清水正の『浮雲』放浪記(連載67)

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清水正研究室」のブログで林芙美子の作品批評に関しては[林芙美子の文学(連載170)林芙美子の『浮雲』について(168)]までを発表してあるが、その後に執筆したものを「清水正の『浮雲』放浪記」として本ブログで連載することにした。〈放浪記〉としたことでかなり自由に書けることがいいと思っている。
 清水正の『浮雲』放浪記(連載67)
平成△年8月24日
ここに書かれていることはきわめて重要なことである。まず、ゆき子が祖国日本よりも三年間滞在した仏印の地に郷愁を感じていることをどう理解したらいいだろうか。ゆき子の故郷は静岡にあること、伊庭杉夫の兄鏡太郎の嫁になった姉がおり、弟がいることは明記されている。母親が継母であるという事実は小説の終わり近くになって報告される。しかし、こと父親に関しては何ひとつ触れられることはなかった。富岡兼吾の場合も、加野久次郎の場合も、伊庭杉夫の場合も同様で、この『浮雲』という小説には父親が共通して不在である。国家次元で〈父親〉的存在を当てはめれば、とうぜん天皇ということになるが、まさに戦前戦後を舞台に小説が展開されているのに、最初から最後まで天皇は不在のままである。登場人物の誰一人として戦争の最高責任者である天皇を口にしないし、ましてやその責任問題を話題にすることもない。
 ゆき子にとって仏印での体験は圧倒的である。〈湖水、教会堂、凄艶な緋寒桜、爆竹の音、むせるような高原の匂い〉これら仏印の景観を思い浮べ、郷愁にかられるゆき子にとって、敗戦後の日本における貧しい生き方は息苦しく我慢がならない。もともと日本の〈故郷〉静岡を捨てて東京へ出てきたゆき子には、親密な思いを寄せる家族もいなかった。描かれた限りで見れば、富岡兼吾のみが親密な関係を持った唯一の人間ということになる。伊庭やジョオと肉体関係を結んでも、やはりゆき子は富岡の肌を忘れることはできない。
 仏印のすばらしい景観と富岡の肌は切り離せない。ゆき子にとって仏印の景観に激しく郷愁を抱くことは、同時に富岡との悦楽の日々を恋しく思う気持ちとぴったり重なっている。「富岡の皮膚の感触がたまらなく恋しかった」と作者は書いている。こんなに富岡を恋しく思うゆき子が、はたしてこのまま富岡と別れて、ひとり東京の砂漠で生き抜いていくことができるだろうか。作者の内で再びゆき子と富岡の再会と新しいドラマを展開させようという思いが芽生えてきた感じがする。

 贅沢さは美しいものだということも知った。ランビァン高原の、仏蘭西人の住宅からもれる、人の声や音楽、色彩や匂いが、高価な香水のように、くうっと、ゆき子の心を掠めた。林檎の唄や、雨のブルースのような貧弱な環境ではないのだ。のびのびとして、歴史の流れにゆっくり腰をすえている民族の力強さが、ゆき子には根深いものだと思えた。何も知らないとはいえ、教養のない貧しい民族ほど戦争が好きなものはないように考えられる。この地球の上に、あのような楽園がちゃんとあることを、日本人の誰もが知らないのであろう……。(307〈三十六〉)

 戦時中、資源の乏しい日本は「贅沢は敵だ」をスローガンに国民総動員で連合国軍との必死の戦いを続けた。が、日本の主要都市は悉く空襲され、原爆まで投下されてついに降伏せざるを得なかった。敗戦後、サトウハチロー作詞、万城目正作曲、並木路子唄の「林檎の唄」は爆発的にヒットし、打ちひしがれた敗戦後の日本人の心を和ませ勇気づけた。またブルースの女王と称された淡谷のり子が切々と哀愁をこめて歌う「雨のブルース」もまた大ヒットした。戦時中は敵国アメリカの歌や、戦意を喪失させるような歌は悉く禁止された。芸能人は慰問団を結成、各地に派遣された。祖国のために戦う兵士たちのために歌い、踊り、笑わせた。おそらく当時の日本人の大半は「林檎の唄」や「雨のブルース」を心の底から素直に受け入れたに違いない。が、仏印に滞在して「贅沢さは美しいものだ」という認識を持ったゆき子には、これらの歌を受け入れる、敗戦後の日本の〈貧弱な環境〉は受け入れがたかった。ゆき子はランビァン高原に暮らす仏蘭西人に〈のびのびとして、歴史の流れにゆっくり腰をすえている民族の力強さ〉を感じている。そして日本に対しては戦争好きな〈教養のない貧しい民族〉と見なしている。

 贅沢は敵だという、戦争中のスローガンを思い出したが、贅沢が敵であってたまるものではないのだ。五月から十月へかけての雨期をさけて、仏蘭西人がりくぞくとランビァンの高原の街へやって来た。あの生活のエンジョイの仕方が、終戦になった現在では、もっと美しく、もっと華々しく展開されているに違いない。サイゴンから二百五十キロのランビァンの高原は、さながら油絵のように美しかったものだ。ランビァンのすばらしいホテルや、別荘住いができないものにも、河内近くのタムダオや、ビンや、ナベの高原に仏蘭西人はぞくぞくとやって来ていた。戦争の話なぞには何の興味もない、自分たちの生活を愉しんでいたものである。ランビァンの野山は、仏蘭西人にとっては、絶好の狩猟地でもあった。ゆき子は、富岡との散歩で、よく狩猟家の自動車隊に行きあったものであった。(307〈三十六〉)