清水正の『浮雲』放浪記(連載66)

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清水正研究室」のブログで林芙美子の作品批評に関しては[林芙美子の文学(連載170)林芙美子の『浮雲』について(168)]までを発表してあるが、その後に執筆したものを「清水正の『浮雲』放浪記」として本ブログで連載することにした。〈放浪記〉としたことでかなり自由に書けることがいいと思っている。
 清水正の『浮雲』放浪記(連載66)
平成△年8月23日
 『浮雲』が最初に発表された「風雪」(第三巻第十号。昭和二十四年十一月一日。六興出版社)の編集後記に「「浮雲」は、最近益々見事な円熟ぶりを示す林芙美子氏が、終戦後初めて執筆された長篇問題作である。安南の地にくりひろげる抒情味豊かな氏の筆致は、流転する人生への郷愁と共に、読者の心に深い感動を呼び起すであろう。約八0枚づつ四回連載される予定である」と記されている。一回につき八0枚で四回連載となれば、当初『浮雲』は三二0枚で完成の予定であったはずである。ところが四回連載のはずが、実際は「風雪」の最終号(第四巻第八号。昭和二十五年八月一日)に〈第十回〉を掲載している。
 ここで「風雪」に連載したものをまとめておこう。

浮雲』(第一回)
第三巻第十号(昭和二十四年十一月一日発行)
表紙に「小説『浮雲』80枚 林芙美子」とある。
一〜十一 5頁〜29頁 (約90枚弱・印刷された活字数を四百字詰原稿用紙に換算、以下同)
浮雲』(第二回)
第三巻第十一号「十二月特別号」(昭和二十四年十二月一日発行)
十二〜十四 97頁〜108頁(約40枚強)
浮雲』(第三回) 
第四巻第一号(昭和二十五年一月一日発行)
十五〜十八 164頁〜180頁 (約60枚弱)
浮雲』(第四回)
第四巻第二号(昭和二十五年二月一日発行)
十九〜二十一 144頁〜156頁(約45枚)
 編集後記に「林芙美子氏の長篇「浮雲」は第四回目を迎えて、早くも大きな波紋を投じている。常に人生のデッサンであると語る氏の激しい意欲は、読者の心に深い感銘を与えるであろう。大体五月号まで続けられる予定である」と記されている。
浮雲』(第五回)
第四巻第三号(昭和二十五年三月一日発行)
二十二〜二十五 144頁〜155頁(約40枚)
浮雲』(第六回)
第四巻第四号(昭和二十五年四月一日発行)
二十六〜二十九 137頁〜147頁(約40枚弱)
浮雲』(第七回)
第四巻第五号(昭和二十五年五月一日発行)
三十〜三十三 136頁〜148頁(約45枚)
浮雲』(第八回)
第四巻第六号(昭和二十五年六月一日発行)
三十四〜三十五 141頁〜147頁(約25枚)
浮雲』(第九回)
第四巻第七号(昭和二十五年七月一日発行)
三十六〜三十九 132頁〜144頁(約45枚弱)
浮雲』(第十回)
第四巻第八号(昭和二十五年八月一日発行)
四十〜四十一 頁〜頁(約20枚強)
 編集後記に「林芙美子氏の長編「浮雲」は連載以来多くの反響を呼んで居りますが、今月を以てその上巻を終り、次号より第二部として更に描かれることになって居ります。この作品は氏の作家生活の上にも大きなピークを示すもので「放浪記」に次ぐ代表作として、完成した暁は一層の声価をもたらすものと思われます」と記されている。

 これでわかるように、『浮雲』は当初の予定枚数を大幅に越えて連載された。しかも「風雪」で四百五十枚を費やしたのは第一部ということで、第二部は発表舞台を「文学界」に移して連載されることになる。当初予定していた三百二十枚で完結するためには、ゆき子が池袋の小舎に若い外人兵士を連れ込んで新しい人生に踏み出した時点で幕を下ろすしかない。しかし林芙美子はここで幕を下ろすことができず、次に考えたのが富岡の自殺ないしは富岡とゆき子の心中である。しかしこの時点でも林芙美子は『浮雲』の幕を下ろすことができなかった。
 すでに指摘したように、富岡の考えた自殺および心中は彼の妄想の域を越えることはなかった。ゆき子はどんなに絶望的な状態に置かれても、本気で死ぬことを考えるような柔な女ではない。ゆき子は富岡の心中妄想の風船を針のひと刺しで破裂させる女であって、富岡の心中妄想に自分の思いを重ね合わせるようなロマンチストではない。林芙美子が富岡の自殺や心中、およびそれに添えなかった我が身を責めるゆき子を描いている場面はまったくリアリティがない。林芙美子がそのことに気づいていなかったはずはない。二人は結局死ぬことができず、ふたたび生き延びてしまう。しかし伊香保で死ねなかった富岡はおせいと出会うことで再生の道に踏み出すかに見えた。もし林芙美子が、富岡とおせいの関係を重視すれば、とうぜんのこととしてゆき子は背景に退いていくほかはない。
 しかし、林芙美子は『浮雲』を富岡とゆき子のどん詰まりの関係から、再生を賭けた富岡と若いおせいの関係に横滑りしていくことはなかった。その第一の理由は、ゆき子とおせいの近似的な性格にある。富岡とおせいの関係をきめ細かく書いていくと、富岡とゆき子の関係に重なるところが多く、富岡の〈再生〉に期待することはできないことになる。しかも、ゆき子にはダラットで富岡と関係した濃密な三年間が存在する。その体験の密度に匹敵するものをはたしておせいは持ち得るであろうか。それやこれやを考えて林芙美子は、再び軌道を修正して、富岡とゆき子の関係に焦点を戻すほかなかったのではなかろうか。作者としては、富岡とゆき子の関係を全うさせたいという気持ちもあったことだろう。
 が、今はまだその時点にまで達していない。〈三十六〉章の時点では、ゆき子の南方での思い出を描き、音沙汰のない富岡を過去の冥府へと埋め込むことで、幕下ろしの準備段階に入ったと考えられる。さて、どういう展開を見せるか。

 悠々とした景色のなかに、戦争という大芝居も含まれていた。その風景のなかにレースのような淡さで、仏蘭西人はひそかにのんびりと暮していたし、安南人は、夜になると、坂の街を、ボンソアと呼びあっていたものだ。ボンソアの声が耳底から離れない。(306〈三十六〉)

 こういう描写を読むと、ゆき子(作者の林芙美子も含めて)のような女は、日本のような狭い国土に押し込めようとしてもはみ出してしまう大きさ、豊穣さを備え持っていたように思える。知らなかったのならばまだしも、仏印の広大な奥深く華やかな自然と、そこに生きる人々の鷹揚な豊かさを知ってしまった者にとって、敗戦後の日本の姿は余りにも貧弱で、故郷はむしろ仏印にあるぐらいの感じであったのだろう。仏印の深い緑の森の奥にこそ富岡やゆき子のさすらう魂の求めるもの、魂の故郷があったのだろうか。「悠々とした景色のなかに、戦争という大芝居も含まれていた」という言葉が強烈だ。ゆき子にとって戦争は〈大芝居〉に過ぎない。ゆき子は国家存亡を賭けて戦い、広島・長崎に原子爆弾を落とされて幕を下ろした〈大東亜戦争〉という〈大芝居〉をも平然と呑み込んでしまう仏印の〈悠々とした景色〉を背景に、富岡との命がけの〈芝居〉を演じていたというわけである。
 ひそかにのんびりと暮らしていた仏蘭西人、夜になると坂の街をボンソアと呼びあっている安南人……日本が戦争に勝てるわけがない。

 自然と人間がたわむれないはずはないのだ。湖水、教会堂、凄艶な緋寒桜、爆竹の音、むせるような高原の匂い、ゆき子は瞼に仏印の景観を浮べ、郷愁にかられてゆくと、くっくっとせぐりあげるように涙を流していた。もう一度、あの場所が恋しいのだ。こんな貧しい生き方は息苦しい。ダラットの生活は、もう再びやっては来ないと思うにつけ、富岡の皮膚の感触がたまらなく恋しかった。(306〈三十六〉)