0と∞とドラえもん・外林春佳

 『世界文学の中のドラえもん (D文学研究会)

全国の大型書店に並んでいます。
池袋のジュンク堂書店地下一階マンガコーナーには平積みされています ので是非ごらんになってください。この店だけですでに二十冊以上売れています。まさかベストセラーになることはないと思いますが、この売れ行きはひとえにマンガコーナーの担当者飯沢耕さんのおかげです。ドラえもんコーナーの目立つ所に平積みされているので、購買欲をそそるのでしょう。
我孫子は北口のエスパ内三階の書店「ブックエース」のサブカルチャーコーナーに置いてあります。


四六判並製160頁 定価1200円+税

清水正への原稿・講演依頼は  qqh576zd@salsa.ocn.ne.jp 宛にお申込みください。ドストエフスキー宮沢賢治宮崎駿今村昌平林芙美子つげ義春日野日出志などについての講演を引き受けます。
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   グッドプロフェッサー

京都造形芸術大学での特別講座が紹介されていますので、是非ご覧ください。
『ドラえもん』の凄さがわかります。
http://www.youtube.com/watch?v=1GaA-9vEkPg&feature=plcp
http://www.youtube.com/user/kyotozoukei?feature=watch

0と∞とドラえもん

外林春佳

「ロシア文芸史」の授業後 
のび太は死んでいて、またすぐに生き返っている。のび太が居る、現実ではない時空をユートピア時空と言う。
先生は御本でこのようなことを言っていた。このアイディアは一般的に見れば突拍子もない物なのだろうか。私にはその先生の発想が、凝り固まっていた頭を一瞬にして解かす王水のように思えた。
私は、ドラえもんが好きだ。それは一般読者として、ドラえもんの秘密道具に詳しいとか、映画のタイトルを全て覚えているとか、その程度の「好き」であったのだが、そんな生半可な「ドラえもんファン」の私にも、ずっと疑問に思ってきたことはあった。
〈なぜドラえもんはのび太の側にしか現れなかったのだろう?〉
〈なぜあの世界の人々は、ドラえもんを日常として受け入れることができるのだろう?〉
私の頭に長年浮かんでいた疑問はこの二つだ。自分としてもいろいろと考えてみた。漫画だから、と諦めに近いメタ視点を適応してみたり、やっぱりあの世界は植物状態ののび太が見ている夢の世界だから、と都市伝説を無暗に当てはめてみたりしたが、やはりしっくりは来なかった。もっと美しく、すっぱりと、このSukoshiFushigiな世界を貫いている真実のようなものがあるような気が、ずっとしていた。
間違ったまま煮詰まって、思考の鍋にこびり付いた劣化して炭化したアイディアに、突如上空からとんでもない洗浄力の洗剤が降ってきた!
それが先生のアイディアなのである。
ここから先は、先生の御本の感想文という形を取りながらも、私の考えてみたドラえもんの世界についても書かせていただこうと思う。
まず、先生のアイディアを少し頂戴して、私がこっそりと考えたアイディアを示したい。これは先生の掌の上のアイディアかもしれないし、全然見当はずれかもしれない。
そもそものび太はギリギリの状態でこの世に在ったのだけれど、ふとしたはずみに境界の上に乗ってしまう。踏み越えて向こう側に行くのでもない、けれどこちら側にはもう両足とも無い。限りなく0に近い幅しか持たない時空の狭間であっても、そこに落ち着いたのび太にとっては、限りなく∞に近い新世界なのであろう。だからこそ彼は、そこで安寧の世界を満喫できるのだ。
精神は、どんな時間にも空間にも縛られない。すべての物を内包する。その精神は神とも呼べる。私はそんなスピノザ的考えをのび太の振る舞いに見る。
だから、ユートピア時空にのび太が居て、なおかつ現実世界ののび太も存在するというちょっと不思議な状況もあり得るように思う。いわゆる「現実世界」ののび太はこのドラえもんという作品には登場しないけれど、この作品に描かれているすべての事柄が、現実世界で(もしかしたらすでに息を引き取っている)のび太の、臨終の際のほんの一瞬の出来事でない証拠はどこにもない。第一巻、一ページ一コマ目でのび太が実際に死ぬことがなかったのは(少なくとも私たちの目にはそう映ることがなかったのは)彼が無意識のうちに一瞬の時間を永遠まで引き伸ばし、その狭間にユートピア時空を構築したからに他ならないのではないか。
そして、先生のアイディアをお借りすれば、先に私が示した
〈なぜドラえもんはのび太の側にしか現れなかったのだろう?〉
〈なぜあの世界の人々は、ドラえもんを日常として受け入れることができるのだろう?〉
この二つの質問にも、実にすっきり答えることができる。
〈なぜならドラえもんはユートピア時空におけるのび太の分身だから。〉
だ。非常にすっきりした、完全で簡潔で洗練された答えになった。
 のび太の精神は、このユートピア時空の中ではほぼ神にも等しい存在である。もちろん、彼の妄想だという意味ではない。彼は現実世界に在る肉体を束の間忘れてしまい、精神体としてふるまうことを覚えてしまったのだから、その精神は世界中すべての精神とつながっていることを如実に実感し、また、世界と一つになった、すなわち神になったと言える。
 その証拠に、ドラえもんの世界では度々のび太にとって不利益なことが起きる。テストで0点を取ったり、ドラえもんの秘密道具の使い方を間違えて大事になったり、ジャイアンにいじめられたり、スネ夫に意地悪をされたり……一つ一つ数え上げればキリがない。
 しかし、その後救われなかったことは一度もない。親に怒られた後も家庭内不和になる事はなく、秘密道具で致命傷を負うこともない。ジャイアンもスネ夫も、本当のピンチの時には必ずのび太を救ってくれ、見捨てられる事はない。
 これは、世界がまるまる一つの精神集合体として、健全に機能している証拠であるように見える。個人に当てはめればすぐに解ることであろう。たとえば、私は私の鼻が低いのを気にして、ちょっと指先で摘まんでみたりする。足が太いのを気にして、少し負荷の高い運動をし筋肉痛になったりする。しかし、鼻が気に食わないからといってそぎ落としはしない。足が太いからといって、大腿部を切断するつもりもない。
 このように、全てがのび太の一部で、のび太がすべての一部となったユートピア時空では、ドラえもんは「そこに存在して当然」の存在なのである。何せ、彼はのび太の鏡写しの存在で、のび太を救ってくれる唯一ののび太なのだから。人は自分を成長させる能力や、自分を制する能力を知らず知らずのうちに皆持っている。外からの圧力によって、どうせ自分には無理なのだ、と思っているのび太の、隠された、そんな「ドラえもん的部分」が、たまたま別の格好をして現れて、「ぼくドラえもん」と言ったに過ぎないのだ。
 私がドラえもんに出会ってから、およそ二十年の時間が過ぎた。
 その間中、ずっと心の隅に転がっていた開かない瓶の蓋を、先生のアイディアがするりと開けてくれた。私は、この本に、そんな魔法めいたものを感じる。
 その瓶の中身はまた新しい「ドラえもん」との遭遇のために私に残された、新鮮なアイディアの塊であろうと思う。