どうでもいいのだ──赤塚不二夫から立川談志まで──(連載28)




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どうでもいいのだ
──赤塚不二夫から立川談志まで──(連載28)
まずは赤塚不二夫・対談集『これでいいのだ』から

清水正


 談志と金


 談志の弟子たちは、上納金をとられる。この上納金を素直に納得している弟子はいない。前座は家元の身の回りの世話をして、その上に金をとられるのだから、納得しがたいであろう。まあ、心底なっとくしない弟子たちは滞納し、滞納を責められばやめるしかない。残った弟子たちは、談志の弟子であることのメリットを最大限に生かして真打となった。
快楽亭ブラックはもともと談志の落語に惚れて弟子になったわけではない。落語協会会長の円生が弟子をとってはいけないと言っていたので、当時の落語協会に所属していた落語家たちは弟子をとらなかった。談志だけが弟子をとっていたということで、弟子入り志願したにすぎない。が、弟子になってから、ブラックは談志落語の凄さを知る。弟子になった動機は不純だが、談志の落語の凄さを彼なりに認めたわけだから、やはりブラックは談志の弟子であることに間違いはない。
 弟子たちの話を統合すれば、談志がケチだったことは確かだ。上納金制度の実施といい、談志は金に関してはやはり人一倍シビアであった。わたしも何人かケチを知っているが、ケチというのは持って生まれた性格なのだろうか。適材適所と言う言葉があるが、金もまた使うべき時や人がある。金を貯めるしか能の無い人は、人間として有能な人とは思えない。金はいかに使うかによって、使う人の人格や人情がわかる。談志の弟子の本を読む限り、談志は金の使い方がうまかったとは言えない。
 ブラックは次のように書いている。


 「文七元結」これも駄目。あれだけ金に執着するしみったれが、娘を売った大切な五十両を見ず知らずの奴にくれてやる人間を演じられるわけがない。ま、自分にないものを演じられるのが芸だという説もあるが。(141)


 立川談志の正体は?
  と問われたら、誰よりも落語を愛し、誰よりも落語に誇りを持ち、その道を極めようとした究極の落語家と答えよう。そして誰よりも金に執着した男でもあると。(148)


 専門学校も大学も入学金、授業料、施設費など学生から金を取って経営しているのだし、華道や茶道、日舞など家元制度を敷いているところはすべて弟子たちから金を取っている。談志が落語立川流の家元として金を取ること自体、ああだこうだと非難することではない。談志の弟子になった以上は、家元の命令に従うのは当然で、それがいやなら落語をやめるなり、他の落語家を師匠にするしかない。談四楼もブラックも談春も、談志のケチぶりに腹をたてたりあきれたりしながらも、談志の落語には惚れていた。これがなければ弟子などやっていられないし、やっていてはいけないだろう。
 




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