世界文学の中の『ドラえもん』

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三日前に急に喉が痛くなり、声が出ないので火曜日の文芸批評論は途中でやめざるを得なくなった。日藝図書館企画発行の『日本の漫画家 日野日出志』の編集、および『清水正ドストエフスキー論全集』第六巻『悪霊』論の校正で日々追われている。二か月以上、「世界文学の中の『ドラえもん』」の執筆が中断したままである。第一部は『ドラえもん』論、そして第二部が『アポロンの地獄』から出発してソポクレス、ドストエフスキーの作品論とからめた時間論と展開していく。かつて『オイディプス王』に関しては二カ月もかけずに七百枚ほど書き上げた。あの頃のエネルギーは自分でいうのもなんだがすさまじいものがある。校正と編集に時間がとられそうなので、「世界文学の中の『ドラえもん』」の第二部を連載することにする。

「世界文学の中の『ドラえもん』」第二部(連載1)
アポロンの地獄』論からの出立

清水正

アポロンの地獄』を劇場で観たのは二十歳の頃であるからすでに四十年以上の歳月が過ぎたことになる。この映画が与えた衝撃は大きく、一回観ただけで映像が脳裏に焼き付けられた。
十四歳の時に「時間は繰り返す」という論文を書いて以来、わたしは〈時間〉についていつも考えている。ベルグソンの「時間と自由」を読んだ時、彼は過ぎ去った過去に関しては、それを変更不能な〈時間〉としてとらえるが、未来に関しては自由に選択できると考えた。未来は定まっていないと考えれば、その人間は未来に関して無限の可能性をもっことになる。極端に言えば、自殺も他殺も含めて、様々な選択が可能ということになる。現在が未来に向けて無限の存在可能性を持っているという認識に立つと、ある種の恍惚を感じる。「おれは自由なんだ。過去を変更することはできないが、これからのことに関しては自分の意志で自由に選ぶことができる」こう考えれば、実存は自由であることに恍惚として震えるだろう。こういった時間認識は人間に希望を与える。高校に入ってニーチェを読みはじめ、彼の永劫回帰の時間論を知ったとき、わたしは自分と同じように時間を考える詩人に共鳴した。永劫回帰の時間論においてはベルグソンの〈自由〉は否定されることになる。永劫回帰の思想においては〈未来〉は〈過去〉であり、〈過去〉は〈未来〉であり、〈今〉は直線的な時間軸における通り過ぎる一点ではなく、無限の〈過去〉と無限の〈未来〉を内包する無限の〈今〉となる。この〈今〉は従って〈永遠〉と感じられる。永劫回帰の時間論を受け入れた詩人は、無限に繰り返される〈過去〉と〈未来〉を内包する瞬間であり永遠である〈今〉と恍惚的に合体しエクスタシーを感じる。
永劫回帰の詩人は〈必然〉をそのまま〈自由〉に重ね合わせる体感のうちにエクスタシーを感じ、論理的矛盾を一挙に乗り越える。わたしはニーチェの恍惚を十四歳の時の〈空白〉の感覚に合致させた。すべてはすでに寸分の違いなく決定されている、この思いに襲われた時、目の前が無限の空白となった。色で表せば限りなく薄い灰色の光景が無限に広がっていった。いっさいの自由を奪われた少年に、ベルグソンの「時間と自由」は幼稚な慰みともならなかった。ニーチェ永劫回帰ベルグソンの〈時間〉と〈自由〉を丸ごと包み込んだ。ニーチェ風の言い方をすれば、〈時間〉対〈自由〉を包むところの〈大いなる必然〉(これは同時に〈大いなる自由〉でもある)となる。ニーチェにあっては考えうるすべての〈偶然〉が必然であり、必然から漏れ出た偶然や自由はない。必然=自由がニーチェの時間論、否、ニーチェの時間体感である。
十七歳の時にドストエフスキーの『地下生活者の手記』を読んだ時には、地下男の思弁に圧倒されながらも、彼の言う時間論には納得しつつも異和を感じた。地下男の時間論においては、人間の意志すら必然の中に組み込まれていると考えながら、しかし彼の言う気まぐれは、この必然から免れているらしいのである。わたしの時間論では、人間の意志も気まぐれもすべて必然の網の目に絡め取られている。必然論者にはあらゆる〈自由〉〈偶然〉が入り込む余地はない。自由なる意志も気まぐれも、必然なのである。大学に入ってハイデガーの基礎的存在論存在と時間』(わたしが最初に読んだのは辻村公一訳の『有と時』であった)を読んだ時には、体系的に論理を積み上げていくその思考形態に感心したり辟易したりしながら、しかしその明晰な時間論に関しては共鳴するものがあった。