プーチンと『罪と罰』(連載5) 清水正

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                清水正・画

 

プーチンと『罪と罰』(連載5)

清水正

 

 わたしはドストエフスキーを半世紀以上にわたって読み続けているが、キリスト教徒になろうと思ったことはない。わたしの菩提寺曹洞宗である。仏事はすべて曹洞宗の行事に則っている。御盆には提灯を下げて祖先の御霊をわが家に招き入れ供養している。わたしはなんの疑問も抱かずに迎え盆、送り盆の仏事をなしてきた。わたしが誕生する前に兄の三人が死んでおり、盂蘭盆の仏事を疑問に思ったことはない。死者の御霊が来世に存在し、御盆の時だけ今生に蘇ってくるという〈考え〉をごく自然に受け入れているので、そのことを理屈で改めて考えようとしたことはない。御盆の時に、死者と親しく交わるという仏事がひとに迷惑をかけるわではないし、わたしは今日に至るまで御盆を否定的に考えたことは一度もない。わたしはこういった観点からキリスト教圏内のひとびとの〈信仰〉を受け止めている。ドストエフスキーが文学作品において、神の存在をめぐってどんなに解決不可能な深刻な議論を展開していても、現実世界を生きていたドストエフスキーの〈信仰〉は素朴に、理屈なしに認めるのも、わたし自身の〈信仰体験〉に基づいているのである。〈信仰〉を理屈でいくら考えても決着はつかない。

 人間は神の存在に関して考えなくても生きていける。たしかアルベール・カミュが作品のなかで一老人に「人生なんか単純なもんだ」というセリフを吐かせていた。わたしはこのセリフを若い時に読んで、その通りだと思った。今、七十三歳となって〈人生=単純〉を実感している。ハイデッガーの『有と時』を読んだ時も人生の単純さを思い知った。

 ハイデッガーのこの著書は読みづらい部類に入るのかもしれないが、わたしには実に分かりやすいものであった。現存在(人間)は訳も分からずにこの世界に誕生し、訳も分からずに死んでいく。その人間がこの世界でどのように生きているか、その諸様態を現象学的方法によって記述しているだけのことで、この膨大な量の論文には、人間はいかに生きるべきかについての問題が提起されていないし、従ってその回答もない。ハイデッガーは現存在諸様態を非本来的(好奇心・おしゃべり・曖昧に生きる世界に頽落した様態)と本来的(死を予め覚悟して生きる様態)に分けているが、後者に価値を置いているわけではない。〈本来的〉という言葉自体が〈非本来的〉という言葉に対する優位的価値を予め付与されているように思えるが、現象学的態度においては価値判断は永遠にあるいは慎重に回避されている。

 ハイデッガーは人間を死すべき存在としてとらえているが、死後の世界に関する言及はしていない。前世や来世は宗教においては不可避の重要問題であるが、哲学は理性や知性に則って構築される限りにおいて、その機能を超越した言説はいっさい許されない。その限りにおいて、ハイデッガーの哲学は、キリスト教神学の領域に立ち入ることができない。キリストが発した言葉「わたしは命であり復活である、生きてわたしを信じる者は死ぬことはない」に対してハイデッガーの哲学は肯定することができない。

 『有と時』をどんなに精密に読み通しても、〈救済〉ということに関してはなんらの力も得ることはできない。哲学的思弁をどんなに緻密に展開しても、畢竟〈信仰〉に至りつくことはできない。それはロジオン・ラスコーリニコフの〈思弁〉の結果をみれば明白である。逆にソーニャの〈信仰〉はなんら思弁の力を借りていない。否、思弁の対極にあるからこそソーニャの〈信仰〉は成り立つ。もし読者がソーニャの〈信仰〉を共にしようとするなら思弁的態度を放擲しなければならないだろう。

 わたしはドストエフスキーの文学に関しては思弁的姿勢を貫くことによってソーニャの〈信仰〉と共に生きることはできない。わたしは〈十字架に掛けられた者〉よりは〈ディオニユソス〉を選ぶ者である。わたしはドストエフスキーのように熱狂的にキリストを信奉する者ではない。キリストの言葉を全面的に受け入れていたなら、とっくの昔に殺されていただろう。

 わたしの信仰の対象は、熱いか冷たいかを人間に求め、そのどちらでもない生ぬるき者を口から吐き出してしまう、容赦のないユダヤキリスト教の神ではない。〈生温い〉と形容するからよくないのであって、熱くもない冷たくもない適温を選ぶのが大半の日本人の心性であり、そこから世界に誇るべき温泉文化が発達してきたのではないかと思っている。

 わたしは温泉における適温のような、暮らしに基づく中庸思想を改めて見直す必要があると思っている。一神教の教義は自らの絶対性に対して微塵の妥協もない。従って一神教の宗教間において、どんなに対話を繰り返しても解決を見いだすことはできない。人道主義に基づく宗教間の対話による解決は〈幻想〉でしかない。〈幻想〉に酔える時間を与えられているあいだだけは架空の平和を満喫できるが、いざという時が訪れればその〈幻想〉が弾け飛ぶ瞬間を味わわなければならない。

 

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