「Д文学通信」は先日20日に1420号を刊行

D文学研究会は今年で28年目に入った。「Д文学通信」は先日20日に1410号(7303〜7318頁)を刊行した。内容は『清水正ドストエフスキー論全集』第七巻の栞原稿の一部を掲載したもの。本ブログでは此経啓助氏と山下聖美氏の原稿を紹介する。

七月二十六日午後三時より六時まで日芸江古田校舎西棟三階 W-301教室にてD文学研究会主催の第一回講演会(講師・清水正)を開きます。ドストエフスキーに関心のある方は是非ご参加ください。参加費は無料。お問い合わせはqqh576zd@salsa.ocn.ne.jpにお願いします。


両目を潰さないオイディプス王

 此経啓助


 インドでは盲目の吟遊詩人をスーラーという。たいてい粗末な弦楽器を手に路傍に坐って、神の物語を歌う。ときには意図的に両目を潰されてしまった不運な貧困への呪詛が、神の言葉を借りて歌われることもある。

 清水正氏の「オイディプス王」解読を読んでいて、若い頃にインドで出会った盲目のスーラーを思い出した。清水氏の近年の作品には作中、現世の風がときおり吹き込んでくる箇所があり、思い出の旗がはためく。半世紀前、新宿・花園神社境内の紅テントで上演された唐十郎の「腰巻お仙」で、とつぜん舞台正面のテントが巻き上げられ、戦争直後の廃墟に大都会の光が差し込んできたときのように。

 北インドの荒涼とした大地の土くれに、私は村の青年と二人並んで尻をつけて、ボーっと地平線をながめていた。青年が一人つぶやく。
 「犬でさえこの土地から自由に出ていくことができるのに、神はぼくをこの貧困の大地にしばりつけておく」

 青年はカースト(インドの階層社会)の最底辺に産み落とされ、赤貧にもがき苦しんでいた。ヒンズー教の神々はカーストと表裏一体の関係にあって、青年が神の下した運命に勤勉に従うよう諭して止まない。古代ギリシャの民が選び取った平等主義と正反対のカーストというヒエラルキー(階層制)の下、インドの民は三〇〇〇年にわたって神々の声に従ってきた。そうしたインドの民の一人である村の青年がカーストのくびきから自由になるためには、二五〇〇年前にゴータマ・シッダールタブッダ(目覚めた人)を目指したように、現世放棄者となって神々に挑戦するしかない。

 清水氏はしばしば「ぼくにはすべてがありありと見えている」という。正確な言い回しでないかも知れないが、私は「すべて」とは森羅万象の法(ダルマ)と解釈している。氏の「オイディプス王」解読は三〇〇〇年の時空をワープして、運命を下したオイディプス王の神々への挑戦を「虫の目」で仔細に点検する。しかし、「鳥の目」を失念しているわけではない。たとえば、こんな言葉がある。

 「ニーチェ永劫回帰思想はキリスト者にとってはダーウィンの進化論に匹敵する衝撃であったかもしれないが、輪廻転生の仏教思想に慣れ親しんだ者には親和的な思想である」

 ニーチェもまた現世の法に従わない現世放棄者である。いずれにしても、すべてが見えている清水氏の近年よく使う批評の技が、作者の背後に忍び寄って、作者の神まがいの差配を白日の下にさらすことである。紅テント劇場の作者・唐十郎は背後の幕を自ら巻き上げて外の世界を見せたのだが、清水劇場では清水氏自らが幕を開いて、テキストという舞台に強烈な批評の光を浴びせる。

 舞台のオイディプス王は、自ら犯した近親相姦の事実を知って、両目を潰す行為に出る。多神教から一神教へ時代が移り変わる中、近親相姦のタブーという使命を帯びた英雄の悲劇がクライマックスを迎えたわけだが、唯一神が明瞭な姿を見せないために、オイディプス王の不可解な行動が目立つ。清水氏はそこに光を当てると、作者ソフォクレスの限界を踏み越えて、オイディプス王に密着する。

 「オイディプスは自らの両目を潰しても、自らの内部の闇に踏み込んでいくことはなかった」

 そう考える氏は、両目を潰さないオイディプス王を自ら演じるようにして、やがてくる唯一神に挑戦する現世放棄者の道を探し求める。

 私は知的なスリルに満ちた本書を楽しむと同時に、テキストの中に光を背に姿を現わした未見の清水氏に大きな興味を抱いている。実際、氏がこんなことをいうとは、想像だにしなかった。

 「日本人の大半は人間ごときの存在ではどうすることもできない、大いなる運命のもとにあって、占いを娯楽にして楽しむことのできる寛容な精神を生きている」



左より山下聖美氏 清水正 山崎行太郎氏 下原敏彦氏
江古田の居酒屋「和田屋」にて。この店はかつて小沼文彦氏と江川卓氏とわたしがドストエフスキーをめぐって鼎談した場所

清水批評文学の中核
─時空を超えた鼎談「清水正・ソポクレス・ドストエフスキー」─ 
山下聖美

清水先生がしばしば自らの批評において見出すテーマに「オイディプス的野望とその挫折」がある。オイディプスこそ、ドストエフスキーから宮沢賢治となりのトトロドラえもん阿部定から日野日出志までと、縦横無尽に広がる清水批評文学の中核であろう。この核に、今、批評のメスが入り込んだ。

 「オイディプス王」と言えば私には特別な記憶がある。清水先生に出会う前、確か学部三年次にはじめて「オイディプス王」を読んだ。当時の私はとにかく欲求不満であった。所属していた英文学科は語学の授業が多く、文学であっても文学史を淡々とおっていくようなものばかり。がっつりと〈文学〉するような、激しい授業を求めていた私にとっては、少々物足りない大学生活であった。この渇望を満たすかのように、文学的生活を求めてめちゃくちゃに遊んでみたり(ここでは書けないほどです)、日本文学科に転科試験を受けてみたり(落ちました)、授業をさぼって図書館にこもり、本を読んだりした。一人、図書館の机で息が止まるほどの衝撃を受けたのは「アンナ・カレーニナ」であった。(後に私は日芸の大学院に入り、清水先生の「アンナ・カレーニナ」論を読み、今度は止まっていた息が新たに吹き返すような蘇生感覚を味わうのでありますが。)

 「オイディプス王」はこんな日々のとある授業の課題となっていた本だ。ろくに授業の内容も覚えていないが、名作の力とはすごい。とにかく読んだというだけで記憶に深く刻み込まれた上に、読者の未来にも強く関わってくることになるからだ。今、私は清水先生の『オイディプス王』論を読み、あの頃、想像だにしなかった批評の世界にくらくらとしている。古典中の古典である「オイディプス王」は、清水先生の批評によって見事に再構築され、現代の新たなる物語として私の前にある。

たとえば、先王ライオスの子供・オイディプスと妻であったイオカステの夫婦。当人たちは知らなかったというが、まさか、という思いを心の奥底で封印してきたのかもしれない。「もしオイディプスが自分の才知に奢り高ぶることなく、自らの人生を深く静かに見つめるような男であったならば、先王ライオスについてもうとうの昔に十分な情報を得て的確な判断を下していたはずである」と清水先生は書き、「オイディプスはテバイの何代目かの国王には違いないが、彼の倨傲な意識の中では自分こそが王の中の王、最初にして最後の王とぐらいに思っていたかも知れない」「高慢なオイディプスとその妃イオカステに共通している時性的特徴は〈現在の優位性〉である。彼らは〈現在〉を最優先させることで、人生を享楽してきたのである。四人の子供はその結果である」としている。

なるほど、現代においてさえも、人間というものは多かれ少なかれ、このように生きている。一方で、王位にあるオイディプスは支配者としての周囲の人間関係には敏感だ。だからこそ、「信ずべき友」として遇しているクレオンの中に渦巻くオイディプスに対しての嫉妬心をも冷徹に見抜き、側近中の側近として遇することで支配の座の保持を図っている、と解釈している。なるほど、政治の構造は今でもこうではないか。そして、真理の探求など望まずに、自分たちの安泰な生活の獲得と維持を願い、その保証のためならば王位に誰が就いていようとたいした問題ではない「オトボケと隠蔽とうわべばかり」のコロス(国民)たち。清水先生の解釈により、何千年も前のギリシャの人々が、現代に生々しく蘇る。ここにあるのはどんなに時がたっても変わらない人間の姿だ。結局人間というものは進化しない。時は人間を変えない。

これは、清水先生が十四才のときに直観した、「時間は繰り返す」感覚、すなわちニーチェが言うところの永劫回帰の考えへとつながっていく。過去、現在、未来という直線的時間ではなく、創始と終末が丸くつながる時間感覚においては、すべてが繰り返す。そして、すべてはすでに決まっている。これぞ「必然」だ。オイディプスの運命もまた、必然であった。オイディプスは神の意志から逃れようとする〈意志〉を持ったが、それさえも神の意志であったというのが必然者・清水先生の考えだ。

  人間の大半は、事にあたって自分の意志で決定していると思っている。ところが、いったん、人間の意志もまた神の予定表の中に予め組み入れられているとなれば、もはや人間の意志などは〈意志〉という言葉にふさわしい力を持つことはない。人間の〈気まぐれ〉さえ神の意志から逸脱することができないとなれば、もはや人間は神の意志に全面的に従うほかはない。つまり神への抗議も反逆も、それらすべてを含めて人間のすることなすことすべてが〈必然〉ということになる。

 人間のすることなすことすべては必然である、と清水先生は言う。そして、本書のオイディプス論がやがてドストエフスキー論へと発展していくことは清水先生にとって、最大の必然だ。否、ドストエフスキー自身が、清水先生に批評される必然をもって存在していたのかもしれない、と感じる。いずれにせよ、必然という時空の中で、清水先生、ソポクレス、ドストエフスキーが、人間とは何なのかをめぐって対話する、これが本書の内容だ。きっと清水先生にとっては最大の娯楽であったに違いない。

そして私もまた、こうして栞を書きながら、必然の気分を実に気持ち良く味わっている。満たされなかった学部時代も、あのとき読んだ「アンナ・カレーニナ」や「オイディプス王」も、清水先生に出会ったことも、すべて必然。何かに調和していくようなこの感覚(もはや宗教の域でしょうか)を味わわせてくれたこの本に、とても感謝している。