昨日は柏の喫茶店で「世界文学の中の林芙美子」展示会開催に際しての挨拶文を書いた後、古書店太平書林に寄って「ばく」三冊と宇野浩二『文学的散歩』を購入して、日本海へ。この本は大昔、早稲田の古本屋で購入してあるが、今やどこにあるか探すのも面倒なので購入した。ホッピーを飲みながら「初期のロシヤ文学の翻訳」を一時間半かけて異様な遅さで読む。一行読んでは頭の中で五枚くらいの原稿を高速度で書きながら読んでいるようなもの。宇野の文章は含蓄深く、思わせぶりもあるが、アルコールを入れた頭には実に心地よい。『罪と罰』を英語から翻訳した内田魯庵、ロシア語から翻訳した中村白葉について書いているが、宇野は当時新進の中村白葉の名前さえ記さない。中村白葉は『罪と罰』を翻訳する際、内田魯庵の訳がすでにあったことさえしらなかった男である。まったく無礼な話だが、だれも正面きってそのことを書いた者はいない。内田も宇野も心に深く思うところはあっただろうが、実名を出さずに書いている。ちなみに宇野の『文学的散歩』が改造社から刊行されたのが昭和十七年、わたしがこの世に誕生する七年前である。古書を手にするたびに妙な気分になる。宇野のこの本に関してきちんと感想を述べればはてしなく長くなるだろう。ほかにやることもあり、その時間はないが、ひとことだけ言えば、フレデリック・ウイショウの英訳から『罪と罰』の前編を翻訳した内田魯庵の情熱は本物であったということである。宇野は、ロシア語原典から翻訳したものが、内田の訳の足元にも及ばぬものであったということをきっぱりと言っている。ドストエフスキーの作品は中村白葉の訳が出た頃から、重訳の出番はなくなった。内田は大正二年に再び翻訳『罪と罰』前編を丸善から刊行するが、続編を出すことはなかった。