「世界文学の中の『ドラえもん』」第二部(連載3)

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「世界文学の中の『ドラえもん』」第二部(連載3)
アポロンの地獄』論からの出立

清水正

日本語の〈時間〉は実によくできていると思う。〈時〉は〈間〉(世界・世間)という〈空間〉と一緒にならなければ存在自体が成立しないのである。わたしたち人間は〈時間〉の内にあって〈時〉そのものを問う存在ではあるが、〈時間〉の外に出て〈時〉を問うことはできない。
 わたしたちは小学生時代から〈過去〉〈現在〉〈未来〉を直線的なイメージでとらえることに慣れている。これは近代の教育が西欧の時間意識を受け入れたことの結果でもある。弥生時代の後に縄文時代がくることはないし、明治時代の前に昭和時代がくることもない。創世から終末まで時間は途切れることなくまっすぐ延びた直線上に展開される。ニーチェはこの直線的時間の創始と終末を丸くつなげて永劫回帰のイメージとしてとらえた。別にどれが正しいとか間違っているとか言うのではない。ニーチェは「ものそれ自体はなく解釈あるのみ」と言った詩人である。或る限られた時空にのみ存在することを許された一人の詩人が〈永劫回帰〉の時間軸を踏破してきたわけではない。ニーチェという一詩人の過剰な想像力がキリスト教的直線的時間のイメージを激しく歪めたに過ぎない。ニーチェ永劫回帰思想はキリスト者にとってはダーウィンの進化論に匹敵する衝撃であったかもしれないが、輪廻転生の仏教思想に慣れ親しんだ者には親和的な思想である。問題はニーチェ永劫回帰ダーウィンの進化論もキリスト教の土壌から生まれたものであることだろう。神は自らの姿に似せて最初の人間アダムとエヴァを創った。人間は神によってあらゆる生物の頂点に立ち、その統治支配を委ねられている。人間は神との契約に忠実である限りは、その立場を保証されている。ただし、ヨブにみられるように、神は不断に腹心悪魔を通して冷酷な試みをほどこすものでもある。神は全能であるにもかかわらず、被造物でしかない人間の裏ぎりに不断に監視の眼を注いでいる。ダーウィンの進化論の直線的系譜においても最も進化した生物は人間であり、その絶対優位性は微塵の揺らぎも見せない。
 わたしが考えた時間論において人間を頂点とするピラミット型の進化図はあり得ない。あったとしても、それは西欧的な〈考え〉の一つとして認識されるだけである。時間は、人間に時間に関する意識があり、体感があることによって存在する。従って時間意識と体感がない者にとっては、人間といえども〈時間〉は存在しないことになる。完璧に意識と体感を喪失した植物人間にとっては〈時間〉は存在しない。植物人間が生存する現実の世界においても物理的時間は働いているが、当の本人にとっては〈時間〉は〈無〉に等しい。三十年ぶりに意識が蘇って時間意識を取り戻したとしても、その〈三十年間〉は当人にとっては〈空白〉でしかない。さらに、時間意識は人によって、様々な諸条件によっても異なる。喜怒哀楽の程度によって、時間は短くも長くも感ずる。近代・現代人は物理的な時間によって支配されているから、瞬間を永遠と感じたり、神秘的な時間感覚を体験する機会を逸している。物理的に計測可能な時間だけが時間ではないということはよく承知しておく必要がある。
 象の時間があり、蚤の時間がある。人間の想像力はそれらの時間を許容する力を持っているが、それらを体感することはできない。もしそれが可能だとすると人間固有の時間意識が崩壊する危険性がある。蚤の時間を生きる人間は、人間社会の中で生存することはできないだろう。この世に存在する生物個々の時間意識があると考えるだけで人間優位の世界観や価値観は即座に相対化される。唯一絶対の人格神を信仰する者にとってはどんなことがあっても認められない考え方であろう。蚤には蚤の固有な世界があり時間があるのだという考えを認めれば〈唯一神〉と〈人間優位〉を否定することになるからである。
 わたしが『アポロンの地獄』を観て、最も共感できたのはアポロンオイディプスに対する〈予言〉の的中である。十四歳で必然論者となっていたわたしにとって、オイディプスアポロンの〈予言〉から逸脱した運命を辿ることはあり得なかった。三叉路に出くわす度に、オイディプスは眼をつぶりぐるぐると身を回す。この行為が、呪われた運命に対する精一杯の反抗である。アポロン神の予言に対して、オイディプスは両眼を瞑ってぐるぐる回るという単純な動作で〈偶然〉に身をまかすのである。ここにオイディプスの神に対する意志的な反抗を見ることはできない。彼は極力、自らの意志を捨てて偶然に賭ける。が、何度、オイディプスが偶然に身をまかせても、カメラの眼差しは彼の足下に立てられた「テバイへ」の石標を冷酷に映し出す。監督パゾリーニオイディプスにソポクレスの原作から逸脱した運命を与えることはなかった。むしろパゾリーニは徹底してアポロン神の側に立ってこの映画を制作していると言っていい。