清水正の『浮雲』放浪記(連載70)

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清水正研究室」のブログで林芙美子の作品批評に関しては[林芙美子の文学(連載170)林芙美子の『浮雲』について(168)]までを発表してあるが、その後に執筆したものを「清水正の『浮雲』放浪記」として本ブログで連載することにした。〈放浪記〉としたことでかなり自由に書けることがいいと思っている。
 清水正の『浮雲』放浪記(連載70)
平成△年8月27日
 「朝まで生テレビ」は、まさにハイデガーの言う非本来的現存在における頽落の三様態〈好奇心〉〈おしゃべり〉〈曖昧〉がものの見事に体現されていた番組であった。所詮、ジャーナリズムは問題を提起することはできても解決を導くことはできない。〈好奇心〉をそそるテーマをめぐって複数のパネラーが様々な主張を口にし、朝まで〈おしゃべり〉しても、結局は〈曖昧〉なままに番組は終えてしまう。
 ベルグソンは対象の本質をとらえるには直観しかなく、対象の周りに視点をいくら増やしていっても、それは対象に対する解釈に過ぎないと言った。このベルグソン哲学に深い影響を受けて批評活動を展開していったのが小林秀雄であるが、問題は〈本質〉という〈絶対〉の存在である。ベルグソンの言う〈本質〉もまた相対的なものでしかないとすれば、〈直観〉もまた対象の相対的一側面をとらえる認識手段の一つでしかないということになる。ニーチェは「ものそれ自体はなく、解釈あるのみ」と言った。普遍的・絶対不動の真理はなく解釈あるのみとすれば、「朝まで生テレビ」の出演者は〈テーマ〉に対して様々な解釈を時間制限内で投げだしているに過ぎない。時間を無限に延長しても、絶対不動の真理に到らない〈おしゃべり〉が展開されるだけである。
 〈曖昧〉なままに終わる〈おしゃべり〉の司会者田原総一郎は視聴者の〈好奇心〉を持続し刺激するために、パネラーたちに鞭を打ったり、飴玉を口に押し込んだりする名手であり、パフォーマーである。この「朝まで生テレビ」は政治経済をネタにしたバラエティ番組として見るとたいへん面白い。司会者が内なる虚無をさらけ出せば、事態は一挙に文学の次元へと突きすすむことになるが、視聴者の大半は、番組にバラエティを求めているという認識が製作者側のスタッフにある限り、テレビ番組は文学の次元に踏み込んでくることはない。
 田原総一郎の大声による挑発、一方的な断定など、パネラーたちのおしゃべりを活性化させる手練手管は見事であり、政治経済問題をバラエティの次元に定着させた功績も大きい。新聞・テレビジャーナリズムを支える者たちが、自らの虚無を本気でのぞき込めば、ドストエフスキーの『悪霊』も身近に感じるようになるだろう。それにしても、『悪霊』のピョートル・ヴェルホヴェーンスキーが抱え込んでいる虚無を問題にできるジャーナリストが出現してくるのでない限り、当分、ジャーナリズムは文学の次元に踏み込んでくることはできないだろう。

  いつか、歳月は過ぎて、夏になった。
  ゆき子は二月の終りに、一度静岡へ帰って、肉親に逢ったが、すぐまた上京して来た。池袋の家も引越して、篠原春子の紹介で、高田馬場の錻力屋のバラックの二階を借りた。ずっと富岡には逢わなかった。駅の近くで、電車の地響きが耳につくところだったが、敷金なしの、部屋代が千円というのが気に入り、静岡から持って来た行李や蒲団を運びこんで、初めて人間らしい暮しに落ちついたが、ゆき子はまだ職業を持ってはいなかった。(307〈三十七〉)

 正月に伊香保から戻って半年が過ぎ、夏になったという。二月に静岡に帰って肉親に逢ったという報告が簡単に記されている。作者はゆき子の肉親に関して具体的に書く必要性をまったく感じていないようである。ゆき子は六年ぶりに逢った両親とどのような会話を交わしたのか、母や父はどのような対応を見せたのか、読者は少なからず興味を持つだろうが、作者はいっさい関心を示さない。読者にとってゆき子の実家や肉親は何ら具象的なリアリティを持って迫って来ない。そのことが逆にゆき子の実家や肉親の不在性を際だたせることになる。
 ここで再び篠原春子が登場するが、ゆき子は彼女とどこでどのように連絡を取ったのか、彼女はいったいどのような職業についていたのかなどに関しては触れていない。富岡とゆき子の関係を丁寧に描いていた〈二十二〉章〜〈三十四〉章の濃密な描写と比べると、この〈三十七〉章の出だしの場面は余りにも密度が薄い。これは、富岡とゆき子の関係をどのように立て直すか、作者が思いあぐねていたことに因るのかもしれない。ゆき子が富岡と逢っていなかった〈半年〉は、ふつうの男女関係においては完全な別離が成立した十分な証となる。富岡とゆき子を再び〈腐れ縁〉の泥沼に連れ込むためにはいったいどうしたらいいのか。