「のびたの物語」・木元なつみ

「のびたの物語」

木元なつみ

 月に一度はドラえもんの漫画の会計作業をしている。大学二年生の秋からジュンク堂書店池袋本店一階レジで働いている。地下一階から九階まである大型書店だけあって、毎日山のように人が出入りして本を買っていく。込んでいるときのレジ業務は本屋とは思いがたい忙しさだ。藤子不二雄全集を定期購読しているお客様はたくさんいて、ドラえもんのコミックは子供はもちろん、大人も思い出したように買っていく。(来月はジュンク堂で開催されるサイン会に藤子不二雄がやってくる!)
 今まで私にとって「ドラえもん」は〈ドラえもん〉が全てだった。タイムマシーンに乗って未来からやってきた猫型ロボットで、弱虫でどうしようもないのび太を愉快な道具で救ってくれる。幼いことの私は(いや、今でも)何を疑うこともなくそれを受け入れていた。何故未来からきたのか、何故のび太なのか、この物語のメッセージは何なのか、この二十一年間考えたことはなかった。現実世界では考えられないこのストーリーは、ごく自然に私の中に、世の人々の中に浸透している。
 「世界文学の中の『ドラえもん』」を読んで、「ドラえもん」の主人公は〈のび太〉なのだということを改めて認識させられた。主人公は何らかの魅力を持っているものだという観念を持っていた。勉強が出来ずとも抜群にスポーツが出来たり、頭脳明晰であったり、あるいは何らかの特殊な能力を持っていたり(持つようになったり)する。それは主人公自身が持つ特徴であり、私たちはそんな主人公に憧れという好感を持って漫画を読み進める(少なくとも私はそうだ)。ところがのび太はというと、憧れるという部分がこれひとつとしてない。それでも彼は「ドラえもん」の主人公なのだ。
 そんなのび太が人々から得る気持ちは同情だ。人間ひとつはコンプレックスがあるはずだ。私も何をしても上手くいかないことが度々ある(のび太と体張るくらいについてないこともしばしば……)。しかし、大学に入るくらいの学力はあるし、就職活動では無事内定も貰えた。スポーツは出来ずとも絵を描いたり楽器を弾いたりすることは出来る。ところが、のび太は勉強もスポーツもできない。異性から黄色い声を浴びるような持っておらず、芸能にも長けてない。読者の誰かが不得意とするものは勿論のび太も不得意だ。のび太は何かがダメな読者から何かしらの共感と同情を得る。
 そこでのび太を救うため(正しくは子孫のセワシを救うため?)現れるのがドラえもんだ。述べられているように、のび太の「こうであればいいのに……!(理想像)」が〈ドラえもん〉となって現れたとするなら、〈ドラえもん〉はのび太に自分を重ねる私たちにとっても理想像だ。この〈ドラえもん〉の魅力に目がいきがちでその名「ドラえもん」の通り〈ドラえもん〉が主役のような錯覚にさえ陥ってしまう。
 「ドラえもん」は、のび太の人生の中で繰り広げられている。のび太は本当は植物人間だ、夢オチだ、など色んな説が浮上しているが、のび太の精神が狂っていようが死んでいようが妄想だろうが、のび太の人生の中に入って(漫画を読んで)いる私たちにはわかりようのないことである。そもそもこれは漫画なのだ(と言ってしまえば全て片付けられてしまうが……)。しかし、どの説も妙に説得力がある。この漫画は現実離れした話であり、ギャグ漫画であるが故に屁理屈も読者のツッコミで片付けられる(何故だか漫画の中ではツッコミが欲しいところにツッコミがない)。現実に引っぱりだしてきて理論付けて批評すれば、結論として「のび太がイかれてる説」に辿り着くのは最もだ。
 なんにしろ私たち読者はドラえもんがやって来る前ののび太の日常生活、人生を知らないのだ。。母や父の反応、完全にいじめの対象となるであろうのび太への友人の対応はのび太にとって都合が良すぎる。しかし、ドラえもんがやって来るのと同時にのび太が死と復活を遂げているのであれば納得いく。「ドラえもん」は復活したのび太の都合の良いように出来た新しいストーリーとなる。果たして作者は何を思ってドラえもんを書いたのか、このような説が飛び交うことを想定していたのだろうか。
 私はこれまで漫画の評論を真剣に読んだことがなかった。だから「世界文学の中の『ドラえもん』」を読んで驚いた。ああ、そういう漫画の見方、考え方もあるのか、と思わずドラえもん第一巻を購入し読んだ(初見)。作家がどんな作品を書くのかはもちろん自由だろうが、その評論もここまで自由な発想と検証が可能なのかと思った。清水先生が授業で「作家を感動させる評論を書かなければならない」と仰っていることを納得することが出来た。作品を純粋に楽しむ上ではきっと必要のないことだろうが、漫画の見方をちょっと変えるだけでこんなに面白くなるのかと思った。これからは受動的に読むだけではなく自分なりに何らかの考えをもって漫画を読んでみることもしたい。