清水正著『ドストエフスキー「白痴」の世界』(鳥影社)の紹介(4)


この本に収録された『白痴』論は1985年12月23日に書き始め1987年5月11日に書き終えた。すでに二十六、七年も過ぎた。『アンナ・カレーニナ』論を含め、刊行したのが1991年11月。先日久しぶりに読み返したが、今度『清水正ドストエフスキー論全集』第七巻に収録したいと考えている。

清水正著『ドストエフスキー「白痴」の世界』(鳥影社)から内容の一部分を何回かにわたって紹介する

ムイシュキンは境(граница)を超えてやって来た
(三)黒髪青年ロゴージン 

いずれわれわれはレーベジェフその人に照明をあてなければならないが、今は「黒髪の青年」ロゴージンの秘密に焦点をあてることにしよう。
 作者はロゴージンの肖像画を次のように描いている。「あまり背の高くない、二十七歳ばかりの青年であり、神はほとんど真っ黒といってもいいほどの縮れ毛で、灰色の瞳は小さかったが、火のように燃えていた。鼻は低くて、平べったく、顔は頬骨がとびだしており、薄い唇はたえずなんとなく不遜な、人をばかにしたような、いや、毒を含んでいるとさえ思われるような薄笑いを浮べていた。しかし、その額は秀でて美しく整い、下品に発達した顔の下半分を補っていた。この顔のなかでとくに目だっているのは、その死人のように蒼ざめた肌の色で、それはこの青年がかなりがっちりした体格に似合わぬ憔悴しきった感じを体つき全体に与えていた。が、それと同時に、その人を食ったような、厚かましい薄笑い、いや、みずから悦に入っているような鋭い眼差しとはまるでそぐわない、悩ましいまでに情熱的なものをも感じさせた。」
 この肖像画それ自体からは、われわれは何らの秘密をもかぎとることはできない。作者はロゴージンの外貌を誰もが見ることのできる眼差しで写生したまでである。そしてわれわれはこの肖像画によって、彼とムイシュキンとの鮮かな対照を確認するだけである。しかし、この対照がすでに曲者である。彼らは外貌的肖像画において紛うことなく対照的であるが、実はこの二人は究極において「反対の一致」を実現している。作者はさりげなく「もしこの二人が、ほかならぬこの瞬間いかなる点で自分たちの姿が人目をひいたかをたがいに知ったとしたら、二人は自分たちをペテルブルク・ワルシャワ鉄道の三等車に向いあわせにすわれせた運命の偶然に、むろん、びっくりしたにちがいない」と書いた。だが作者は別として、「向いあわせにすわらせた運命の偶然」を本当は誰も知らなかった。ロゴージンとムイシュキンの外的肖像やその性格の相違は作者が描いた通りであり、それは誰が見ても明白である。問題はこの二人が対照的存在でありながら実は共通の、一致した“秘密”をかかえ持った存在であったということである。
 ではその秘密とは何か。作者はムイシュキンの肖像を紹介する場面で「……その大きな空色の瞳は、じっと一点を見つめており、その眼差しの中には何かしらもの静かではあるが重苦しいものがただよい、人によっては一目見ただけで相手が癲癇持ちであることがわかる、あの奇妙な表情にあふれていた」と書いている。つまり作者は小説の導入部でごく自然にムイシュキンがてんかん者であることを明かしている。われわれ読者はそれを素直に受け入れる。換言すれば、このときわれわれはムイシュキンだけがてんかん者であると思い込むのである。
 感のいい方はもうお分かりだろう。私の言いたいことはロゴージンもまたてんかんであったということである。先に私が引用したロゴージンの肖像画の後に「人によっては一目見ただけで相手が癲癇持ちであることがわかる、あの奇妙な表情にあふれていた」をつけ加えてみればいい。このことばは「金髪の青年」ムイシュキン以上に「黒髪の青年」ロゴージンにこそふさわしいと思えるだろう。作者はムイシュキンのてんかんを明かし、ロゴージンのそれを秘め画した、だがそれは所詮わかる者にはわかるであろうという秘め方であった、それを読者は忘れてはならない。ムイシュキンの病気は「体が震えて痙攣をひきおこす、癲癇とか舞踏病のような、一種不思議な神経病」というように具体的に記され、ロゴージンのそれは、単に「熱病」(горячка)と記される。従って読者はロゴージンの「熱病」は熱病であって、それが一種の「神経病」であったかもしれないなどとは考えない。しかしロゴージンがどうして「熱病」にかかったのかを検討すれば、この「熱病」とムイシュキンの「神経病」(てんかん)との親近性は明白である。
 例え、ロゴージンの「熱病」が「てんかん」そのものでないとしても、それがてんかん的性格を持っていることは疑う余地がない。しかもそれは彼の父殺し願望の成就と密接に連関している。
 ロゴージンは父親からあずかった「額面五千の五分利債券二枚」の換金すべてを投げ出して、ナスターシャにイヤリングをプレゼントする。レーベジェフのことばでいえば「一万どころか、たった十ルーブルのことでさえ、人をあの世に送った方」がロゴージンの父親である。そこで父親の烈しい怒りをかったロゴージンは母親の気転でプスコフに住む伯母の所へ逃げ出すことになる。注意深く読みすすんでいかないと看過ごしてしまうが、この単純な事実が実に重要なことを語っている。この物語の始った日は一八六七年十一月二十七日(水)であるが、ロゴージンの父親が“卒中”(кондрашка)で死んだのは「一カ月前」である。ところで、ロゴージンが「包みを一つぶらさげたまま、プスコフの伯母をたよって親父のもとを逃げ出した」のは「五週間前」である。従って単純に計算すれば、ロゴージンの父親はロゴージンの逃げ出した四、五日後に死んだことになる。つまりロゴージンは父親の“死”に関しては完全な存在証明を持っている。だが、問題は物理的時間の存在証明ではない。父親の“急死”が、ロゴージンの父親に対する殺意の成就を意味することが重要なのである。例えばロゴージンは「親父はあのときこのおれを半殺しにしかけたんだ! いや、公爵、ほんとうだとも! あのとき、こちらが逃げださなけりゃ、間違いなくおれは殺されていたよ」と語る。これをほんの少しきわどいことばに換言すれば「あのとき、こちらが殺さなけりゃ、間違いなくおれは殺されていたよ」となる。
 尤もここでは、ロゴージンが実際に父親殺しの下手人であったかどうかは問題ではない。彼はムイシュキンと同様、父親殺しに関しては明晰な意識的認識者の次元にはない。彼のエディプス的葛藤は今の所、深く彼の前・無意識の領野でうごめいていたにすぎない。しかしだからこそ彼は父親の所を逃げだし、プスコフに着くや否や得体の知れない「寒気」に襲われ、なけなしの金で居酒屋めぐりをやらかし、前後不覚になって一晩じゅう往来にぶっ倒れ、そのあげく丸一月ものあいだ「熱病」で寝こんでいなければならなかったのである。これらの事実は単に父親に対する反逆、そのことによる恐怖の結果とばかりはいえまい。やはりこれは、ロゴージンの父親に対する烈しい秘められた殺意とその成就(卒中による急死)による超自我からの処罰という性格をも備えているのである。