清水正・ドストエフスキー論全集 第六巻 目次

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清水正ドストエフスキー論全集 第六巻
今回は政治的季節の『悪霊』を紹介します。

目次
『悪霊』論  ドストエフスキーの作品世界

政治的季節の『悪霊』 

 わたしが『悪霊』について初めて評論めいたものを書いたのは二十歳の頃であるから、すでに二十年余りの年月が過ぎ去ったことになる。当時(昭和四十三、四年頃)は、まさに日本全体が「悪霊」的大騒ぎの真最中であったが、わたしはその政治的季節を、もっぱらドストエフスキーを読むことと書くことに費していた。一度、『悪霊』を読んでしまった青年が、「悪霊」的世界に積極的に関わることができるだろうか。ヘルメットと角棒で、ましてや革命イデオロギーで世界を変革できるなどとは夢にも思っていなかった。十四歳で世界の神秘と、人間の欺瞞的性格に直面して以来、わたしは常に世の動向に対し或る一定の距離を置いてこざるを得なかった。『罪と罰』を読めば、二十三歳の青年ラスコーリニコフよりも、三十五歳の予審判事ポルフィーリイに親近感を抱くような読者であったわたしは、現実の世界にあって、熱情的な行動家よりは、沈着冷静な拱手傍観者としてふるまってきた。
 ラスコーリニコフは何はともあれ、二人の女性を殺害した青年である。わたしにはその行動力がない。行動にかりたてる魔的エネルギーがない。従って、ラスコーリニコフに見られたように、殺人によって日常的時間を切断して、究極的には復活の曙光に輝くという、その栄光の途が予め閉ざされている。どう考えてみても、わたしは踏み越えの実践者ではなく、「おしまいになってしまった人間」ポルフィーリイの立場に近い。
 「おしまいになってしまった人間」という言葉に妙な感動すら覚えた十九歳の青年が、初めて『悪霊』を読んだとき、何ものをも信ずることのできない、絶望の貌を持ったニコライ・スタヴローギンに魅きつけられたのも当然である。当時わたしは二回続けて『悪霊』を読んだのだが、スタヴローギンの行動派としての側面はものの見事に読みすごして、もっぱら人神思想家キリーロフとロシアメシア思想を信奉するシャートフの思想的親玉としてのスタヴローギンの絶望的内面に興味を抱いていた。この深く絶望したスタヴローギンは結局首を吊って自殺する訳だが、どうしても、わたしには彼の自殺が理解できなかった。“絶望”とは自らの死からも見離された心的状態であり、いわば絶望者とは生の側にも死の側にも属することができず、あたかも死者のごとく生の側に縛りつけられた者、言いかえれば肉体は生の側に所属しながら、魂は死の淵にたどり着いてしまった者なのではないか。だとすれば、何故スタヴローギンは自殺できたのか……。もしかしたら、わたしはスタヴローギンを深く誤解していたのではないか。スタヴローギンは“絶望者”というよりは、“罪人”として捉えた方がふさわしいのではなかろうか、今のわたしにはそう思える。

罪の感覚 
『悪霊』の主人公 
平凡社版『悪霊』 
人物の表記法 
『悪霊』というタイトル 
『悪霊』の人物たち 
悪鬼どもとムイシュキン公爵 
ムイシュキン公爵の危険性 

ステパン先生の肖像画 
ステパン先生の精神的血縁者 
『悪霊』と『ステパンチコヴォ村とその住人』 
『失意の学徒』と少年ニコライ 
ステパン先生の都落ち 
ステパン先生とエララーシュ 
ステパン先生とヴァルヴァーラ夫人 
「学問の受難者」の理想主義 
私生児性と浮遊物的存在 
ステパン先生の警鐘 
企業心の魔 
「自分自身の労働」と」旧ロシア的たわごと」 
ステパン先生の講義内容 
ステパン先生の“神” 
ステパン先生の劇詩における汎神論的《生の饗宴》 
内在神と超越神 62

ベリンスキーとゴーゴリの往復書簡をめぐって 
四〇年代のドストエフスキー・師ベリンスキーとの関係 
革命家ドストエフスキー 
師ベリンスキーの影響と愛憎劇 
初期作品に対するベリンスキー批評 
ロシアとロシアの民衆をめぐって 
ロシアの民衆と貴族 

シャートフの思想と肖像をめぐって
シャートフとドストエフスキーの“転向” 

キリーロフの思想と肖像をめぐって 
人神思想――ラスコーリニコフ、イッポリートからキリーロフへ 
永久調和の瞬間 
キリーロフの“死”をめぐって 

ガリョフ理論をめぐって 

政治的陰謀家ピョートルの肖像――父親ステパンとの関係において
ペテン師ピョートルの“思想” 
社会主義批判とピョートルの表層的役割 
天才的な使嗾者ピョートル 
シャートフ殺害と憎悪の哲学 
謎を秘めた政治的人間の役割 
美を愛するニヒリストの道化と陰謀 
政治的道化師ピョートルの陰謀と破綻 

ピョートルの“秘密” 
秘密工作員ピョートル 
      スパイの典型 
虚無の演戯者 

偶像化されすぎたニコライ・スタヴローギン  


ドストエフスキー『悪霊』の世界
ニコライ・スタヴローギンの肖像
ニコライの精神分裂
ニコライの暴挙・スキャンダル
息子ニコライと太母ヴァルヴァーラ
ひき裂かれた自己
仮面(にせ―自己)としてのニコライの虚無
分裂病質者ニコライの不安と恐怖

太母に対する第一次反抗
太母に対する第二次反抗
太母殺しの挫折の唯一性の奪回へ向けて
ニコライの帰郷と呪縛霊ヴァルヴァーラ
美男子ニコライ
ニコライの狭量と倨傲
ニコライの現在時と空虚な内的自己
太母と息子ニコライの対決
敗残者ニコライの茶番劇
ペテルブルクでのニコライ

アントン君のニコライ観
ニコライの堕落と虚偽
ニコライの耐える意志
買いかぶられすぎたニコライ
ニコライの卑小さ
なまぬるき者ニコライ

ニコライとスヴィドリガイロフ
罪の感覚
ニコライの病理的傾向(サド・マゾ)
善悪観念の磨滅
マトリョーシャの現出・ニコライの悔恨

ニコライとヴァルヴァーラ
アントン君の注釈
描かれざる少女陵辱・セックス
ニコライとマトリョーシャ
陵辱後の足どり
神殺しの秘儀
ニコライの鏡像・マトリョーシャとヴァルヴァーラ

赤い蜘蛛
「赤い蜘蛛」と「巨大ないやらしい蜘蛛」
「赤い蜘蛛」と太母ヴァルヴァーラ
“神”を試みる実験
黄金時代の夢
楽園からの失墜
またしても「赤い蜘蛛」の現出

ニコライの実験と分裂・未だ親交は遠く
新しい犯罪
アントン君による告白の解剖
チーホンによる告白の解剖から
ニコライに赦罪は可能か
チーホン対ニコライ
チーホンの肖像・聖と俗の混交
チーホンとポルフィーリイ

罪と回心
回心と死と天国
回心の不可能と懐疑
チーホンの語られざる罪
宗教的経験の諸相(回心をめぐって)
ニコライと分身・悪霊
ニコライとチーホンの“傲慢”

スピノザの神をめぐって
スピノザドストエフスキーの人神論者達
神=自然の認識と信仰
死の勝利と復活・スピノザとイッポリート
スピノザの反キリスト教的性格とニコライ
人神キリスト・スピノザとキリーロフ
スピノザの神の認識と信仰

スピノザからサド侯爵の閨房哲学へ
道楽者ニコライ
悪徳の栄え―サド侯爵の悪徳漢とドストエフスキーの人神論者たち
サド文学の危険性(楽天性)
サド侯爵の想像力の質(神=自然との一体化)
無垢と怪物性―アリョーシャ・ヴァルコフスキーをめぐって
悪の哲学者・ヴァルコフスキー公爵
「気紛れ」と「恥さらし」
秘中の秘
悪の哲学と実践―サド侯爵とヴァルコフスキー公爵

地下男の誕生
悪の語り手
屈辱の快感―サディストになりそこなったマゾヒスト
自然の法則の二義性
「自然の神」と虚無の戯れ
醜悪な恥ずべき犯罪・地下男とニコライ
嫌悪を抱かせる穴蔵男
地下男が想定した読者
神=自然への挑戦と甘え
オルゴールの釘

神の試みから回心へむけて
ステパン先生の放浪―街道と百姓
百姓の指示―ハートヴォからウスチェヴォへ、そしてスパーソフへ
ソフィヤとの出会いと福音書
名前にこめられた意味

ルカ福音書(ゲラサの豚)と『悪霊』
「ひとりの男」とイエス―汚れた霊と神性の顕現
豚の死と生き延びたレギオン
奇蹟―悪鬼追放の一大イベント
奇蹟―おびえとメシア待望

未だ来ぬイエス
ステパン先生の回心
太母ヴァルヴァーラの呑み込み
太母とソフィヤ

神話的心理学的側面からの考察

『悪霊』の日付をめぐって―数・曜日の神秘的運命性
ニコライの運命にまとわりつく三、六、九
一八七〇年八月、九月、十月の旧ロシア暦表
『悪霊』の足取り
ステパン先生の遍歴の足取り
『悪霊』のモデル表
『悪霊』の三角関係図

あとがき


『悪霊』の謎
第Ⅰ部 『悪霊』の謎――ドストエフスキー文学の深層――

第一章 リーザの罪と罰
第二章 《征服者》リーザと忠実な騎士マヴリーキー
第三章 『罪と罰』の聖痴女
第四章 マリヤ・レビャートキナの神=自然
第五章 マリヤ・レビャートキナの聖母=大地信仰
第六章 狂女マリヤの透視と「汚れた霊」
第七章 マリヤ殺害者フェージカ
第八章 〈太母〉対〈聖母〉の勝利者に向けて
第九章 『悪霊の作者アントン君をめぐって

第Ⅱ部 坂口安吾ドストエフスキー

坂口安吾ドストエフスキー
 ――『吹雪物語』と『悪霊』を中心に
坂口安吾と地下生活者