「世界文学の中の『ドラえもん』」第二部(連載7)

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「世界文学の中の『ドラえもん』」第二部(連載7)
アポロンの地獄』論からの出立

清水正
さて、神アポロンオイディプスに下した〈お告げ〉について考えてみよう。神アポロンは巫女の口を通して、オイディプスにその呪われた運命を告知するが、だからと言って、アポロンがその〈運命〉を定めたとはどこにも書かれていない。オイディプスの〈運命〉に神アポロンがどこまで関与しているのか。それともアポロンといえども定められた〈運命〉を変更することはできないのか。
 ギリシャにおいては人格神としての唯一絶対の《神》が存在していたわけではない。アポロンギリシャの神々のうちの一神でしかない。格の次元で言えばゼウス神が存在する。なぜオイディプスの運命はゼウスではなくアポロンの神によって告げられたのか。アポロンのお告げが絶対性を獲得するためには、他の神々、特にゼウスの同調が必要とされる。アポロンの〈お告げ〉がゼウスによって否定ないしは変更されてしまえば、アポロンの威信はたちまち失墜してしまう。否、ひとりアポロンの威信ばかりではなく、ギリシャの神々の威信が根底から崩れさることになる。従ってアポロンの〈お告げ〉はゼウスの後ろ盾によっていたと解釈するほかはない。
 オイディプスの〈運命〉が呪われたものだとすれば、古代ギリシャにおいてすでに父親を殺し、母親と肉体関係を持つことがタブー視されていたことになる。ここに一人のあらゆる先入観念から解放された無垢な者が「なぜ父親を殺し、母親と情をむすんではいけないのか」と問えば、おそらくこの問に十全な回答を提示できる者は存在しないのではなかろうか。いずれにせよ、オイディプスは父を殺し、母と情を結ぶことを罪悪と見なす価値観が支配する社会のうちにあって、神アポロンの〈お告げ〉を聞いたことになる。オイディプスが人殺しそのものを罪悪と感じていないことは、衛兵四人を殺し、王を殺した場面で明らかである。古代ギリシャにおいて戦闘場面での殺人を否定する思想は存在しない。オイディプスはあくまでも父殺し・母と関係を結ぶという〈運命〉に関して苦悩したのであって、人が人を殺して生きざるを得ないその運命に苦悩することはなかった。
 オイディプスには〈呪われた運命〉を変換する視点はない。オイディプスは父を殺し、母と情を結ぶ自らの運命を祝福する、ニーチェ的運命全肯定の立場にたつことはできなかった。
 さて、なぜライオス王は息子に殺され、オイディプスは父ライオスを殺さなければならなかったのか。そこに介在するのは妻であり、母であるイオカステの存在がある。パゾリーニは、息子が誕生した時の父親の顔の表情をアップしてとらえている。そこには血を分けた息子の誕生を喜び祝福する微塵の感情もない。この父親は、その存在自体で母を、母の乳房を求める息子を、自らのライバルと見なし、憎悪を押さえ込んだ胡散臭そうな眼差しを向ける。
 ライオスのその専横的な性格は、自らを相対としてとらえることはできない。愛する対象を分けあうことはできない。ライオスはアポロン神殿に巡礼には行くが、神のその絶対性にひれ伏しているのではない。アポロンによって、息子に殺され、妻を息子に奪われるという、その呪われたお告げに接したとき、彼が選んだのは息子殺しである。彼が息子によって殺される前に、息子を殺そうと図ったこと自体が、神に対する反逆である。この反逆に加担したのが妻のイオカステであり、〈息子殺し〉に関しては王と王妃は同罪である。罪深さの点で言えば、イオカステの罪はライオスの比ではない。
 イオカステは自分の眼でオイディプスの死を確認してはいない。彼女は殺しを命じた従僕の言葉をはたしてどこまで信じたであろうか。ライオスの死に関して、オイディプスが殺害者であることは、時系列に従った映画の観客には明白だが、イオカステにとっては霧の中である。彼女にもたらされた情報はどんなものであったのか。だれがいつどこでどのように〈事実〉を伝えたのか。
 映画を見る限り、オイディプスがライオス一行を殺害し、スフィンクスを倒して、テーバイの新たな王に迎えられるまでの時間があまりにも詰まっているように感じられる。イオカステはなぜオイディプスを新たな夫として迎え入れたのか。そこに至るまでの心理心情が完全に省略されている。ライオスに似た顔と体、その専横的な性格、それよりなにより、アポロンの〈お告げ〉が脳裏に刻印されていたはずである。イオカステはなにもかも知っていて息子オイディプスを受け入れたと言ってもいいだろう。描かれていないだけに、イオカステの性格は複雑怪奇で怪しい魅力を放っている。パゾリーニはこのイオカステに関してはかなりその深部に肉薄した演出をしている。
 『オイディプス王』を批評した時に、わたしが注目した人物の一人にライオス王の従僕がいる。映画の中でこの従僕役を演じた役者は、この人物の臆病・卑劣・罪深さをよく演じていた。彼はコリントスの羊飼いがオイディプスを拾っていくことを承知の上で、オイディプスを置き去りにした。従僕と羊飼いがすれ違う場面の、その時の従僕の表情は、王妃の命令に背いた〈罪〉の感覚と、自らの良心に従った、〈祈り〉の感覚が混じりあって、観る者の胸に強く訴えてくる。彼はテーバイに戻ってライオスとイオカステにどのような報告をしたのであろうか。その詳細をソポクレスは書かず、パゾリーニは映像化しなかった。この作品は膨大な省略の上に成り立っている。
 オイディプスのライオス殺しの場面において、この従僕は馭者として登場する。彼はライオス殺害の場面において〈御者〉としての役割は何もはたしていない。彼は殺しの現場から逃亡し、身を隠して目撃者となり、帰国して報告者となっている。その〈報告〉を読者も観客も現在進行形で聞くことはできない。その〈報告〉は当事者ではない第三者の口を通してさまざまに語り継がれることになる。その代表的な噂として、複数の盗賊によって殺されたというのがある。この噂がまことしやかに流布していったのは、おそらく唯一の目撃者〈従僕=馭者〉の最初の報告に嘘があったからであろう。なにしろこの従僕はオイディプス殺しに関しても嘘の報告をして自己保身をはかるような小心者であるから、自分に都合の悪い報告をするわけはない。行きずりのたった一人の若者に、衛兵四人と王ライオスが殺され、自分だけが無傷で戻ってきたなどという〈事実〉を報告すれば、彼が王を助けることもなく逃げ戻った臆病者として厳しく弾劾されることは眼に見えている。