第一部『悪霊』論の本文校正

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今日は午後からロッテリアで『悪霊』論(『清水正ドストエフスキー論全集』第六巻)の校正。ようやく第一部『悪霊』論の本文校正を一通り終えたが、まだ引用箇所の照らし合わせが残っている。校正に時間がとられ、ここ一カ月原稿を書けない状態が続いている。今回は『悪霊』の第一部所収の「偶像化されすぎたニコライ・スタヴローギン」を紹介しておく。今から二十四年前に書いたものである。

偶像化されすぎたニコライ・スタヴローギン
清水正
 二十年前に『悪霊』を読んだとき、わたしはニコライ・スタヴローギンをこの作品の第一の主要人物と思って疑わなかった。しかし今素直な印象を語ると、ニコライよりはピョートルの方が数倍も興味深いし、ニコライがシャートフやキリーロフに賦与した思想や、そういった思想のいずれをも信じられなくなったニコライの虚無自体も、それほど魅きつけられるわけではない。いわばニコライは、ピョートルやシャートフやキリーロフ等によって、ずいぶんと買いかぶられてきた人物である。極端なことをいえば、『悪霊』からニコライが消えてしまっても一向に不自然ではない。否、もともとニコライがこの『悪霊』の舞台に全く登場しなかった方がよかったのである。わたしたち読者は、あくまでも提供された噂によってハリー王子ニコライのイメージを創りあげた方が、作者が狙っていたニコライの人物像に近づいたのではないかと思う。もともとニコライ・スタヴローギンは“不在”であることに価値があったのだ。神がどこまでも永遠に、この世界に“不在”であることによって神であるように、ニコライはのこのこと故郷スクヴォレーシニキに帰ってきてはならない人物だったのである。語り手アントン君は四年前に帰郷したニコライの肖像を「それは年の頃二十五ばかりの非常に美しい青年で(略)、私がそれまでに会っただれにもまして優雅な紳士で、服装も超一流、物腰にしても、最も洗練された上流の交際になれた紳士でなければ、とても真似できないほど垢ぬけしていた」と報告しているが、このように報告されてしまうこと自体をニコライは拒否しなければならなかったはずなのである。換言すれば、作者は語り手アントン君にニコライを会わせてはならなかったのである。いったん、スクヴォレーシニキに帰郷し、そこでの社交界に復帰すれば、ニコライという人物はもはや神話伝説的次元でも、秘密革命結社的次元においても何らの神秘性をまとうことはできない。かれは奇妙な、一風変わった一人の“人間”として人々の好奇の眼に晒されるばかりである。だから、現実の舞台で一人の“漫画の主人公”を演じて見せるだけのニコライを、ロシアの救世主(イヴァン皇子)に見立てたピョートルのセリフなどは、のっけから彼の悪ふざけと見なければどうしようもないのである。
 ドストエフスキーは人物の外的描写によって、その人物の性格(賦与された役割)を読者に提示する作家である。たとえばアントン君がニコライ・スタヴローギンの相貌を「いやに黒々とした髪の色、妙に落ちつき返って澄んでいる淡色の目、やけにこうなよやかで抜けるように白い顔の色、何かこうあまりに鮮やかな頬の紅み、真珠を並べたような歯、珊瑚のような唇――一口にいって、絵に書いたような美男子なのだが、それでいて何か嫌悪感を感じさせる」と書けば、もうそれだけで読者はニコライに賦与された性格規定に呪縛されざるを得ない。その意味では作者が人物に賦与する外的相貌は意外に重要である。たとえばわたしたちは胴長短足で丸太りのラスコーリニコフを考えることはできない。もしラスコーリニコフがペテルブルク随一の美男子でなく、それとは全く逆のふた目と見られぬ醜男であったら、おそらく彼の“苦悩”も異なった受けとり方をされるだろう。
 ところで、わたしが作中人物の外的相貌に関心を持つのは、実はその外的相貌の魔力からの解放をもくろんでいるからである。もちろん、作者は創造者として作中人物の外的相貌を決定し読者に提供する権利をもっている。またそのことによって読者が人物のイメージを形づくっていくことも確かである。だがわたしたち読者はそのことを充分に踏まえた上で、人物の外的相貌を変容させる自由を持っている。ラスコーリニコフの例でいえば、別に彼が胴長短足であっても一向にかまわないということである。要は作品に対する、人物に対する読者の解釈による。ドストエフスキーがニコライ・スタヴローギンを「美男子」に設定し、ピョートル・ヴェルホーヴェンスキーを「誰にも好かれない顔」に設定したのは、作者なりの意図があったにちがいないが、何れもわたしたち読者はその意図に呪縛され続ける必要もない。作者はニコライを『悪霊』の主人公に仕立てあげるために、彼を過剰にまつりあげ、逆にピョートルを過剰におとしめている。それは作者の自由だが、読者の自由として、作者がなしたことと全く反対の設定をすることも可能である。つまりわたしが『悪霊』の映画監督だったら、ピョートル・ステパノヴィチ・ヴェルホーヴェンスキーをロシア随一の美男子として設定するつもりである。否、ピョートルには是非とも一人二役をこなしてもらわなけらばならない。
 ピョートルをニコライ・スタヴローギンに圧倒されっぱなしの小賢しい政治的陰謀家、卑小卑劣な道化とのみ見做していたのでは、この物語を真に楽しむことはできないだろう。先にも指摘したように、ピョートルはこの作品中、最も旺盛な活動家であり、最も悪霊に取り憑かれていながら最後まで生き延び続けた人物であることを忘れてはならない。この、多面的な相貌をもって悪霊の町を疾駆したピョートル・ヴェルホーヴェンスキーこそ、『悪霊』の主人公に最もふさわしいのではないか、この考えは当分かわりそうもない。
 西ヨーロッパでは法王、そしてロシアではニコライ・スタヴローギンが立つのだとピョートルは力説する。「スタヴローギン、きみは美男子ですよ」ピョートルは陶然となりながら叫ぶ。「ぼくは美を愛するんですよ。ぼくはニヒリストだが、美を愛するんです。だいたいニヒリストは美を愛さないでしょうか? いや彼らが愛さないのは偶像だけですよ、ところがぼくは偶像も愛するんだな! で、ぼくの偶像はきみなんです!(略)きみは頭領です、きみは太陽です、ぼくなんかきみの蛆虫ですよ」ピョートルはだしぬけにスタヴローギンの手に接吻する。このピョートルのセリフを文字通りに受けとれば、確かにピョートルは卑しい一匹の蝿であり道化であり、美男子ニコライに魅了されたホモ的存在にすぎまい。だが、このピョートルのセリフをそのまま鏡に映った〈自己〉に向けられたものとして受けとったらどうなるであろうか。
 確認の意味で、現実のピョートルがいかなる相貌を賦与されていたかを見ておこう。「それは年の頃二十七、ないしそれ前後の、中背というにはやや背が高く、白っぽい感じの薄い髪を長めにのばし、口もとと顎にほとんど目に立たぬほどのちぢれたひげを生やした青年であった。服装はこざっぱりして、流行にもかなっていたが、瀟洒な趣はなかった。ちょっと見たところ猫背でずんぐりした感じだったが、実際には猫背の気むずかし屋どころか、むしろさばけた男だった。/彼は醜男というのではけっしてなかったが、その顔はだれにも好かれなかった。彼の頭は後頭部のほうに長く伸びていて、両側から押しつぶしたような格好になっているので、そのために顔がとがって見えた。額は突き出ていて狭かったが、顔の造作はちまちましていた。目は鋭く、鼻は小さくとがっていて、唇は長く薄かった。顔の表情には病的なところがあったが、それはそう見えるだけのことだった。両頬の頬骨のあたりに妙に干からびたようなひだが走っていて、それが彼の顔つきに回復期の重病人のような感じを与えているのだった。しかし実際には、彼は健康そのもので、体力もあり、これまでに一度も病気をしたことがないほどだった。」これが現実の側に存在するピョートルであり、鏡に映った〈ピョートル〉は先に引用したニコライ・スタヴローギン、つまり〈絵に描いたような美男子〉である。
 わたしの読みの解釈でいけば、ニコライ・スタヴローギンはあくまでも“不在”であり続けなければいけない。従って、特に第二部第八章イヴァン皇子の章におけるピョートルとニコライの対話場面などは、これすべてピョートルの内的対話場面に変容してしまうのである。ピョートルはニコライの内部に純真とナイーヴが有することを指摘し、さらにそれ故の心からの苦悩が存することを看取する。これをピョートルの内的対話と見れば、ワライスギルクライヨクワラウ悪魔の申し子ピョートルの内部にも、純真とナイーヴと心の苦悩が存することを物語っていよう。父親ステパンがピョートルに関して「神経質な、感受性の強い……臆病な子でしてね。夜寝るときなんかも、夜中に死んだりしませんようにと、枕に最敬礼して、十字を切ったものでした」と語っていたことをここで想い出しておこう。尤も、ステパンはつづいて「つまりは、優雅な感情というか、何か高尚な、根本的な、未来の思想の萌芽になるようなものが何もなかったのですね……チイチャナ・オバカサン・デスカネ」とも語っていた。が、ピョートルが美を愛すニヒリストであることは信じてもいい。ピョートルが「チイチャナ・オバカサン」なら、父親ステパンは「オオキナ・オバカサン」である。換言するなら、ステパンのリベラリズムを極端にそのまま押しすすめていけば、不可避的にピョートル的ペテン師が誕生するのである。
 現実的次元で考えれば、ピョートルは「いったいなんでぼくがきみに必要なんです? もっと近くに来て、とくと見定めてもらいたいですね、ぼくがきみの同志という柄かどうか、それでもうかまわないでもらいましょう」をそのまま素直に受け入れる必要がある。ピョートルは「ぼくらが二人いれば十分だ」と力説するが、現実的にはピョートルただ一人がいればそれで充分である。「イヴァン皇子は実存する、だがだれも彼を見たものがない」……だとすればピョートルは何もわざわざニコライ・スタヴローギンをイヴァン皇子に仕立てる必要などどこにもなかろう。ピョートルはニコライにささやく「きみにはわかりますか、《身をかくしておられる》というこの言葉の意味が?」。言葉を発するピョートルとそれを聴くニコライが、はたしてどこまで、この「言葉の意味」を了解していたかはわからないが、わたしの読みの次元でいえば、ピョートルにとってニコライは“死者”であって一向にかまわないということ、つまりピョートルにいわせれば“ぼくはいつでもきみを殺せる”ということである。ピョートルはニコライを頭領だ、太陽だ、アメリカだなどと最大限持ち上げておきながら、同時にニコライを脅かしてもいるのである。だからピョートル・ヴェルホーヴェンスキーをただの一匹の蝿などと思っていたのでは『悪霊』の舞台は本当には幕開けしない。たとえば、ピョートルという男を深読みしていけば、ニコライ・スタヴローギンが自殺したということさえ疑わしくなってくるのである。なぜなら、ピョートルにとってニコライ・スタヴローギンは永遠に《身をかくしておられる》存在でなければならなかったからである。「いいですか、ぼくはきみをだれにも見せませんよ、だれにも。それが必要なんです。皇子は実在するが、だれ一人その姿を見た者はない、身をかくしておられる」このピョートルのセリフは冗談でも戯言でもない。皇子の姿を見せてやってもいい「十万人のうちの一人」、それはピョートル自身であって一向にかまわない。ピョートルにとって〈ニコライ・スタヴローギン〉は鏡に映った自己像、ないしは“死者”でなければならないことはもはや言及するまでもないだろう。
 意外に思われるかもしれないが、わたしがここで想いおこすことは、ドストエフスキーの第二作品『分身』である。狂気に陥った病者ゴリャートキンと分身・新ゴリャートキンの関係が、わたしにピョートルとニコライの関係を想い出させるのである。『分身』を現実的次元で読んでいけば、新ゴリャートキンはゴリャートキンの幻覚であるのだから、彼が他の作中人物に知覚されたり、ましてや彼らと関係を結べるわけがない。ところが、ドストエフスキーは『分身』を現実的次元でのみ読み解こうとする読者の思惑をおもいきりからかうかのように、意図的に“現実”と“非現実”の境界わくをはずしてしまった。かつて『分身』に関しては異様なほど詳細に論じたので、ここではくりかえさないが、ひとつだけ確認しておきたいのは、新ゴリャートキンがゴリャートキンの幻覚(自己幻視像)でありながら、こちら側の世界(現実の世界)にしゃしゃり出てきて他の人物たちとも関わりを持ってしまったということである。これをピョートルとニコライの関係に置きかえていえば次のようになる。現実の側に存在するピョートルの鏡像として、非現実の側に存在すべき〈ニコライ〉が、鏡の奥の世界(あちら側の世界)から、鏡の表面という境をまたぎ越えてこちら側の世界に出現してきてしまったということである。

 ピョートルが鏡に近づき、やがて鏡像としての〈ニコライ〉にぴったりと重なり合う。わたしの読みの次元で見れば、二人がぴったりと重なり合ったとき、二人は鏡面というゼロの地点で消失する。現実の側に存在するピョートル・ヴェルホーヴェンスキーははてしない水平線的な虚無であり、鏡の世界に存在するニコライ・スタヴローギンはいわば垂直的な(苦悩を内包した)虚無である。水平的な虚無と垂直的な虚無が結び合う瞬間こそ、鏡面という無の現出であり、無への消失である。これを小説的に間のびした時空で表現すれば、前者は急行列車に乗ってこの物語舞台から消失して行くことであり、後者は首を吊ってあの世へと消失していくということである。おそらく、ピョートルを乗せた急行列車が少尉補エルケリの視界から消えた瞬間に、ニコライの首は吊られたのである。この両者における瞬間の一致、無の現出をこそ、キリスト者ドストエフスキーは「悪霊」のなせるわざと見たのであろうか。――ピョートルとニコライの無への消失の瞬間の立会人アントン君ははたして何と言うだろうか。
 否、これはピョートルの父親、ニコライの教師であるステパン・トロフィーモヴィチに語ってもらおう。

「いやはや、漫画ですよ! どなってやりましたがね、いったいおまえは、いまのままのそんな自分をキリストの代わりに世間にすすめようっていうのかとね。ヤツハ・ワラウ・ヒドク・ワラウ、ワライスギル。」

平成元年六月十日
 『悪霊』論第一部完