どうでもいいのだ──赤塚不二夫から立川談志まで──(連載22)





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どうでもいいのだ
──赤塚不二夫から立川談志まで──(連載22)
まずは赤塚不二夫・対談集『これでいいのだ』から

清水正


不可避の確執

 テキストの解体と破壊は違う。解体するためにはテキストの構造がきちんと認識されていなければならない。テキストを解体できる者は、テキストを解体前のものに忠実に復元できなければならない。解体する必要のないテキストを破壊してしまう者は、テキストをきちんと認識していない。談志の言葉で言い直せば、落語を写実できる者が、写実から再構築へと向かうことができるということになる。
 落語を写実できない者は、壊すことはできても再構築することはできない。落語を古典芸能の領域に押し込めて、保持と伝承にのみ務めることに、談志は満足することができない。談志は既成の落語作品を現代版談志落語に再構築しようとはかる。当然、既成勢力の圏内にとどまる者たちとの確執が生じる。
 が、この確執に負けて、意気地なく引っ込むような談志ではない。落語協会会長の座にあった円生が、寄席が少ないので新人落語家を育てることができないから弟子をとることを禁じたとき、談志はどこにどんな才能が潜んでいるのかわからないのだからおれは弟子をとると言って円生の命令に従わなかった。
 落語協会を奪回して新たに落語立川流を創設したときにも、彼らしい理屈があった。時の落語家協会の会長は師匠の小さんである。談志の弟子二人が真打ち昇進試験に落ちたことに腹をたてた談志はさっさと落語協会を抜けてしまった。
 談志にしてみれば、二人の弟子の実力は十分真打に値するとして推薦している。試験に落ちたとなれば、師匠談志が否定されたも同然である。談志にしてみれば二人よりも、実力のない者が真打試験に合格したことも我慢がならない。いったん腹をたてれば、相手が小さん師匠であっても遠慮などしない。
 こういった談志の振る舞いは、和をもって尊しとなす聖徳太子以来の日本的常識からはずれた、無礼な行為と見なされることになる。が、落語界に縁もゆかりもない者からみれば、才能も芸も劣る者を真打試験で合格させた落語協会の審査員のほうがおかしいように思える。スポーツや芸の世界でえこひいきがまかり通れば、最後には観客やファンに見捨てられることになろう。談志の言っていることの方が理にかなっている。




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