清水ゼミ(平成25年度)課題レポート(第一回)私の部屋

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平成二十五年度清水正ドストエフスキーゼミ一年の課題レポートを掲載する。
私の部屋(第一回)


中西 強

私の部屋は、他の同年代の子達と比べて狭いとは感じませんが広いとも感じません。しかし、私の身体は百八十二センチと大きめだから部屋自体が私にとって狭いと思うことはあります。
 私の部屋には、机、ベッド、そして本棚が置いてあります。三つ程家具が置いてありますが、これ以上置くと更に部屋が狭く感じるので置こうとは思いません。ところで、本棚の隣にはギターとベースが置いてあります。これは、私が中学生の頃に使っていたもので今はただの置物と化しています。ですが、たまに気が向いたら弾いています。
 ここまでを読んでいただくと、あたかも私が今の部屋に不満を持っていると思われそうですが、そのようなことはありません。こう見えて、結構気に入っています。その理由は具体的にいえば三点挙げられます。
 私は今の部屋を獲得するまで、ずっと一つの部屋を弟と共有していました。弟は私より年が二つ下で、決して私を慕ったりしない、とても可愛げの無い人間です。
 部屋を共有するということは、他人の住処でありながら自分の住処でもあるので、弟は好きに行動していました。好きな時に屁をこき、私がすぐそこで眠っているのも構わずに、床に足音を響かせながら夜中にトイレへ行ったりしていました。他にも、こういった迷惑行為は続きましたが、いくら言っても無駄なのでいつしか私は諦めていました。今の部屋は私一人が好きに使っています。だから、前と同じ居住形態に戻るくらいなら、現状がとても幸せな事だと理解できます。
 今住んでいる部屋は高校生の頃から使っていますが、当時は初めての一人部屋でとても嬉しかったのを覚えています。弟にも部屋が与えられ、私達は別々の部屋で暮らすことになりました。それにより、部屋の本棚に弟の本が無くなったことはもっと嬉しかったです。本棚を自分の本で埋め尽くせる事がこんなにも幸せだとは思いませんでした。
 私が一人で部屋を使わせて貰えたのは引っ越しをして、余裕があったからです。ですが、その引っ越しは壮絶を極めたものでした。何故ならば、その引っ越しを行ったのは東日本大震災が起こった三月十一日で、地震が起きた当時学校で授業を受けていた私は引っ越しどころか、その日家に帰れるかも分かりませんでした。その日の授業が全て中止になり、緊急時の帰宅という名目で私が家に向かったのは夕方六時でした。私が新しい家へ行くと、誰もおらず一人で玄関に立ち尽くしていました。母に電話を掛けてみると、みんなは前の家に居たらしく、新しい家に居るのは私だけとのことでした。そして、私は今自分が使っている部屋でずっと体育座りでみんなが来るのを待っていました。その後、家具が置かれ、殺風景な部屋から今の私の部屋へとなりました。だからか、狭くても愛着があります。
 私の部屋にはベッドと机と本棚がありますが、それらの紹介をしたいと思います。
 ベッドは、縦が私の身体がギリギリ収まる位の長さで、横は一度位なら寝返りを打っても落ちたりしない位の長さです。ベッドは四本足で立っているので、下にスペースが空いています。私はここに、洋服を収納したボックスや、本棚にしまえる許容範囲を超えた分の本やマンガをまとめた段ボールをここへ入れています。スペースは有効に活用してこそだと思います。部屋が狭いなら尚更です。
 私の机はとても汚いです。汚いと一口で表しても、ゴミが散乱しているとか、腐った食べ物が置いてある訳ではありません。私の机には英語の本や小説、そしてテキスト等が散乱しています。机の上に並べるには数が多いので、このような形になっています。この机は小学校の入学祝で母が買ってくれたものを十二年以上使い込んでいるので小さくて当然です。年を重ねていくごとに、学校でも教科書のサイズが大きくなっていくので、教科書やノートにプリントが机に置ききれないなんて事態に陥ることもしばしばありました。この机には、引き出しがいくつか付いています。私はこの引き出しに、昔の思い出の品や貴重品をしまっています。この中は、家族は誰も見ないので、私の部屋で一番プライバシーが守られた空間です。
 私の本棚にはマンガ、小説、アルバム等があります。本棚は六段で区切られていて、それぞれにマンガのコーナー、小説のコーナー、アルバムのコーナー……といった感じです。私は、マンガは日本のものをよく読みますが、小説は海外の物も多いです。学校でアメリカやイギリスの小説を読んだりするので、その影響かもしれません。ナルニア国物語やネアラ、ガリバー旅行記、透明人間等があります。中には、日本語に翻訳されたものがあれば、学校で支給された物をそのまま置いていたりもします。今、私が一番読んでみたいのは不思議の国のアリス鏡の国のアリス、そしてジキル博士とハイド氏です。
 本日は、この文書を読んでいただきありがとうございます。

齊藤 瑛研  

 私は物心がついて少し経った時から、自分の部屋を出たことがない。だから私にとっての世界は、カーテンを閉め切った、暗く、小さな部屋だけだった。この表現は決して大げさなものではなく、本当にそのままの意味だ。たとえ外の世界に季節外れの大雪が降ったり、たちの悪い感染病が蔓延したところで、私の部屋には何の影響もない。何の危険にもさらされることのないこの部屋こそが、私の世界そのものだ。
 そうは言ったものの、私の部屋は完全に独立した世界、というわけではない。毎日、決まった時間になると、私の部屋の前には食事が置かれる。私の年老いた母親の、皺だらけの手によってそれは置かれる。そのおかげで 、私は部屋から出ないでも、餓死せずに今まで生きることができた。
 ある時、私の部屋の前に食事が置かれなかった。今までこんな状況には一度も遭遇したことのなかった私は、大きく動揺し、とてつもない不安に襲われた。しかし、いつまで待っても私の部屋の前に食事が置かれることはなかった。空腹が限界を迎えた時、私は大きな決断を下した。世界を変えるという大きな決断を。
 ドアを開けると、そこには、記憶の片隅に僅かに残っている白い壁と、狭い廊下があった。
 廊下を数歩歩くと、また別のドアが目に入った。記憶が正しければ、このドアを開けるとリビングが現れるはずだ。ゆっくりとドアノブを回すと、テーブル以外の家具が何一つない、奇妙な部屋が目に飛び込んで来た。そして、嫌でも目に入るテーブルには、一枚の紙と封筒が置いてあった。その紙には何かが書いてある。私はそれを手に取り、噛みしめるようにそこに書いてある懐かしい文字を読み終えると、一緒に置いてあった封筒を手に持ち、部屋のドアなど比べものにならない程に、巨大で重く感じられる家のドアを押し開けた。
 両目に突き刺さるような日光に目が慣れたころ、私は小さな公園のベンチに腰かけていた。微かだが記憶にある。母親がよくここに連れて行ってくれた気がする。他の子供とうまく一緒に遊ぶことが出来なかった私を心配した母親は、他の子供の目を惹くような玩具を私に買い与えて、少しでも友だちを作れるように色々と努力をしてくれた。しかし、どうやっても友だちを作ることのできない私は、
そのうち公園に行くことが苦痛になった。
気が付けば、自分以外誰も存在しない世界に閉じこもっていた。遠い昔の記憶を思い返していたら、私はどうしても確かめたいことができた。祖母はどうしているだろう。
 私はいろいろな失敗をしながら、なんとか切符を買い、電車に乗り込んだ。たくさんの景色が目の前を通り過ぎていく時、私は奇妙な感覚に襲われていた。何というか、自分の世界がどんどんと広がっていく気がするのだ。
ついさっきまで、私は数歩歩くだけで世界の端から端まで行くことができた。しかし今はもう違う。私の世界は歩くだけではとても見わたせないほど広大なものになったのだ。今までは何の価値も感じることのできなかった外の世界が、今では隅々まで見て回りたいほどにキラキラと光り輝くものになったのだ。
 数駅先にあったはずの祖母の家は、結局見つからなかった。私の記憶が間違っていたのかも知れないし、もう別の家が建っていたのかも知れない。しかし、私は今までに感じたことのないほど、清々しい気持ちになっていた。今まで見ることのできなかった世界をもっと見たい。小さな部屋だった世界をもっと広げたい。無駄にした時間を後悔するよりも先に、純粋な好奇心と、母親に対する感謝と罪悪感が体中に広がった。そんな罪悪感を打ち消すために、私にできることは一つだけだった。母親が残してくれた封筒を握りしめて、私はやせ細った足で一歩を踏み出した。



○○○

 はじめに、私は『自分の部屋』がない。よって、『私の部屋』ではなく、『私のスペース』を中心として書いていく。
 私のスペースとなっているこの場所は、もとはれっきとした一つの部屋であり、そのまま私の部屋となるはずだったのだが、現在は部屋の右半分が洗濯物干し場となり、そして左側が私の勉強机と椅子、真後ろにやや大きめの本棚。さらに後方に、飼い始めてから今年で八年目となるオカメインコが毎日忙しなく鳴いている。
机から本棚まで、それがこの家における『私のスペース』だ。一応障子はあるのだが、現在は障子を引くための通路には本棚に入りきらなかった辞書の山ができているので、もう何年もこの障子が閉まったことはない。
 このスペースはお世辞にもあまり綺麗とは言えない。ゴミの山と化しているわけではないが、教科書や本が本棚に収まりきれず、数十冊ずつ重なってできた本の塔がいくつも床や机の隅に置かれている。四方八方本に囲まれている状態になっていて、友達には息苦しいと言われた。
しかし本屋に住むことが夢だった私にとって、多少移動の際に不便になるが本に囲まれている今の状態はそれほど苦になるものではない。
親からは再三片付けろと言われるが、如何せん本をしまえる場所がないのと、本を捨てる、売るということが嫌いな私には年々増え続ける本の塔は、ある意味本屋に住んでいるような錯覚が起きるので、この状態が良いのだ、とこれまでなんとか親を説き伏せてきた。努力が実ったのかどうかは分からぬが、本を捨てる、売ることは滅多なことがない限り起こらなくなったが、ことある如く親から本を人質に(この場合は物質とでも言うのだろうか?)されてしまうので、なんとか手段を考えねばならない。
 あの二年前の東北での地震の際、私はちょうど修学旅行で家を空けていたので直接目にすることはなかったのだが、揺れによって机の真後ろにある本棚や、机の隅、床に置いてあった本が一斉に崩れ、まさに本の山ができるという惨事が起こったらしい。片付けるどころか、あなたの机の所まで行くのに本当に苦労した、と帰宅してから何度も愚痴を言われたことは今でもよく覚えている。
ついでに、そのスペースの隣の部屋は私と母の寝室となっているのだが、枕元にも60〜80cmほどの本の塔がずらりと一列に並んでいるので、寝ている最中に地震が来て、それが崩れたら間違いなく顔に直撃するだろう。本に埋もれて死ねるなら幸せだ、と母に言ったところ、「私は嫌よ。さっさと片して」ととても苦い顔で言われてしまった。
 机から視線を右に送ると、一mほど先にある窓からは向かい側に聳え立つ社宅と、毎日様々な色や雲を見せてくれる空が見える。勉強や日常生活に行き詰った時、視線を空へやり、しばらく眺めることは気付かぬうちに癖になっていた。
残念ながらこの文の構成を考えている時に視線をやったら、干されている家族の洗濯物と、窓下に鎮座しているサボテンしか見えなかったが。
 机の場所に不満があるわけではないのだが、机と本棚の狭い道(実際に測ってみたところ約40cmほどだった)を通って母が洗濯物を干しに来るため、試験勉強をしていて集中している時に「ちょっと通るよー」と言って来ることは多々ある。その度に、行った机から離れるので中途半端に集中力が切れてしまうのは困るところだ。
 反対に机から視線を左に送ると、布団を敷く場所と机との間にはこれまた本の塔が並んでいる。更にその部屋の片隅には積み重ねられた計15箱の段ボール。中は全て、ぎっしりと本が詰まっている。毎度開けるたびに妙にわくわくしてしまう。
そして私の真後ろにある本棚に対して逆さL字の形になるように配置されている、さらに一回り以上大きな本棚。その本棚の前に置かれた、私の一番好きな画家であるクリスチャン・ラッセンさんの描いた、透き通った青の海を生き生きと泳ぐ二頭のイルカが描かれている絵が飾ってある。その後ろにもう二枚、ラッセンさんの描いた絵があるのだが、飾る場所がなくなってしまったために、現在は箱入りしてしまっている。勿体ないことをしているな、と思うのだが場所がないため仕方ない。
 机の後ろを向くと、約40cmmp距離にある本棚。その都度お気に入りの本を巻数順に並べていくのが楽しみの一つだ。自分好みに整理していくのはとても楽しい。読みたいときに、振り向くとすぐに手に取ることができるなんて凄く素敵じゃないか、と思ったのが始まり。
ジャンルは問わず、漫画、小説、エッセイ、詩、新書、辞典、図鑑、カタログ、雑誌など彩緑。私の自慢の本棚だ。
 先ほど書いたように、寝室との間にある障子は機能しておらず、テレビがある部屋との扉はDVD用のボックスや、父の荷物によって閉まることはない。寝言やテレビの音を遮るものがないため、イヤホンが必須アイテムとなってきているのだが、いざイヤホンを付けると、呼ばれた時や電話の音に気付かなくなるため、付けることは禁止されている。よって我慢するしかないのだが、一向に耐性がつかないので困りものだ。
映像なし、音声のみで、見た目は子供、頭脳は大人の某少年探偵の映画を何度耳にしたことだろうか。一時期はあんまりにも繰り返し同じものばかり父が見るので、台詞をほとんど覚えるほどリピートして聞いていた。本当に勘弁してほしい。
 自分の部屋が欲しい。できればちゃんと扉の開閉ができる部屋がいい、と願い続けて早六年。ついに来年、引っ越すことになった。新居では念願の一人部屋、つまりは『私の部屋』がもてる。
一体どのような部屋にするのだろうか。とりあえず、希望は本棚を最低二つ、本を読むためのソファを置く。そしてラッセンさんの絵を一枚は自室に、箱入りしていた二枚はリビングに飾る。後は勉強机とクローゼットとベッド。それをどう配置して、『私の部屋』を作り上げていくか、とても楽しみである。



小林一歩


 私の部屋にはひとつ大きな欠点がある。首吊り縄をひっかける場所がないことだ。何も今すぐにという訳ではないけれど、ここぞというときにふらっと死ねないのは困る。猛烈な自殺衝動に駆られたとき、死に場所や方法についていちいち迷っていられる暇はない。定位置に常に縄を結んでおいて、いつでも好きなときに意識を飛ばせる状態というのがベストだ。事前に何度かシミュレーションを重ねることも大切だと思う。絶対に失敗は許されない行為である以上、準備が入念であるにこしたことはない。
 しかしあたりを見回しても縄をひっかけられそうなものは何もない。ベッドには柵がないし、裸電球は頼りなさすぎる。ドアノブで首を吊ったという話はよく聞くが、不幸なことに我が家はどこの扉もスライド式なのでこれも不可。
 自殺するなら首吊りが一番いいと思う。最もポピュラーな自殺方法だというだけあって、確実性が高いし、上手くいけばそう苦しまずに逝ける。手ごろという面でも一押しだ。流行るだけの理由がある。それに、最期は自分の部屋で過ごしたい。特別な思い入れがあるからとか、居心地のいい部屋だからとか、そういうわけではなく、単純に外へ出たくないのだ。電車や人の群れが怖いし、樹海まで付き添ってくれるような友人もいない。ならば集団自殺は、というと、人間が怖いので無理だ。ネットで出会ったばかりの相手などそうやすやす信用できるわけがない。だからやっぱり、自分の家で、一人で死ぬのが一番いい。誰かが急に家を訪れることもそうそうないので、中途半端なところで止められてしまう可能性も低い。考えれば考えるほど首吊りと自室という組み合わせがとても魅力的に思える。それだけにこの部屋の欠点はなかなか致命的だった。
 とはいえ、そういうことなら仕方ない。幸いまだ時間はある。私は何か他の自殺方法を模索することにした。真新しいことをはじめるのには下調べが必要だ。前回はその作業を怠ってしまったがために死ねなかった。初心者であるがゆえに自殺に何が必要なのかいまいちよくわからず、すべて失敗に終わってしまったのだ。薬剤を大量に飲む、手首を切るなどをしても死ぬことはまずないと知ったのは、それを実践した後だった。オーバードースの方は胃洗浄をする程度で済んだが、手首は割かし重傷で、今も震えがとまらない。どうやら深く切りすぎて神経を傷つけてしまったらしい。余計なことをしてしまったと今でも反省している。
 次こそは絶対に失敗したくない。そしてそのためにはもっと確実に死ねる方法を、まだ幸せなうちに考えておく必要がある。立ち上がっただけで褒められる赤ん坊を妬ましく思うほどに状態が悪化してからではもう遅い。一度そうなってしまうとベッドから起き上がるのにも精一杯で、調べ物などは到底できなくなる。今できることは今やっておかなくてはいけない。
 私はもう一度だけ未練がましく部屋の中を見回して、首吊り縄をひっかけられるようなものがこの部屋には何もないことを再確認すると、押入れから段ボール箱をひっぱりだした。中には練炭、剃刀、ライター、導線、洗剤など、これまで自殺のために用意してきた道具たちがしき詰められている。これまでに幾度となく検討し、却下してきた自殺方法の数を思うと、自分の今の平穏さが嬉しくなった。自殺方法を迷っていられるのは幸せな証拠だ。いつ何が起こるのかわからない以上、喜んでばかりもいられないが、それでもほくそ笑むぐらいはいいだろう。私はその中にもやい結びの縄を加えると、またふたを閉じた。
 私は死にたくもないくせに、死ぬことばかりを考えている。すべてはいつかのための備えでしかなかった。私は何不自由なく日々を過ごすことのできる幸福な人間なのだから、本当はこんなことをする必要なんてないのだ。だというのに、なぜかやめられないし、やめたくない。理由だってちゃんとある。私にとって自分の死に方を模索することは、どの保険に加入するのか悩むこととほとんど同じだった。きっと、悩んだぶんだけ満足のいく死を手に入れることができる。いつ病気にかかるのかわからないことと、いつ不幸になるのかわからないことの違いが私にはわからない。私は将来のことを考えて行動しているだけだ。どこにも異常はない。六畳半の部屋に転がる普遍だ。


冬室祐人

 私の部屋ができたのは、小学4年生の時で私は当時10歳の時だった。今から8年前のことである。今から考えればたかが10歳の子供に部屋を与えたというのは、けっこう贅沢だったのかもしれない。自分の部屋を貰ったのは、家をリフォームしたのがきっかけだった。元々私と姉は同じ部屋で寝ていて、その部屋に学習机やら二段ベッドがあった。当時の私は二段ベッドがけっこう気にいっていて、父の部屋を分けるという提案に乗り気はなかった。父曰く私たちが10歳を超えて、これからもっと成長するのだから自分の部屋ぐらい持ちなさいとのことだった。私は姉と二人でいた部屋で生活したかったから、この部屋がいいと言ったがこともあろうか姉もこの部屋がいいと言い出したので、案の定喧嘩になりかけ結局は恒例のじゃんけんになった。結果は私の負けであった。そして私の部屋は両親の寝室と姉の部屋に挟まれた真ん中の部屋になった。こうして私の部屋ができた。
 元々私の部屋は、生まれてから二段ベッドが来る7歳の時まで両親と私と姉が川の字で寝ていた和室だった。私の部屋になった時は和室ではなく洋室にリフォームされていた。和室が好きだった私は和室が無くなったのを見たときかなり悲しくなった。しかし私の部屋は、元々寝室だったため布団収納スペースがあり、そこが空いたので結構な収納スペースができた。私がこれだけの収納スペースがあるなら何でも入れられると当時思っていたのだが、なんということでしょう、空いてるスペースに家族の予備の布団やらタオルやらを入れていたのだ。まあそれは仕方ないと思ったのだが、仕舞いには姉が自分の幼少の頃のおもちゃを入れろと言ってきたのでさすがに私は反論し嫌だと言ったが、姉は自分の部屋には物を収納するスペースがあまりないから私の部屋の納戸にしまうなどとぬかし、私と姉は口論になり結局、父が私にお前の部屋は収納スペースがあるのだからしまってやりなさいと言われしぶしぶ承諾した。ちなみに今はない。
 なんだかんだ中学生になってもあまり大きな変化はなかった。3つ並んでいる納戸の一番奥が本棚になっていてそこに私はマンガをいっぱい詰め込んでいた。しかしそのマンガの多くは母に捨てられ、売られ、水浸しにされたり隠されたりした。今でもあまりいい思い出ではない。また洋服タンスの入っている納戸の上の棚に部活着を押し込んだ。今でも残っていて当分処分する気はない。そして学習机はプリントやら教科書やらで元の面積の3分の2ぐらいになって端っこは埃などで汚くなっていて、掃除してもまたプリントを積み重ねていたのだった。
 高校生になり私は体が急激に成長し、色々狭く感じるようになってきた。その為両親がそろそろベッドを買い替えるかと言ってくれて固くて狭く感じるようになった8年間使っていたベッドが、広くて大きく、前より柔らかく、そして檜の香りがするベッドに変わった。その時は毎晩部活で疲れてベッドに倒れると、檜の香りがし私の心を癒してくれた。ちなみに今では布団から足がほんの少しはみ出し、檜の香りなど全くしない。学習机の方は悪化し、プリントが右端に山積みされていて、また頭を机の上にある棚にぶつけるため私はあまり学習机で勉強しなくなった。せいぜい課題か試験前の勉強しかやらなくなった。
 そして高3になり、私は秋まで部活が有ったため受験勉強を始めたのも、部活を引退してただでさえ授業数が少なくなる高3なのでだらだらし、結局引退してから2か月後の秋の終わり位からだった。しかも私は基本的に狭い机の上での勉強を嫌って図書館などで勉強していた。
 受験がようやく終わり解放された私は、第一志望に合格できたので念願のパソコンを買って部屋に設置した。受験生の頃から、当たり前だが家の家族共用のパソコンを使用すると両親がうるさかったので、私は早く自分のパソコンとテレビが欲しかった。私はPC、TV、PS3を三種の神器などと呼びとっとと揃えたかった。そして有線RANを通し、私の城は完成した。しかしあまりにも汚いため、かなり力を入れて掃除する必要があった。完成してすぐに掃除する必要がある我が城。いらない教科書やプリントなどをゴミ袋に詰めたり縛ったりし、奇妙な形の棚を解体し、部屋の埃を取った。埃は掃除機で吸っても、吸っても湧いて出てくる。
 ようやく大まかな掃除が終わり、綺麗な場所にパソコンとテレビを設置できた。これによって私の城となる、私の部屋はまた一歩完成に近づいた。あとは扉付きの本棚とプラモ観賞用の棚を設置するだけだ。このままいけば私は、この私だけの城から出てきたくなくなるかもしれない。

後藤舜

 私の家は東京都台東区の谷中にある明治坂の中ほどに建っている。この坂は「あかぢ坂」と読み、その昔には銀行の頭取一族が住んでいた。この頭取の初代が明石治右衛門といい、その「明」と「治」を取ってあかぢ坂なのである。今でも、明石の屋敷の名残である、坂の終わりから真ん中あたりまで続く大きな石垣があって、その上にこれまた大きい桜の木と、品の良い老婆が青いトタン屋根の木造家屋に住んでいる。ちなみに、この頭取の運営していた東京渡辺銀行は時の大蔵大臣の迷惑な失言とそれまでの杜撰な経営による資金繰りの悪化で敢えなく破綻してしまった。そのため、当時はこれを揶揄して赤字坂などと呼ばれたこともあったらしい。
その明治坂を上りきって、私の家の裏手に回るように右に数十メートル行くと、また坂がある。名前を三浦坂と言い、ここには特に語るべき謂れもないのだが、坂の途中には宗善寺という寺の門が開いており、時たまそこで葬式などを開いている姿を見ることがある。その宗善寺には当然ながら墓がある。二階にある私の部屋の窓からは、宗善寺のところどころ崩れたコンクリート塀から焦げ茶の卒塔婆が伸びている様を目にすることが出来る。
昔、近所に住んでいて私に良くしてくれた山根さんという老年の女性がそこに埋葬されている。いつも茶色いTシャツに茶色いズボン、帽子までが茶色で、目の細い穏和な顔をした人だった。彼女は私の家で雑務をこなす手伝いとして、私が生まれてから小学四年生に上がる迄の九年間を勤めていた。馬鹿がつくほどの真面目な性質で、物心つくかつかないかの私を大真面目に若社長と呼んで、客人でも饗すような態度で接する人だった。生来の癇性で、詰まらないことにすぐ傷ついては腹を立てる性分だった私は両親祖母の如何にも子供染みた扱いにどうしても我慢がならず、そういった時、彼女の折り目正しい礼儀だけがささくれだった私の自尊心を慰めてくれるのであった。
その後、彼女が仕事を辞めた後も私達は道ですれ違う度一言二言と会話を重ねた。やはり彼女は私を若社長と呼んで、昔の通りの丁寧な物腰で迎えてくれた。一方で私はと言えば、その頃はもう小学校も六年生になっていて流石に昔のようにかち喚くこともなくなっていたが、代わりにそれを抑えこむことを覚えたので、始終じりじりと苛立っては腹の中で悪態ばかりをついていた。そのような腹蔵はやはり相手にも何となく伝わるものらしく、私は同級の生徒からは疎まれ、遠巻きにされていた。
 ある日、学期末のテストで酷い点を取った私は、教室の隅の自席で返ってきたテスト用紙をじっと見つめていた。一方、クラスの、特に元気のいい男子生徒たちは口々に相手の点数を叫びあっては大笑いをしていた。その一団は教室の席をぐるっと時計回りに、段々と私の方へと近づいてくるようだった。私は一瞬迷ったが、普段付き合いのない彼らが話しかけてくることもないだろうと、念のため紙を机の中にいれて、併し、どこか期待をして待っていた。やがて、一団はこちらの席の近くへとやってきたが、私へと声をかけるものは誰もいなかった。私は少しほっとして、彼らは次にどこに行くのかと、首で行く後を追った。それがまずかった。一団の中の武田君と目が合ってしまった。
「おまえ、何点取ったんだ」
と、よく通る声で訊かれた。教室の耳目が一斉に私へ集まったような気がした。私は頭のなかで必死に誤魔化す方法を考えた。が、上手いことは思いつかなかった。いっその事、見せたくないの一点張りで押し通してしまおうかと、ちらと思った。目の前には、話しかけても反応を返さない私へ怪訝な視線を寄越す武田くんがいる。黙りこくるうち、顔が火のように熱くなるのを感じた。そうして、私は机の中の紙を渡してしまった。先ほど感じた期待が、未だ頭の片隅にこびりついていたのであった。
「藤田は四十二点だッ」
と群のなかで声が上がった。それだけで私の視界は明滅して、顔はいよいよ熱くなっていった。彼らは新たに得た笑い声の燃料を盛大に燃やしながら、次の机へと移動していく。そして、そこでもまた盛大に笑い声を上げるのであった。
 頭の中が茹だるように熱かった。段々と、教室全体のざわめきが私の点数を嗤っているように聞こえ始めた。見ると、私の紙は武田君の手の中でひらひらと舞っている。返してもらわねばと、足に力を込めて席を立ったが、あの声の圧力の前に立つとどうしても声が出なくなった。次々に沸く歓声のなか、私は身体中から脂汗を流しながら、じっと武田くんを見つめていた。
 結局、紙は放課後になっても返ってこなかった。その日以来、私は部屋に篭り切るようになった。

山本真衣

 私の部屋は八畳一間の和室です。畳敷きで、西と南に向いた窓には障子があり、また東の物置にはふすまが立ててあります。ふすまの奥に布団や季節でない衣類、それからこまごまとした雑貨を仕舞い込み、夜はそこから布団を敷き朝は布団をたたみ上げて出かけます。万年床にすると怒られてしまうためです。
 机は西側に面した壁の隅に置かれていて、小学生の頃からずっと同じ学習デスクを使っています。カッターマットを敷かずによくナイフを滑らせていたので、細い線のような傷が無数に走っています。机の右半分には大きめのラップトップコンピュータがケーブルに繋がれていつも置かれていますが、少し気を抜くとその上に書類やら本やらが積みあがってしまいます。
 壁際のあまり大きくない本棚の半分以上を私のものではないCDが占拠しているのが目下の私の悩みで、頻繁に本の置き場が足りなくなって困っています。そのため大事な本は本棚に納めますが、漫画本は百円ショップで買ってきた収納ケースに入れて積み上げています。壁際にびっちりと、収納ケースを十いくつ連ねて収納ともいえない状態ですがなんとか保管しています。
 机周りは定期的に掃除するもののすぐに汚くなってしまうので、月に一度整理をするように心がけています。主に積みあがった書類や棚に適当にねじ込んでしまった雑貨などの処分をして、半年に一回リットルゴミ袋一つ分のゴミが出て、終わる頃にはぐったりしてもうやりたくないと思うのですがなぜか半年後には同じ状態になっています。そんなにものを買っている覚えもないのに、どうしてそんなことになってしまうのかが不思議でたまりません。多分小人がものを増やしているのでしょう。
 明かりは蛍光灯と机上の卓上ライトの二つで、机に向かって昼からこもっている日などは卓上ライトしか点いていない状態で夜を迎えることもしばしばです。家にいる間、大半はこうして机に向かってなにがしかのことを(勉学というよりは、もっぱら趣味に費やす時間の方が多いのですが)やっていて、腰が痛くなってきたり肩が凝ってきたり、眠くなってくるとそのまま椅子から降りて床に寝そべってごろごろしてしまいます。掛け布一枚あればごろごろ出来るのが個人的には畳最大の利点であると私は常々考えています。ですが、あまり畳で長時間寝てしまうと、目が覚めた後理不尽な節々の痛みに悩まされることになるのでもろ刃の剣でもあります。
 部屋の入口付近には可動式のハンガーラックともう一つ背の高めの本棚が置いてあって、ハンガーラックには今までずっと制服を掛けていました。それが今年の春で見納めになって、今でもまだ少しさみしさが抜け切れていません。今はかけっぱなしの通学用のダッフルコートの他に、スプリングコートや大学通学用にそろえた服などを無造作にかけています。ここは、そろそろ整理が必要な頃合いかもしれません。
 先ほど触れた本棚には長いことVHSビデオが下二段分に押し込められていました。両親が撮りためていたらしいファミリービデオと、それから私が幼い頃に好きだったビデオが数本。リージョン・コードがないためにアメリカ版の「Winnie The Pooh」も、ジブリの「となりのトトロ」「千と千尋の神隠し」などの間に紛れて残っていました。プーさんも、トトロも、当時テープが擦り切れそうになるまで見たので今まともに再生出来るかどうかは正直なところ定かではありません。進学にあたってそれらも納戸に移行させ、その場所には今、シラバスなどを納めています。これからまだたくさんの教科書や参考書、関連書籍を買うことになると思うので、そこにどれだけ詰め切れるかが少し心配です。
 そして、今まで触れていなかった北側の壁には洋服箪笥が壁に埋め込まれて置いてあります。箪笥は三列で引き出しが二段二段六段の十段分用意してあって、後は和式の収納戸棚やクローゼット、物置になっています。場所が広くとってあるので私だけでなく母と妹の分の衣服もここに収納されています。
 こんな塩梅で、雑然としつつも足の踏み場を五畳ほどなんとか確保しているのが現在の私の部屋の状態です。欲を言えばもっと趣味のものを置く場所が欲しいのですが、そこらへんは折り合いがつかなくて四苦八苦です。部屋は油断すると本当にあっという間に汚くなってしまって後々後悔するので二日に一回は掃除機をかけるのですが、それでもやはり常に汚いのが理解に苦しむ所です。
 それでも黒光りするGのつくあの虫だけは出たことがありません。夏は暑く冬は寒い私の部屋ですが、それだけは今後も貫いていけるように、なるべく飲食禁止で暮していくようにしています。

川上真紀

 私は、千葉県から東京都へ引っ越してきてから日が浅いため、まだ自分の部屋に入れる小物などを整理している段階である。そのため、おおまかに配置されている家具を中心に説明していきたい。
 まず、部屋に入るとすぐ左手に本棚がある。本棚には、主にアルバムや文庫本、漫画等を入れているが、本棚だけでは入りきらないため、余った文庫本等は市販のプラスチックケースに入れてクローゼットにしまっている。しかし、これから更に本を増やす予定なので、これから買う予定の本をどこにしまうか検討している。私は、なるべく本を日焼けさせたくないので、本棚に突っ張り棒をつけてそこから布を垂らすという方法で保管している。そうする事で、埃よけや目隠しの役割も持つ。
 部屋の入り口の前方にはタンスとベッドがある。私は、普段はリビングで過ごしているので、自分の部屋に行くのは寝るときか、考え事をしたい時などだ。中学生くらいで初めて自分の部屋が出来た頃は、一日中部屋に籠っていたりもしたが、しだいに部屋から離れ、今ではリビングで生活している。しかし、一人で考え事をしたい時には大抵自分の部屋に行く。リビングでは家族との談話であまり考え事が出来ないからだ。考え事と言っても、深刻なものではなく、一日の出来事の振り返りであったり、明日の予定の確認だったりと小さなものだ。ただ、座っているだけではつまらないので、休みの日にはたまに自室で音楽を流している。
 ベッドのすぐ左には机とイスがある。机の上には小物類が、イス付近には引っ越してからまだ整理中の段ボールが散乱している。机の中には、持ってきた文房具や、メモ帳を入れている。以前、机の中に物を入れ過ぎて、中に入っていた物がつぶれて壊れてしまったことがあるので、それ以来、机の中にはあまり物を入れないように気を付けている。
部屋の一番奥にはクローゼットがある。クローゼットの左側には、洋服やカバンを入れている。右側には今の所、ポーチやタンスに入りきらなかった洋服を入れているが、まだスペースがあるので、他の場所に入らなかった小物も入れたいと考えている。
 これが、大まかだが私の部屋の説明だ。全体的にやや乱雑としているので、休みの日にでも一度片づけたいと思っている。前述した通り、私は普段リビングで過ごしているので、寝る時間を除くと、自分の部屋にいる時間はほとんど無い。気に入っている小物は全部自分の部屋に置いてあるが、リビングに居たほうが落ち着くからだ。しかし、引っ越しという転機を通じて、自分の部屋の意味について考えるようになった。今まで私にとって自分の部屋とは自分の物を置き、夜に就寝するだけのただの場所に過ぎなかった。これから先、暇な時間をリビングで過ごすのか、自分の部屋で過ごすようになるのかはまだわからないが、自分の部屋と言うものがある以上、それを最大限に生かせるようにしたい。そのためにも自分の部屋が持つ意味を考えていきたいと思っている。私は、自分の部屋が物理的な休息の場所ではなく、心理的な意味で休息の場所になり得ればいいと考えている。公園のベンチや近くの喫茶店等、ただの休息の場所というのはいくつもある。しかし、これらは私にとって心理的な意味で休息の場所になり得ない。公園のベンチにいても、喫茶店にいても、何か気になる事があり、安らぎを得られないのだ。私は、心から安らげる場所は、自分の部屋だと考えている。自分の部屋では、何も飾る必要が無く、ありのままの自分でいる事ができるからだ。また、日常生活でのストレスを感じる事も無く、静かに過ごす事ができる。        
 こうした事から、私は自分の部屋が私にとって、一番安らげる場所だと考えている。部屋は人によってだいぶ印象が変わるというように、部屋一つ一つにも使っている人の個性が表れている。私が自分の部屋を安らげる場所だと思うのも、実際に使用している私の個性が無意識のうちに出ているからなのかもしれない。しかし、現在の自分の部屋の乱雑具合を見ると、とても安らげる場所とはいえない事も事実だ。私にとっては安らげる場所だが、他人に見せられるくらいの部屋でありたいと考えている。
 そのため、これからは少しずつ部屋の整理をしていこうと考えている。そして、日々、生活できるような状態にして、今まで以上に自分に合った安らげる場所にしていきたいと考えている。

加藤芙奈

私には“自分の部屋”というものがない。
 何故なら、もはやワンルーム状態の部屋に母と二人で暮らしているからだ。
 我が家。築半世紀以上、あと七年もすればいい加減取り壊されるであろう団地。家賃はそれなりに安い。我が家は角部屋なのでさらに安い。しかし、壁天井は薄い。
 昔は襖で仕切られていて、1LDKというやつだったのだが、両親の意向で幼いころに消えた。以来、我が家はワンルーム状態である。
つまり、プライベートなどあってないようなものなのだ。
 しかし、部屋はなくとも居場所はある。定位置というやつだ。そして、定位置にはマーキングが施してある。
「ここは私の場所だ! 入るな! 入るなああぁぁぁ!」
 という主張である。母親には散らかしているようにしか見えないらしい。
 確かに見た目は悪いかもしれない。だが、今のマーキングこそが最も私の定位置を主張できるスタイルなのだ。
 私の定位置。それはリビングのソファである。テレビのロケーション、電気の確保、テーブルとの距離感、冷暖房の当たり具合、その他福利厚生――クッションなどを指す――
など、どの条件から見ても最適な環境がソファである。
 しかし、それゆえにソファは常に狙われている。気まぐれにマーキングを解除すれば、すぐさま母親に占領されてしまうのだ。
 だから私はマーキングをする。母親から見てそれがただの無精者だとしても余り気にしない。
 だが、本気で怒らせてしまうと後々厄介なのでたまに掃除する。たまに、ごく稀に、気が向いたら。少しの間だけきれいにしておく。またすぐに元に戻してしまうのだが。
 私は物を置いておくことによって、定位置である主張をしている。しかし、ただ適当に物を置くのではない。“そこにあったら便利な物”を選んでいるのだ。機能的だと思う。母親はズボラだと言う。
 まず、ソファの左端にはクッションが積まれ、特にお気に入りである高校時代に手作りした長方形のクッションがその頂上に鎮座している。
 クッションの山の麓には数冊のマンガ本、小説、ゲームソフトなどが生息。たまに雪崩を起こす。
 右端は小説執筆中の台座――法政大学の案内――、ルーズリーフ、ネタ帳などの執筆アイテムや、漫画――左端からの移民――、ゲーム機などが前線に立っている。
 そして、私は左右を守られた中央に座るのである。実に快適な定位置だ。執筆からその息抜きまで、動かずに出来る。
 しかし、つい先日に母親から片付けを申し渡された。声が怖かった。多分、ちょっとやりすぎていた。後悔をして、反省はしないでおいた。
 とにかく、そのままにして雷を落とされるのは御免なので片付けをした。兵役を終えた彼らを定位置に戻し、一時的にだがソファの使用可能面積が増えた。
 だが、それは一時のことだ。むしろ、この「片付け申し渡し」は一種の転換期である。
 これを機に私は漫画を入れ替え、ゲームソフトの所在確認をし、定位置の満足度を格段に上昇させた。常に自分に合った環境こそが最も居心地がいいものだ。
 そんなことを思いながら、私は窓の外を見る。ソファの目の前はベランダの窓だ。九階の我が家からは良い景色が見える。青空も、夕焼けも。月も雪も。泳ぐ空は常に表情を変える。それが私は好きだ。だから、この定位置が好きだ。
 富士山も見える。小金井公園の桜も見える。西武園遊園地の花火も見える。人の行き交いなんかもよく見える。良い風が吹く。鳥が飛ぶ。
 季節によって微妙に姿を変える景色は面白い。
 さて、話は「自分の部屋」という当初の話題に戻る。一番初めに「そんなものはない」と言ってしまっているが、とりあえず戻そう。
 私に部屋はない。
しかし、あえて言うのなら母親からお小言もいただきながら、時には自業自得の雪崩や失せ物をしているこの場所。この抜群の景色を眺めながら紅茶を飲める快適空間こそが私の部屋である。

河内智美

私の部屋で感じる思い出の多くは、くまのぬいぐるみと楽器や楽譜でできています。私の部屋にはいくつかのくまのぬいぐるみと楽器、多くの楽譜があり、部屋を見渡したり片付けたりするとそれぞれの思い出が浮かんできます。
 私は小さい頃から人の形をした人形より、ふわふわした動物のぬいぐるみが大好きでした。自分で覚えている限り、最初にくまのぬいぐるみを買ってもらったのは4歳くらいの頃地元の小学校でフリーマーケットをやっていた時だったように思います。そのぬいぐるみは大きなもので、今見ると大きいと言っても私の身長の半分程度ですが、当時の私には巨大に見え実際自分の体より大きかったです。買ってもらった後、私はどうしても自分で持って帰りたくてそのくまを背中に担いで歩き出したのですが、なにしろ自分より大きなぬいぐるみだったため後ろから見るとぬいぐるみが自分で歩いているようにしか見えなかったらしいです。結局その時はそのぬいぐるみを買ってくれた祖母に持って帰って もらいました。そのぬいぐるみは少々ボロボロになりながら今でも私の部屋に置いてあります。
 私が中学校の時修学旅行で、吹奏楽部の後輩たちとおそろいで買ってきたものも小さなくまのぬいぐるみのストラップでした。それは最近紐が切れてしまったのですが、中高の部活でずっと楽器ケースにつけていました。だからそのストラップを見ると、後輩のことや部活のことを思い出します。
 私の通っていた高校では、全員必修で1か月間のイギリス研修に行くことになっていたため、私も高校1年の時に行ったのですが、そこでも自分へのお土産に友達と色違いでテディベアを買いました。まだ友人関係もイマイチしっかりしていない高校1年の秋だったため、クラスのほぼ全員が人間関係のごたごたに巻き込まれ、色々と大変だったのを覚えています。特にその色違いのくまを買った子とは日本に帰ってきても何回も喧嘩したり仲直りしたりの繰り返しで、でも一番お互いのことを話した友達だったため、そのテディベアはイギリス研修の思い出よりもその友達のことを思い出させます。
 私の部屋には、楽器が3つあります。1つは電子ピアノで2つはフルートです。電子ピアノと古い方のフルートは母の妹からもらったもので、新しい方のフルートは高校1年のコンクール前に母に買ってもらったものです。私は音楽が好きで、小学校では合唱部、中高では吹奏楽部に入っていました。小学校の4年の後半から高校3年に入るくらいまでピアノも習っていました。ピアノはあまり真面目に練習していなかったためほとんど何も弾けないのですが、私が習っていたピアノの先生は発表会や普段の練習でピアノだけでなく色々なことをやる先生だったので、ハンドベルトーンチャイム、ちょっとした合奏など、様々なことが出来て楽しかったです。色々なことをやったので部活動を含めて歌、フルート、ピアノ、琴など様々な種類の楽譜が私の部屋にはあります。片付けの時に楽譜はなかなか捨てる気になれず、もう一生演奏する機会がないかもしれないと思いつつ、思い出としてまだ結構部屋に残っています。
 中学の時に使っていた古い方のもらったフルートは、今はもう壊れて吹けなくなってしまっていて音も出ないのですが、私が中学の時はまだ使えてそれで中学の部活は練習も本番も出ていたため、それもなんとなく捨てられずに部屋に置いたままになっています。
 もう1つの新しい方のフルートは、古い方のフルートがあまり良い音もしないし壊れかけていたため高校に入ってから買ってもらったものです。そのフルートで毎日部活に行って練習し、コンクールや演奏会でソロを吹いたり、受験の直前のコンクールにも少々無理をしつつ出たりして1番部活を頑張っていた時期に使っていたためそれだけ愛着も深く、思い出がたくさんある楽器です。今もまだ習い事としてフルートは続けていて、これからも楽器を大事にして続けていきたいと思っています。
 ここまでいくつか紹介してきたとおり、私の部屋にあるぬいぐるみや楽器達はそれぞれにたくさんの思い出が詰まっています。このくまのぬいぐるみや楽器や楽譜を部屋から全てどけてしまったら、部屋の中が何となく寂しくなってしまうかもしれません。これからもし引越しして部屋が変わったとしても、このぬいぐるみや楽器達はきっとほとんどは持っていくと思います。私にとっては、昔から使っている部屋自体や家具よりよほどこれらのぬいぐるみや楽器達の方が愛着深いです。これからもこれらのものを大事にしていきたいです。

藤賀 怜子

現在私は両親と実家で暮らしている。この家に越してきたのはもう十六年も前のことだ。当時二歳だった私でもその日のことは覚えている。夏の日差しが照りつける暑い日だった。一人っ子である私は遊び相手も居らず、暇を持て余していた。しかし偶然近所に住む同世代の子らが水遊びをしていた為混ぜてもらった。その横では両親と引っ越し業者の人が汗を流しながらたくさんの段ボール箱を運んでいた。
引っ越しの終わったその日から、六畳の一室は私の部屋になった。自分の部屋ができたと言ってもまだ二歳、寝る時は親と一緒に寝るため寝具の類はなく、あるのは玩具やぬいぐるみ、絵本、その程度だ。その後だんだんと年を重ね確実に物が増えていくわけだが、なかでも玩具はクローゼットに入りきらなくなってしまった。遊ばなくなった玩具は親戚だったり近所の子だったりと譲ることもあるが、それでもまだ多い。いっそのこと捨ててしまえばいいと母には何度も言われるが、私自身に捨てる気はさらさらない。玩具ひとつひとつに思い出があり、捨てるには忍びないのだ。とはいえもらってくれる人もいないため、そのまま部屋に置いたままにしている。次に場所をとっているのが書籍だ。書籍といってもその半分以上は漫画であり、残りは小説だったり図鑑だったり雑誌だったりと様々である。一応本棚が二つ、大きめの本用にカラーボックスが一つあるが、当然入り切らない。本でももう読まないと判断したものはやはり譲ったりしたものの、新刊が毎月のように発売されるこの世の中、減らすスピードを大きく上回るペースで増えていく。問題はその入りきらない書籍をどうするかである。最近は紙袋に漫画類を分けて床に放置しているが、その紙袋も今や五つになってしまいそろそろ置く場所もなくなってきた。新しく本棚を買い収納しようと考えているものの、気に入ったものがなかなか見付からないため計画は頓挫している。
ここまでの文章から読み取れると思うが、私は物が捨てられない性格である。よってずるずると現状維持を続け今に至っている。大規模な模様替えなんてしたことがないし、そもそもしようという気にならない。決して物を減らしたい気がないわけではない。むしろ物が増えすぎた今の部屋をそのままにしておくわけにはいかないと思っている。心の奥ではいつか模様替えだってしたい。しかし実行に移せないのだ。そんな私だがかつて中学校を卒業した頃に一度、模様替えを試みたことがある。もうすぐ高校生、気持ちも新たに部屋の雰囲気を一新しようと新しいカーテンを購入した。そして春休みに入りカーテンを換えようと思った矢先、風邪にかかってしまった。治すために長時間安静にしていなければならない。そのため春休みの大半を消費し、模様替えを実行することは叶わなかった。高校に入学してからは勉強に部活動に生徒会活動、とにかく忙しく模様替えどころか部屋の片付けすらままならなかった。そのまま受験期に突入し、受験が終わってからも模様替えは行わなかった。高校時代の教科書類を処分しただけで他は何もしなかった。満足してしまったのだ。
今思うともう少し真面目に片付けをしておけばよかったと後悔している。大学に入学し、自分の時間が持てると思っていた。しかし先輩方に話を聞く限り、課題があったり通学時間が想像以上にかかったりと部屋の模様替えを行えるようなまとまった時間を確保するのは難しいと思うようになった。このまま片付けずに大学を卒業し社会人になるのか。社会人になったら今以上に自分の自由な時間はなくなってしまうのではないか。そう考えると大学生でいられる今しかない。母はこのままでは家に人をよべないと言う。私自身はそれほど酷くないと思うが片付ける必要性は薄々感じている。これまでずっと模様替え、そして部屋の片付けからも逃げてきた。そろそろ向き合う頃だろう。さしずめ次の夏休みにカーテンだけでも換えたいと思う。