこに牽かれていたのかはこれで明白である。