「世界文学の中の『ドラえもん』」第二部(連載6)

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「世界文学の中の『ドラえもん』」第二部(連載6)
アポロンの地獄』論からの出立

清水正
el  青年となったオイディプスは円盤競技で不正を働き、怒った若者が「お前は捨て子だ。運命の女神の子だ。両親ともいないんだ」と言い放つ。オイディプスは〈不吉な夢〉の中で〈神々のお告げ〉を聞くが、それをはっきりと思い出すことができない。オイディプスアポロンの神のところへ巡礼に行くことを決め、父ポリュボスと母メロペの許可を得て、翌日の早朝ひとりコリントス市を旅立つ。オイディプスは皮袋を背負い、青銅の刀を胸に下げ、つばの広い大きな皮の帽子を被って庇の大きな帽子をかぶり、大股で歩き出す。目指すはデルポイの神殿である。
 オイディプスが〈神〉のお告げを聞く場面をシナリオで見ておこう。

  順番が来て進み出たオイディプス、膝をついて仰ぎ見ると、一団の中央には人間の形と顔を彫った冠のような面を被った大女の巫女が唇だけを見せて立っている。巫女が手を叩くと後ろの神官が大きな碗をいくつか用意する。その場に座って、物凄い量の食物を前に、手掴みで先ず米飯を食べ始める。
  何も理解できないように驚いてその様子を見ていたオイディプス、緊張した心から解放されて、滑稽感が顔に出てしまう。
 巫女「神託によると、お前は父親を殺し、母親と情を通じるだろう」
  オイディプス、呆気にとられてちょっと笑う。
  大食いを続ける巫女、挑むように、
 巫女「お前の運命が書き記されている。お前は父親を殺し、母と夜を共にする。神のお告げにまちがいはない。立ち去れ。この土地の人々を穢すな」
  淫猥に大笑いして身をのけぞらす大女。直截な直な巫女の言葉に、一瞬にして青春の凍結を悟ったかのように、神託を待つ人々の群へ、生命の地獄と祝祭のどよめきの中を、自動人形のように戻って行くオイディプス

 アポロンの神が直接に〈お告げ〉を下すわけではない。アポロンは巫女の口を通してオイディプスの呪われた運命を告げる。大きな口を開けて米飯を頬ばる巫女の姿は豊穣紳の化身かとも思わせるが、その大げさな身振りにはマンガチックな滑稽感もある。いずれにせよ、これでオイディプスは夢の中の〈お告げ〉をはっきりと知ることになった。彼は神の〈お告げ〉を笑い飛ばすこともできなければ、怒りを露わにすることもない。彼は父ライオスが〈お告げ〉を回避しようとしたように、ひたすら逃亡をはかる。まず彼は、足下にある"コリントス"への道標を見ると、すぐに踝を返して、一目散に駆け出す。シナリオでは「涙にぬれて歩き出す。神託から逃げること、それには歩き続けねばならない。畑も荒地も山も遠くの村も、いま自分が歩いている所は異境の地なのだ、これからずっと彷徨が続くのだ、という実感が込み上げて来る」とある。
 さて、映画を観るかぎり、オイディプスは単純な青年で、『罪と罰』のロジオンとは真逆のタイプと言っていい。いったいオイディプスには微塵の懐疑精神も宿っていなかったのであろうか。彼が足下の〈コリントス〉の道標を見て、いきなり反対の方向へと走り出したのは、コリントスの王と王妃を自分の本当の父と母と思っていたということを示している。が、オイディプスは同年齢の若者からはっきりと「お前は捨て子だ。運命の女神の子だ。両親ともいないんだ」と罵られた。オイディプスは若者を殴り倒し、酔いしれたようにバカ笑いをしてその場を去る。彼は両親に真実を問いただす前に、アポロンの神殿に巡礼し、神の〈お告げ〉を聞く途を選んでいる。
 それにしても、オイディプスは〈お告げ〉を聞いてまず確かめなければならないことは、コリントスの王と王妃が実際の両親であるのかないのかであったはずである。しかし、彼はそれを確かめる前にコリントスから逃げ出すことしか考えていない。真実を知りたいという欲求は、アポロンの神殿を訪ね、巫女から神の〈お告げ〉を聞く時点で終わっている。彼は〈お告げ〉を受けて、神に反逆することもないし、呪われた運命を受け入れることもできず、ただひたすら逃げる。
 運命を変えることはできない。だからこその運命であって、変更可能な運命は運命とは言えない。映画のカメラはそれを冷酷に告知している。

 ○三叉路にさしかかる
   オイディプス、目を両手で覆い、ぐるぐる廻って足の向いた方向の道を歩いていく。“テーバイ”への矢印のある道標が足下に立っている。

 オイディプスは何度も三叉路で偶然に身をまかせるが、結局はテーバイの道標の示す方向へと向かってしまう。偶然もまた必然であるということの恐ろしさがひしひしと伝わってくる場面である。『オイディプス王』においても映画『アポロンの地獄』においても、オイディプスが必然と偶然、運命と自由に関して思いをめぐらす場面はない。そこがロジオンと違うところで、ロジオンは犯罪に関する論文を投稿したり、〈踏み越え〉に至るまでに何度も「おれにアレができるだろうか」と考える。ある時、ロジオンはこの呪われた思いを払拭し、はてしない自由の感覚を満喫したりもするが、しかし結局はある種の神秘的でデモーニッシュな力の作用によって二人の女性を殺してしまう。ロジオンの〈踏み越え〉のドラマ、その〈老婆アリョーナ殺し〉から始まって〈リザヴェータ殺し〉、〈ソーニャへの告白〉、〈自首〉、そしてエピローグでの〈復活の曙光〉という最終的な〈踏み越え〉に至る全過程がまるごとあらかじめ決定されていたということである。ロジオンにおける〈自由〉もまた〈必然〉であったということ、そのことを『罪と罰』一篇は見事に描き尽くしている。
 パゾリーニもまた、呪われた運命から逃れようと偶然に賭けるオイディプスの、逃れることのできない必然を〈テーバイの道標〉一つで端的に描き出している。この石標は三叉路で目を瞑ってぐるぐる廻るオイディプスをあざ笑っているようにすら見える。
 ついにオイディプスはライオス王と出くわしてしまう。その場面をシナリオで見ておこう。

 ○四度、三叉路にさしかかる
  オイディプス、小枝を顔にかざして、目を閉じて廻ろうとして、道の一方を見ると、衛兵を乗せた馬車が土埃を立てて走ってくる。道を空けようとしないオイディプスに近づいて、馬車は速度を落す。馭者はキタイロンの山にオイディプスを捨てた羊飼いである。中に座っていた高貴だが頑固そうな風貌の老人ライオス王がどなり散らす。
 ライオス「退け! 退け、乞食め!」
  オイディプスに怒りが込上げてくる。
 ライオス「行け! 行け! 道を空けろ! 馬鹿もの!」
  目まで隠れた兜を被った衛兵四人が馬車から降りて、一人が前に出る。オイディプス、大きな石をその衛兵の膝にぶっつけて、叫びながら逃げだす。あとの三人は追いかけさせてばせばらにし、一人づつ刀で打ち、首を絞め、刺し殺していく。
  オイディプスが馬車の所に戻って来ると、ライオス王、高い金の王冠を破る。それを見て、オイディプス、ゲラゲラ笑い出す。片方の足を傷つけられた衛兵がオイディプスに向って来ようとするが、もう一方の膝にも石をぶっつけられて倒れる。
  馭社、怯えて逃げ出し、近くの岩陰に隠れる。
  オイディプス、笑いながら怒りを込めて、馬車の上のライオス王の胸を何度も刺す。
  続いて馬車の前に倒れている衛兵の背中を刺し、青銅のかぶと冑を外すと、まだあどけない少年が口から血を流している。オイディプス、その冑を自分の頭に被り、ガチャガチャいわせながら、足下を見ない、“テーバイ”への道を辿る。

 この場面で際だっているのはライオスとオイディプスの傲慢な性格の一致である。王ライオスは一本道で出くわした若者に道を譲る気持ちの微塵もなく、オイディプスもまたたとえ相手が衛兵四人を同行した身分のある者とと見ても、自らの進む道を変更する気持ちなどさらさらない。両者の衝突は目に見えている。ライオスにとって旅の若者は〈乞食〉であり、自分の進むべき道を空けなければならない〈馬鹿もの〉である。
 オイディプスは、衛兵四人をいっぺんに相手にするのではなく、最初の一人の膝に大きな石を投げつけて倒し、次いでその場から離れて、追って来る一人ひとりを刺し殺す方法をとっている。コリントスで青年期を迎えるまでに戦闘の仕方なども学んでいたことを伺わせる。
 が、注目すべきはオイディプスの戦闘の仕方よりは、殺しの瞬間における太陽光線の烈しい反射である。パゾリーニオイディプスの衛兵殺しの場面をまばゆい太陽光線で覆っている。オイディプスが自らの意志によって衛兵を殺したというよりは、まさに太陽光線が衛兵の命を奪い取っているという感じである。オイディプスは太陽に呪われている。想起するのは「太陽のせい」でアラビア人を殺したムルソーである。アルベール・カミュが『異邦人』で主人公としたムルソーにおける〈太陽〉は太陽そのものと言ってもいいが、オイディプスの人殺しにまとわりつく太陽光線は明らかにその背後に〈アポロン神〉の存在がはり付いている。