林芙美子の『浮雲』を読んだ感想(6)

平成26年度「文芸批評論」夏期課題。
林芙美子の『浮雲』を読んだ感想(6)


林芙美子浮雲』を読んで

永沼絵莉子


浮雲」を読みながら、私は自分の周囲にいる男の人たちについて考えた。
 私の周囲の男の人達は、富岡兼吾に比べてもっと臆病であるように思う。みんな妙にロマンチストで女々しくて(女の人たちよりも女々しい感じがするのはなぜだろう)、無責任で流されやすいところは富岡と共通するけれど、富岡がゆき子との約束を反故にし続けたようなそういう度胸のある「逃げ」はできない人たちだ。もちろん、私の周りにいるのが文化系の物腰が柔らかくて人当たり良い人たちばかり(類は友を呼びますしね)だからかもしれない。約束を破ることは簡単だけれど、そのあとに自身に襲いかかる罪悪感にも敏感な人たちだ。
 でも、結局その人たちだって約束は破る。私も破る。富岡がゆき子にしたように、相手を傷つけることだって今までいくらでもしてきた。罪悪感なんて承知の上で。
 私たちが非情になることは容易い。産まれてからこれまで、母の言いつけを破ったり友人を傷つけたりした経験は誰にだって何度でもある。その経験の積み重ねが、やがて自分がなにか正しいことをしようとしたとき、ふいに顔を出して囁くのだ。「私は今、正しいことをしようとしている」。途端にその行為が特別さを持ち、たまらなく息苦しくなる。だから約束を守り、人に優しくし、正しくあることは難しい。
 今までの自分の卑怯であった行為に耳を傾けながら、私は富岡兼吾の性質に同調している。妻とのことも心中の約束も、現状のままでもなんとかなる生活があるなら、苦しい約束を守り続けることなんてしないでそりゃそっち行っちゃうよな。歳をとればとるほど、自分一人で生きているわけではないことを実感するし、身勝手なことはできなくなっていくものだから、心中の足だって止まる。

先日、帝国劇場でミュージカル「ミス・サイゴン」を観た。1975年4月、終焉を迎えようとしていたベトナム戦争ベトナムの田舎娘であるキムは家族と家を失い、首都サイゴンまで逃げ、売春宿で働き始める。そこで初めての客だった米兵のクリスと出会い、二人は惹かれあう。しかしサイゴン陥落の日、クリスはキムをアメリカへ連れて行こうとしたが混乱で二人は会えず、クリス一人で帰国する。それから3年経ち、クリスは他の女性と結婚してしまう。キムはクリスを信じ続け、ベトナムで彼との子供を産み、子供を守りながらタイのバンコクへ行き、キャバレーのホステスとして働く。やがてクリスはベトナムにキムと子供がいることを知り、決心して妻とバンコクへ向かう。クリスが会いに来ていることを知ったキムは、喜んで彼の止まっているホテルへ出向くが、そこで彼の妻と鉢合わせしてしまい失望し、自ら命を経つことを決意する。
 舞台を観ながら、これは殆ど「浮雲」じゃないかと思う。一つの約束を、男は脆いものにし、女が必死に繋ぎとめようとする。私たちの間でも、男が女がは関係なく、誰かが大切にしていた約束を誰かが軽んじてしまって、諍いが起きる。
 富岡やクリスに挙げられる「無責任」という言葉は何を咎めているのだろう。高見広春作「バトルロワイアル」では、無人島に拉致された中学生たちがたった一人になるまで殺し合いをさせられる。主人公はヒロインを守りながら他のクラスメイトを殺せるかどうか葛藤するなかでこの台詞が現れる。「誰かを愛するってことは、他の誰かを愛さないってことだ」。
 富岡もクリスも、妻を持ちながら、ゆき子を、キムをも愛せると勘違いした。自惚れた。だからその約束に手を伸ばし続ける彼女たちの手を振り払わなかったのだ。振り払わないまま、彼らは浮雲のように流され続けたから、彼女たちも傷ついた。

 林芙美子はどうしてこの話を書いたのだろう。富岡兼吾をこういう無責任で流されっぱなしの人間にしたのだろう。私たちはこの話を読んで、富岡の身勝手さに腹を立てればよいのだろうか。
 でも、私はそれに失望することも苛立ちを抱えることもできない。正しい道のりを歩き続けるのは難しいことを、知っている。
 私たちは作品の人物がとる「矛盾した行動」を「人間味」と呼び、共感することがあるけれど、それなら富岡兼吾に共感するのは私だけではないと思う。浮雲のように流されながら、傷つけ合いながら情けなく生きてるのは富岡だけでなく、私たち全てだ。ここまで考えて、私はなんとなく、芙美子の視線を感じ取る。芙美子が富岡に注いだ視線。矛盾を孕んで生きながら、傷つき傷つけられ罪悪感に囚われて、それでも私たちは誰かを愛してしまうのだ。そのみっともなさに注がれる、ちょっと呆れたような、あたたかい視線を。