「世界文学の中の『ドラえもん』」第二部(連載1)

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「世界文学の中の『ドラえもん』」第二部(連載2)
アポロンの地獄』論からの出立

清水正
ハイデガーが求めたのは〈有〉と〈時〉であるが、結局、たまたま世界の内に投げ出された存在でしかない人間にその秘密を解き明かすことはできない。古今東西の哲学者、数学者、物理学者が世界の秘密に挑戦したが、結局、創造者である神の秘密に参入することはできなかった。神は、被造物である人間に、神の秘密を解くように限りなく挑発するが、決してその秘密を明かしたりはしない。ハイデガーがなし得たことは人間(彼は現存在と名付けたが)が世界の内でどのように存在しているかという、その様態を体系的に記述することにとどまった。『存在と時間』には、人間がどのように生物、物質、世界と関わっているかが明晰に記述されている。が、この基礎的存在論をいくら熟読しても、人間がどこから来て、どこへ行くのかという、人間が何よりも知りたいことに関しては何も書かれていない。哲学が理性や知性に基づく限り、前世や来世に関して客観的な記述をすることはできない。理性は、「私が存在している」ことに関して、「私はどういうわけかたまたま世界に存在している」としか言えない。どんなに言葉を論理的体系的に積み重ねても、所詮、人間はこの世界に投げ出されていることを理性で解き明かすことはできないのである。理性で人間をみれば、人間はたまたま世界に投げ出された存在で、さまざまなことに疑問を感じながらも、結局は究極的な問題(なぜ生まれてきたのか)に関しては知ることができず、はっきりと分かるのは「人間は死すべき存在である」ということぐらいである。それも、人間は死すべき存在であるということを自らの死を体験しない前にしか認識できない。究極の問題に関しては論理的思考をいくら展開しても不可能である。そこで思考を放棄して宗教に魂の癒しを求める者もでてくる。詩人や神秘家は論理的思考よりは霊的直観を尊重する。この直観とやらは、信仰と同じで科学的な論拠を必要としない。神の存在を感じ、その存在を視ることのできるソーニャに、神学を求めても無理である。この世界には神学書を何冊も刊行する無神論者がおり、聖書を読まずしても神を信仰する者がある。理性は神の存在に関しては、その有無を判定する能力が欠けている。過激な欲情や信仰は理性の命令に従うことはない。『存在と時間』を熟読して現存在の諸様態に関して多弁に語ることはできても、死を克服するたしにはならない。「人間は死すべき存在である」という理性的な判定に対して、神の子イエスは平然と「われを生きて信ずる者は永遠に死することなし」と断言する。理性に基づいて生きるか、イエスの言葉に従うか。ソーニャはイエスの言葉に従い、ロジオンは懐疑と思弁の果てにソーニャに従った。わたしは果てしのない懐疑と思弁にあけくれながら〈永遠の命〉を見つめつづけている。
 ハイデガーの予め自らの死を覚悟して生きるという、その〈先駆的覚悟性を引き受けた現存在〉に本当の意味での救いも癒しもない。それは毅然とした武士動的一義的な生のあり方ではあるが、しかしそれは愛する者を喪失した者に救いを与えることはない。イリューシャ少年を失ったスネギリョフに〈人間は死すべき存在〉などという言葉は微塵の癒しも救いも与えない。事象そのものへと迫り、唯一絶対・不動の真理を探り当てようとした現象学創始者フッサールは、晩年、それは幻想にしか過ぎなかったと述懐した。フッサールの諦念と絶望を知らない能天気な学者たちによって現象学的方法はもてはやされたが、所詮、人間は〈不動の真理〉を探り当てることはできない。ましてやそれが一種の〈幻想〉であるとするならなおさらのことである。
 わたしは今、『アポロンの地獄』について批評したい衝動にかられてこの文を書いている。わたしが二十歳の頃、一部の若者たちは過激な革命運動にのめりこんでいったが、当時のわたしには微塵の革命幻想もなかった。十四歳の時に「時間は繰り返す」と考えて善悪観念の絶対喪失に襲われ、小説「青蜻蛉」の登場人物・野間三吉に「自分の意志でこの世界に誕生してきた者は、自らの死もまた自分の意志で決定しなければならない」と言わせたわたしに、ドストエフスキー米川正夫訳『地下生活者の手記』を送り届けた。地下男の過剰な自意識は地上のあらゆる価値を相対化した。肉体存在でもある生者は地上世界において一義的行動をとるほかないが、意識はその肉体存在上のやむを得ない〈一義〉を含めて、すべての固定化され、絶対視されている〈価値〉を不断に相対化する。いわば地下男の過剰な自意識を継承する者は、この世界における自己存在を軽業師、ピエロと見なさざるを得ない。肉体は一義的な網に捕らわれても、意識は無限の自由を享受している。当時のわたしは、自らの肉体存在を〈革命運動〉という一義の世界に解き放つ衝動にかられることはなかった。わたしはどっぷりとドストエフスキーの世界に浸りながら、現実の世界を〈映画の世界〉のように冷静に眺めていた。
 現実世界における革命運動の〈映像世界〉(自分の目でとらえた現実の映像や、新聞・テレビ・雑誌を通して得られる映像)よりも、エイゼンシュテイン監督の映画『戦艦ポチョムキン』『イワン雷帝』やパゾリーニ監督の『アポロンの地獄』の方がはるかにリアリティがあった。特に『アポロンの地獄』は一回観ただけで衝撃的なインパクトがあった。それまでわたしが思い続けてきた〈時間〉(必然と自由)の問題が先鋭的に映像化されていたからなおさらである。
わたしは小学生低学年で〈時計〉の読み方を指導された時、あたかも迷宮の時空に放り出されたような妙な感覚をおぼえた。わたしはその時、〈時計〉の読み方はさっぱり理解できなかったが、その代わり〈時間そのもの〉に関しては徹底して考える子供になった。時間とは何か。時・間とは何か。〈時〉に〈間〉をつけないと〈時間〉にならない。〈時〉は時そのものだけでは認識も体感もできない。〈間〉は〈空間〉であり〈世界〉であり〈世間〉でもある。この〈間〉もまた〈時〉がなければ存在し得ない。わたしは黒板にチョークで書かれた〈点〉を、それは〈物質〉であり、あなたが説明している〈点〉の概念からはてしなくはずれているのだ、と思っていた子供であった。小学校の算数の教師がアインシュタインであったら、彼はわたしの問いになんと答えただろうか。疑問や問いはいくらでもでてくるが、その回答はいつも伏されている。学校の教師が答えられるのは、予め〈答え〉が定められている問いに対してだけであって、子供の問いを共に考える教師はきわめてまれである。わたしはそういう教師に出会ったことはない。