清水正/『オイディプス王』から『罪と罰』へ(連載2)


ドストエフスキー曼陀羅』第四号は特集『「清水正vs中村文昭〈ネジ式螺旋対談〉in21世紀」に寄せて』学生、文芸評論家、ドストエフスキー研究家たちの論文・エッセイを掲載してある。今回から複数回にわたってわたしの批評を紹介する。




中村文昭氏(左)此経啓助氏(右)2014年1月16日江古田の居酒屋にて。清水正撮影。


オイディプス王』から『罪と罰』へ
──〈踏み越え〉へと唆す〈ある神秘的でデモーニッシュな力の作用〉──

 清水正


罪と罰』の作者は次のように書く。

  後になってこのときのことを、またこの数日彼の身の上に起こったことを、逐一ふりかえり、一刻一刻を追って、微細な点まで思いだすたび、彼はいつもあるひとつの事情に迷信めいた衝撃を受けた。それはその実、さして変わったことでもなかったのだが、後から考えるたびにいつも、何か運命の予告めいたものに思えるのだった。(上・129)

ロジオンは〈踏み越え〉た後になって、〈踏み越え〉に至る数日間を逐一思いだし、そこに〈何か運命の予告めいたもの〉を感じる。ロジオンにはオイディプスに呪われた運命をはっきりと予告する〈アポロンの神〉の存在はなかったが、それだけに作者の〈予告〉が不断につきまとっている。オイディプスの究極の懐疑はアポロンの神には向けられても、作者ソポクレスには向かない。オイディプスにとって作者はアポロンの神をはるかに越えて不在であり続ける。
 ロジオンにとっては、オイディプスにおける〈アポロンの神〉も存在しないし、ましてや作者は不在中の不在で、その存在を問うことすらできない。作中人物のうちポルフィーリイ予審判事のみはロジオンに作者の存在を示唆する資格を有していたが、この男ですら作者の枠組みを越えた存在になることはできなかった。予言者ポルフィーリイは作者と密通して、作者の存在を限りなく隠蔽することに終始した。ロジオンは〈何か運命の予告めいたもの〉を、たとえば『創世記』のエバが禁断の木に潜んだサタンの口から聞いたわけではない。『罪と罰』には神も悪魔もその姿を具象的な衣装を纏って登場することはない。従って余りにもとうぜんのことながら、『罪と罰』の〈何か運命の予告めいたもの〉は、映画『アポロンの地獄』に出現した〈アポロンの神〉のマンガ的な滑稽さを完璧に回避している。
 いったい、ロジオンを唆しているものとは何なのか。悪魔の唆しから解放させたり、再び悪魔の術中に陥れたりしているもの、それは或る得体の知れない神秘的でデモーニツシュなものと形容されているものであるが、しかし今のわたしには、その神秘的なものを支配している作者のはたらきが見える。
 作者は、ロジオンを試みているかに見える〈或るデモーニッシュ的な存在〉にいかなる姿形も与えず、それをコントロールしている。『罪と罰』を繰り返し読んできたが、作者を操っているものの存在を感じることはない。〈何か運命の予告めいたもの〉を口にする、〈神〉や〈悪魔〉の存在は、具体的な姿形を与えられずに、言わば無形のもの、ウイルスのようなものとしてロジオンを唆し続けている。ロジオンはこのウィルスに罹患した患者で、作者はこの患者を救済するためにあらゆる処方を施して、最後にはその治療を完成させるが、しかしウィルスをロジオンに注入して生体実験を試みたのも作者であったことを忘れてはならない。
 作中での〈必然〉を設定しているのは作者であって、〈神〉でもなければ〈悪魔〉でもない。『創世記』の作者にとって〈神〉や〈悪魔〉は、エバやアダムと同じ登場人物に過ぎない。『ヨブ記』の作者は、〈神〉と〈悪魔〉を実に仲のいい使嗾者、実験者として描いている。『創世記』や『ヨブ記』で絶対性の不在を保っているのは作者であって神や悪魔ではないのである。
 ロジオンは作中で、自分の内心の思いを無形の説話者(語り手)によって代弁されることはあっても、決して作者と対話する権利を与えられてはいない。ロジオンは作者によって神に祈ったり、悪魔の誘惑から自由になったり、運命の予告通りに殺人を実行したりする。まるでロジオンは嵐のただ中を進む船に乗り合わせた客ようにあっちへこっちへと振り回されているだけで、その船の船長になって舵をとることはできない。船長はあくまでも作者であって、どの方向へどれくらいの速度で進むべきか、その決定権を握っているのは作者なのである。波に揺られ、船酔いに苦しむのはロジオンで、作者は作品に対しては船長にとどまらず、あらゆる自然現象すらコントロールできる立場にある。
 『罪と罰』の作者はロジオンが作者にまなざしを向けることを許していない。ロジオンのまなざしはルージンやラズミーヒン、スヴィドリガイロフやマルメラードフやポルフィーリイ予審判事だけでなく、神にさえ向けることが許されているが、作者にだけはそのまなざしを向けることが許されてはいなかった。ロジオンを作者の枠組みから解放できるのは、作者をも包み込む批評家をおいてほかにない。批評家に作者の背中が見えなければ、作者の背に毛布をかけることはできない。

 しかし、どうしてまた、と彼はいつも自問するのだった。どうしてまた、彼にとってあれほど重要で決定的な、それでいてまったく偶然そのものの出合いが、あのセンナヤ広場で(しかもそこへは行く用さえなかったのに)、ほかでもないあの時刻に、彼の生涯のあの時、あの瞬間をえらんで起こったのだろう、それも彼がああいう気持でいたとき、ああいう状況のときをねらって? ああいう状況だったからこそ、あの偶然の出合いが、彼のその後の運命に取返しのつかない決定的な影響を与えることができたのではなかろうか。あの出合いは、まるで彼をわざと待ちぶせていたようではないか!
彼がセンナヤ広場を通りかかったのは、午後の九時ごろだった。(上・130)

 「ねえ、リザヴェータ・イワーノヴナ、あんたの一存で決めりゃいいんですよ」商人は大声でしゃべっていた。「じゃ、あした、六時すぎにいらっしゃいな。先方からも人が見えるから」
 「あした?」リザヴェータは、まだ決心がつきかねるふうで、のろくさと、考えこみながら答えた。
(中略)
 「じゃ、行こうかしら?」
 「六時すぎですぜ、あしたの。あっちからも人が見えるから。じゃ、あんたの気持で決めてくださいよ」
 「サモワールぐらい出しましょうよ」女房が言いたした。
 「じゃ、行くわ」リザヴェータは、まだ何か考えながら答えて、のろくさとその場を離れた。
  ラスコーリニコフは、もうそのときには店を通りすぎていて、あとの話は聞けなかった。彼は静かに、目だたぬように歩き、ひとこともものを言うまいと努めていた。最初の驚きの感情は、しだいに恐怖感に変わり、背筋を悪寒が走るようだった。彼は知ってしまったのだ。まったくだしぬけに、思いもかけない形で知ってしまったのだ。明日の番、きっかり七時に、老婆のただひとりの同居人である妹のリザヴェータが家にいないということ、したがって、明日の番、きっかり七時には、家にいるのは老婆ひとりきりだということを。
  下宿まではもう数歩しかなかった。彼は、死刑を宣告を受けた男のように、部屋にはいった。彼は何も考えなかったし、まったく考えることができなかった。ただ自分の全存在で、自分にはもはや考える自由も意志もないということ、すべては突然、最後的に決定されてしまったのだということを、不意に感じたばかりだった。(上・132〜133)

ロジオンは幼年時代の夢を見た後で、T橋の方へ歩きながら神に祈った『私は断念いたします。あの呪われた……私の空想を!』と。そして作者は書いた「自由、自由! 彼はいまや、あのまやかしから、妖術から、魔力から、悪魔の誘惑から自由である!」と。が、作者はロジオンにセンナヤ広場での魔の偶然を用意する。午後九時、ロジオンはそこで偶然、商人夫婦とリザヴェータの会話を耳にしてしまう。商人は「あした、六時すぎにいらっしゃいな」と誘い、リザヴェータは一度は迷うが、最後には「じゃ、行くわ」と承諾する。そして作者は書く「彼は知ってしまったのだ。まったくだしぬけに、思いもかけない形で知ってしまったのだ。明日の番、きっかり七時に、老婆のただひとりの同居人である妹のリザヴェータが家にいないということ、したがって、明日の番、きっかり七時には、家にいるのは老婆ひとりきりだということを」と。
 ロジオンはせっかく「悪魔の誘惑」から解放されて「自由」を得たはずなのに、ここで再び悪魔の唆しに遭っている。が、この魔の偶然を用意したのは作者である。作者こそがロジオンを不断に試み、弄んでいるかのように見える。しかも、作者の叙述の仕方は読者をもたぶらかす。『罪と罰』はいちおう三人称の体裁を採っているが、その実質は主人公ロジオンの一人称形式と言ってもいい。作中の〈彼〉〈ラスコーリニコフ〉をロジオンの〈私〉に変換してもなんら問題はない。作者はロジオンの目に張り付いたカメラのように外界を見るばかりでなく、ロジオンの内部をも忠実に映し出す。作者は作者独自の見方でロジオンに注釈や批評を加えることはない。いわば作者はロジオンと一体化している。「自由、自由! 彼はいまや、あのまやかしから、妖術から、魔力から、悪魔の誘惑から自由である!」(Свобода,Свобода! Он свободен теперь от этих чар,от колдовства,обаяния,от наваждения!)【ア・50】は「「自由、自由! 私はいまや、あのまやかしから、妖術から、魔力から、悪魔の誘惑から自由である!」と書き換えることができる。〈彼〉(Он)は〈私〉(Я)なのである。作者はロジオンの歩行にぴったりと寄り添って、ロジオンの思いをそのまま写し取っている。こういったやり口は読者をも共犯者に誘い込む。『罪と罰』においてロジオンは「あのまやかしから、妖術から、魔力から、悪魔の誘惑から自由」になることはできても、作者の魔術から解放されて自由になることはできない。