清水正・ドストエフスキーゼミ・第三回課題

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清水正ドストエフスキーゼミ・第三回課題
プリヘーリヤの手紙を読んで

プリヘーリヤについて
篠原 萌

 プリヘーリヤはマルメラードフのようにこいつは豚だと思えるようなインパクトも無い。ロジオンのように俺頭良いだろアピールうざいな、だとか感想を持つことも無い。強いて言うなら、何となく不思議なことをする人だなと思った。というかただ単に私とは全く違う行動をとる人で、理解できないのだけれど何故理解できないのかもわからない。マルメラードフのように全く理解のできない酷いエピソードがあるわけでもない。いまいち得体の知れない人、といった印象であ
る。
 手紙の中で、「貧しい生活を経験したことのある娘をもらいたいと思っていた」とルージンが言っていたことを書いていた。フォローを入れているけれど、ならばそもそも書かなければ良い話である。この箇所が無くても手紙に何の差し支えも無いし、有ったら有ったでロジオンのルージンに対する好感度が下がるだけである。彼の性格はわかっているだろうに、何故この文を書いたのだろう。ロジオンがそう気にも留めないと思ったのか。ただでさえ疑り深い性格だろうし、妹を侮辱しているともとれる発言だ。母親であるプリヘーリヤはそんな彼の性格をわかっているだろうし、見逃すなどとは思っていないだろう。
 彼女の手紙は、ルージンのことを褒めているように見せかけて評価を落とすようなエピソードも書かれている。見栄を張られる方だと言ったり、それほどルージンに対して良い印象を持っていないのかな、とも思える。もしかしたらプリヘーリヤはわざとそのように書いた可能性もある。「こんなに褒めて書いてるけれど、本当は良い印象を持っていないのよ。でもあなたの妹はあなたのためにそんな人と結婚するのよ。だからあなたは頑張りなさい。」こういったメッセージを隠すためにあのような書き方をしているのかもしれない。どちらにせよ、彼女の息子に対する期待は妹の幸せ以上に価値があるということは間違いないだろう。
 プリヘーリヤの息子へ対する期待というものは理解ができる。自分が生んだ大事な大事な我が子に期待するのは当たり前とまでは言わないが、大抵の場合はそうするだろう。その子が優秀ならばなおさらだ。私はまだ子供がいないので、彼女の心境が完璧にわかるわけでもない。だがもしも私が子供を生んで、息子が成長してレベルの高い大学に行き、その後お金が無くなって勉強して無いとわかったのなら大層ショックを受けるだろう。あんなに優秀な我が子に何があったのかと、一日中悩み通すと思う。もしもう一度頑張ってくれるのならその為には何だってしてやりたいと思うし、借金してまでも仕送りするかもしれない。だからといって、その息子の妹を犠牲にするかどうかは別である。娘が優秀じゃなくとも(ドゥーニャは優秀なようだが)大事に思うだろうし、息子のために使おうとは
思わない。だがこれはただ私がパソコンの前で考えていることであって、実際にプリヘーリヤと同じ場面に直面したらどのような行動をとるだろうか。大事な息子と娘を天秤にかけてしまうかもしれない。今後、どんどん地位が上がっていく可能性のある息子。娘も了承している。他に良い方法も無い。自分は息子に勉強を続けてほしいと思っている。嫌だとは思いつつも、プリヘーリヤと同じ行動をとってしまうかもしれない。ただ一つ違うのはプリヘーリヤのようにこんな手紙を送りつけることはできないだろうな、といった点である。娘に申し訳なくて、相手がどんな人だとか書くこともできずに結婚の報告だけするだろう。相手はちょっと無遠慮なところがあってどうだとか、可愛いロジャーは将来共同経営者になるのよだとか書いてる辺り、なかなかプリヘーリヤは図太い人だと思う。これ
は天秤にかけた結果、妹よりも兄の方がはるかに重かったという現われなのかもしれない。
 何となくプリヘーリヤの行動は理解出来なくもないし、多少は私と似ている部分もあると思う。彼女はきっとは見て見ぬふりをした人なのだろう。「あの人と結婚しなさい」と言ったようにはとれないし、ただドゥーニャが結婚を決めたのを見守ったのだと思う。いじめっこといじめられっことその他のクラスメイトといった構図と似ている。彼女はクラスメイトの立場である。いじめがあるのは知っている。だけど見ないふり。知らないふり。それと一致すると思う。いじめの場合は自分に火の粉が降りかかって欲しくないから。プリヘーリヤの場合は愛する息子をどうにかして元の地位まで戻してやりたいから。だからドゥーニャが辛い選択をするのを止めなかった。傍観者の立場を決め込んだからこそ、あのような手紙を書けたのかもしれない。だから私は安全な位置から見守る彼女をなかなかずる賢い人だなと思うし、そこは私と似ていないなと思う。個人的に彼女のことは嫌いだとは思わないけれど、仲良くしたいとは思わない。娘を売るようなことはもしかしたら自分もしてしまうかもしれないけれど心情的には許せないことだし、まず何より傍観者たる彼女の狡猾さが鼻につくからだ。もし私がプリヘーリヤと同じ立場に立ったのなら、彼女のようにならぬよう火の粉を被ってみたいと思う。

プリヘーリヤの手紙を読んで
小山咲来

「可愛い子は崖から落とす」なんて言葉がある。親は子供を大切に思うあまり、危険を冒させる。危険を教えることで子供に自分の身を守ることを教えるのだ。さて、ラスコーリニコフは私が解釈するに『大学に行くための一人暮らし』という『崖の下』に息子を『落とした』のだと思うのだが、手紙を読むとよく崖に落とせたなと思ってしまう。私からすれば彼女はあまりに子煩悩である。そして実はラスコーリニコフを期待で押しつぶしてしまう母親だとも思う。『私たちの希望の星』。プリヘーリヤは手紙の中でラスコーリニコフをそう呼ぶ。私が母にそんなことを思われていると知ったらかなりのプレッシャーになるだろう。本人のラスコーリニコフは希望どころかぼろぼろなのに。それにラスコーリニコフの妹なんか『天使』と言ってしまっている。心の中だけでそう思うのはかまわないが・・・・・・。
そしてどうやらプリヘーリヤは信仰心の強い女性のようだ。手紙の最後に神への祈りを捧げているか、神を信じているか、不信心にとりつかれていないかを執拗に確認している。そういう人だからこそ息子に大きな期待を寄せ、娘を清らかなものに例えているのか(決して偏見ではない)。そういう女性はイメージとして頑固で、自分が信じた教えにしか従わないというものがある。手紙を読むとなんというか、自己中心的ではないが、やはり自分が間違いないと思ったことは誰の意見も聞かず、すぐ実行してしまうところがあるらしい。しかもやたらいいわけがましい。どうしようもなかったとか、それしかなかったとか、そんな言葉を含んでいるように思えるところが多々ある。妹の結婚の話ではとくにそれが強いと感じる。あと涙もろい。きっとラスコーリニコフもこの涙もろさを受け継いでいるに違いない。涙もろいというか・・・感受性豊かだ。手紙の文章の内容を、あそこまで感情豊かに書けるのだから。でもやっぱりそんなところも、ラスコーリニコフは受け継いだのかもしれない。
後は空想好き、というところだろうか。夢を見て、実現するのをただ待つ。それこそその夢が叶った時なんかは、『神のお導き』だとか『神のご加護』とでもいいそうである。ここは信仰心が強い、というところに結びつくのではないだろうか。それにしても外国文学では主人公の母親や妹、ヒロインの傾向にあると思う。気のせいだろうか。
私がプリヘーリヤに一番好感を抱いたところは、繊細で細かいところによく気がつくという、いかにも母親らしいところだ。妹の結婚のいきさつを事細かく、十分すぎるくらいに書いている。そんなところに、私はプリヘーリヤからラスコーリニコフへの愛情を感じた。ラスコーリニコフも母をたいそう愛している。しかもそれを否定しない。はっきり素直に母を愛している。これもプリヘーリヤの愛情の賜物ではないだろうか。
ここまでプリヘーリヤについて書いてきたが、私なりの彼女のイメージとしては、清楚でか弱い。細く骨に皮が張り付いたような指にいつも十字架を握りしめている。手紙二枚にぎっしり文字を書くくらいだからきっといくつか指にたこができているんじゃないか。こんな感じだ。
ラスコーリニコフを深く愛し、信頼し心配し、期待をよせている彼女は、もしかしたら、いやきっとラスコーリニコフの悩みの種なのかもしれない。もちろんプリヘーリヤはそんなこと、微塵も思っていないだろう。彼女は自分が思っているよりも遙かに大きな思いをロジオンに与えすぎているんじゃないか。ラスコーリニコフがこの作品の中で葛藤する時、きっと母の面影もあると思う。ラスコーリニコフは普通の人間なのだ。それをプリヘーリヤにはわかっていて欲しいと願う。
私の中では、このプリヘーリヤは『高貴で汚れないもの』のひとつになっているんじゃないかと思う。何も知らず、神を信じ、そんな存在だからこそ罪を犯したラスコーリニコフを苦しめているんじゃないだろうか。そうだとしたら、息子を思っている母親としては、かなり不憫だ。
一人で子供二人を育ててきた、苦労の多い人だ。神に祈るのも、息子を頼るのも仕方がないと言えばそうなのかもしれない。でも私の母親が彼女だったら・・・・・・恐ろしいことになっているに違いない。あまりに愛にあふれ、過保護な扱いは耐えられない。きっと大人になるもっと前に、プリヘーリヤを泣かせているだろう。私はどうも信仰心の強い女性がダメなようだ。
私は母から手紙をもらったことがないので、手紙のシーンはあまり共感して読めなかった。でも改めて何回も読み返してみると、母親がどれだけ大きな存在で・・・・・・そしてどれだけ恐ろしいのかわかる。なんだか読んでいるうちにこっちが彼女の思いに飲み込まれそうになるのだ。直接読んでいるラスコーリニコフですら泣いてしまうくらい感情が込められている。彼の母親はとてもか弱そうなイメージだが、本当は強い存在感のある人なのかもしれない。

息子から離れられない母親

福田 紋子

プリヘーリヤの手紙を読んで、なんだかロジオンがいたたまれなくなった。
プリヘーリヤは「ロジオンは優秀な子だから、こういうことはしないよねっ、こんなことすぐにできちゃうんだよねっ、何をするにしても考えをもっているんだよねっ・・・」って自分のなかのロジオン理想像を勝手に信じているだけで全然ロジオンのことを分かっていない。
だからロジオンにとって母親の過度の期待はすごく重荷。
期待するってことは裏をかえせば、相手が思い描いた理想になれって命令されているのと一緒だからロジオンはこれまでとても窮屈な思いをしてきたんだろう。
しかも、プリヘーリヤにとってロジオンは期待の星であり、わたしたちの希望。
つまり、ロジオンがすべて。
ロジオンにとっちゃどれだけ重い精神的苦痛だろう。
子供自身のやることなすことに子供の本心なんてわかってないくせに母親が本当はこうなんだよねと勝手に解釈を加えてしまっているこの状態を窮屈に感じず、精神的に参らない子供がいるだろうか。
しかもロジオンはもう青年という年頃。
自立して一番自由に走りまわっていたい年頃である。
それなのに母親がいつまでも自分を解放してくれない。
ロジオンの性格がゆがんでいる一因に母親のこともあると思う。
母親から期待されている自分と現実の自分を比較して卑屈になってしまっても仕方ない。
母親の期待に応えられなきゃ心配される。
怒るでもなく、心配するという形式をとっているのがプリヘーリヤの性質の悪いとこだ。怒るというなら、怒られる側だって逆ギレなりなんなりできるのに、心配されちゃあこっちが折れて、そうですねというしかない。
しかし、ロジオンが手紙を読んでいる時点ではもうかなり自嘲ぎみで、なんだかもう期待されている自分と現実の自分が違い過ぎてふっきれているような感じがした。
久しぶりに手紙が来て、「ああ、このひと本当に俺のことわかってないんだ・・・」って再確認した気がした。
母親のプリヘーリヤは子離れが全然できていないが、ロジオンのほうはもうふっきれていて自分のことは放っておいてほしいという感じが読み取れた。
遅めの反抗期の到来を感じた。
私は期待されることがあまりないため、こう常々期待されているヤツってのは羨ましくもあり、ちょっとかわいそうな気持ちにもなる。
確かに期待されるっていうのは成功する可能性を秘めているからされることであるから、嬉しいことだ。そう考えると、期待は喜びだ。だけど、人間はコンピュータじゃないんだから失敗もする。そう考えると、期待は重荷だ。成功したとき、その喜びは自分だけのものじゃなく、もっと大きなものとなり、最高の気分になる。しかし、失敗したとき、その重荷は一人で負わなければいけなくて、最悪の気分になる。
つまり、勝つか負けるかで大分違うのだ。
対して、期待されないっていうのはどうなるだろう。成功すれば意外だな、
失敗すればああやっぱり、で済む。喜びも少ないけど、重荷も少ない。安全地帯である。
私が考えるに、期待されるヤツはギャンブラーで、期待されないヤツは小心者というイメージがある。期待には才能の良し悪しもあるけど、なんか自信ありげにふるまっていれば中身空でも期待できるヤツのようにみえて期待されるってこともあるから。
要は度胸。期待され続けるヤツってのはハートが強いと思う。
期待されても押しつぶされずにそれを力に変えていける強いハートの持ち主が期待されるヤツだ。ロジオンは本当は小心者なのに、母親から期待されるヤツだと言われ続けたおかげで、彼はそうだと信じ込んでしまっているようにみえる。
だから、自分は非凡人なんて考えをもってしまったんじゃないだろうか。
なんにせよ、この親あってこの子ありだ。
ロジオンが異常なのはプリヘーリヤが異常だからである。
自分の子だから溺愛するのは当然だが、文面を見るに愛しすぎてロジオンの汚い部分を見ようとしないで、ロジオンにすべてをゆだねるプリヘーリヤはちょっと異常である。
だから、私はプリヘーリヤのような親が苦手である。
こういう親は現代でもよく見かける。
「○○君(ちゃん)はいい子」という固定概念をもっていて、その子供が悪いことをしても自分の子供の非を認めない親。
子供を守っているようで、その実その子は将来はとんだわがままに育ってろくな大人になりゃしないと思う。
本当にドフトエフスキーは現代にいてもおかしくないほど、現代になじみやすい登場人物達がででくるから不思議だ。
ドフトエフスキーはタイムマシンでも持っていて現代をみてきていたのかもなあなんて思ってしまう。
私は親になったことないからわからないけど、子供を愛しすぎるってのも罪だし、全然愛さないのも罪だと思った。子供が育つためには愛情と、ちょっぴりスパイスが必要なような気がする。成長するには試練のようなものをクリアしていかなくてはいけなくて、それを親が見守っているのはいいけど、手や口をだしてはいけないと思う。


プリヘーリヤの手紙について

櫻井遥日

 第一巻内で、私にとって読みにくかった“難所”の一つが今回の課題のテーマに当たる「プリヘーリャの手紙」本文でした。16ページにも渡ってつづられる近況報告の文はメリハリが感じられにくく、何度となくこの中で本を閉じましたが、読み終えてプリヘーリヤ・ロマーノブナ・アレクサンドロブナという人物に感じたことは、「彼女は作品内で最も凡人くさい人間の一人なのではないか」ということです。
 私は彼女に、ラスコーリニコフが主張するところの凡人らしさ――もっと言えば“従属する立場の人間らしさ”を感じました。というのも、彼女の手紙を読み返したところ、逐一・終始、子供達やルージンや果てはドゥーニャを貶めた人々までに向けたフォローで埋め尽くされていることに気がついたからです。さらに自らが評する人を貶めないようさんざん注意を促しておきながら、それでいて自分自身に対してはなんとも自信なさげな、年寄りのわがままだなんていって謙遜するような腰の低い態度を示しています。後にルージンに対し怒りをぶつけるシーンもありましたが、彼女は清水先生のいうところの「ふみこえ」をしていない人物なのではないかと思いました。うがった見方をすれば、(そこに少しでも意図があったと断言できるほど研究していないので分かりませんが)様々の利益の上に娘を結婚という形で売りだしたことがそれに当たるのかもしれませんが。
 そしてこの性格は、ひょっとすると後天的なものではないかと私は考察します。つまり彼女のこの他人本位な姿勢は、彼女の子供達によって形成されたものではないかと思うのです。手紙の中でもまたラスコーリニコフに直接会いに来た時も、彼女はよく言えば子供の意見を尊重し、悪く言えば鵜呑みしすぎて振り回されています。彼女の子供達への愛情は、ともすれば依存に近いものかもしれません。しかしラスコーリニコフドゥーネチカの性分が母親譲りの物ではないとすれば一体何によって形成されたのでしょうか。作中には登場しない父親の遺伝なのか、少し気になるところではあります。
 最後に蛇足ですが、個人的に注目したいのは、プライドが高く自己主張が激しいキャラクター達の中で、プリヘーリヤの性格が現代の閉塞的な日本人に、もっと言えば日本の若者の傾向に通ずるところがある様に思えるところです。表面的には腰を低くし謙遜な態度をとりつつ、プリヘーリヤの手紙のように言葉の端々にちくちくと刺すような文句を潜ませる。慇懃無礼でどこか心の距離を感じる他人行儀なところに、不謹慎ながら私は身近なものを感じました。


プリヘーリヤの手紙について

大崎帆南

普段、滅多に読書をしない私は罪と罰を長時間続けて読むことができず、読んでは休みを繰り返していた。しかし、切りの悪い場面で本を閉じてしまうと話の展開がわからなくなってしまうので、できるだけ切りの良いところで区切るよう心がけていた。そんな中でてきたのがこの、母プリヘーリヤから息子ロジオンへの手紙の一節だ。長々しい文章が続いていたところに改行、少しの空白。そして『なつかしい私のロージャ』という文字。プリヘーリヤからの手紙はロジオンの気持ちだけでなく、私の気持ちも踊らせた。「お母さんからの手紙か、少し息抜きができるなぁ。」そう思ったのだ。しかし読み進めるとそれは何とも私の見当違いであった。プリヘーリヤから、ロジオンに向けて綴られた手紙は、私にとって最早手紙の度合いを超えていた。
岩波文庫から出ている江川卓訳の罪と罰で約20ページ。
あまりに長い手紙である。長い間連絡をとっていなかった人に対してでも、私は多くて便箋3枚くらいしか書けないように思う。あれほど長い手紙を受け取ったことも、テレビなどで見たこともない。あれは本当に手紙だったのかと今でも妙に思う程だ。しかし私は上で述べたとおり切りの良いところでしか区切りたくないのだ。読むしかなかった。一気に。
そのこともあってか、プリヘーリヤの手紙に私は良い印象を持っていない。好意的に捉えられなかったのだ。(なんとも皮肉な話だが。文学を学ぶ者としてどうなのかと自分でも思う。)
 プリヘーリヤの文は全体的に弾んでいるように思えた。息子に良い報告ができることを本当に待ち望んでいたのだろう。また、少しの間手紙を出せず、息子の様子を知ることができなかった、通じあえなかった寂しさが、ロジオンが手紙を受け取ることで埋まると思っているようにも私は感じた。
お金の工面ができそうなこと、ドゥーニャの周りで起きていた面倒事が片付いたこと。それから、妹のドゥーニャの婚姻。それによって得られる安定した生活。ロジオンへの支援。
手紙の内容を大まかに並べてみると良い知らせばかりだ。
陰気な暮らしをしていたロジオンに舞い込んだ明るい知らせ。私も共感し、ロジオンと共に晴れた気持ちになるだろう。
それなのに何故私がこの手紙に不快感を示したか。それはプリヘーリヤの言い回しだ。要件にたどり着くまでが長く、回りくどい。また、逐一反応がわざとらしく、鬱陶しい。すごく幼稚に思えて、とにかく読みにくい。(ただプリヘーリヤがにこにこしながら筆を走らせている様子は容易に頭の中に浮かんでくる。)
そのうえプリヘーリヤの手紙には胡散臭さが漂っている。私たちが得た良い出来事も全ておまえ(ロジオン)のため、おまえが出世するため、安定した暮らし、支援を受けるため。と何とも恩着せがましい雰囲気が私に嫌悪感を与えた。親が子供のためにと献身的に動くことは現代でも当たり前のことだ。しかし、プリヘーリヤの言い回しはどこか胡散臭いのだ。(完全なる偏見だが。)それに人生の全てが息子中心に動いているような母親は考えものではないか。子供から見ても自分の親には日々充実した毎日を送ってほしいし、親の幸せを願っているのだ。加えて、ロジオンに伝えなくてもいいであろう事がプリヘーリヤからの手紙には事細かに書いてあった。例えば『年金を抵当に人から借りてどうにかお金を工面した。』だとか、『おまえに送るためのお金を、ドゥーニャが借金したために辱められている働き口を辞めることができなかった。』だとか。ロジオンが全てを知ったら心配するだろう。遠慮するだろうと気を遣いながらも、すっかり書いてある。まったく理解できない。
ロジオンが手紙を読み終わり、涙を流しながら、母と妹の自己犠牲に苦しむところを、妹の婚姻相手に嫌気を感じているところを、なにも相談なしに話を進めたことに腹をたてていることを、プリヘーリヤはあざ笑っているような気さえ私はしてくるのだ。
挙句の果てにはプリヘーリヤとロジオンは愛し合っている振りをしているのではないかと思えてきてしまう。
まったく私の思考も歪んでいるように思えるが、それは私の家庭が安定していて、ロジオンの家庭環境を主観的に捉えることができていないからだろうか。
まだ罪と罰の上巻までしか読んでいないので、家族が今後ロジオンにどのように関わっていくのかわからない。しかし今の時点で私のプリヘーリヤに対する印象はひどい。
打算的で、恩着せがましく、鬱陶しい。どうしてここまで悪い印象がついてしまったのか自分にもわからない。ドゥーニャに対してはそんな風に微塵も感じていないのに。私の苦手な女性像そのままだったのだろうか。文体がそこまで鼻に着いたのだろうか。何れにせよ上巻以降プリヘーリヤが登場するかどうかはわからないが、私のこの劣悪な印象を覆してくれることを小さな楽しみにでもしておこう。

プリヘーリヤの手紙を読んで プリヘーリヤについて

渡部菜津美

まず私は、プリヘーリヤに「あなたはほんとに子どもたち愛しているのですか?」と言いたいです。
ラスコールニコフへの長い手紙には確かに愛情を感じるものはあります。
仕送りをしてあげたくてしょうがない、連絡できなくて気が狂いそうだったなど、内容も一見「あなたが愛しくて愛しくてしょうがないわ!」というふうに聞こえるけれど私はそうは思いません。
むしろ、この手紙はどこか言い訳がましくも聞こえます。
「あなたのことを私はこんなに愛しているの!だから理解って!信じて!」
ラスコールニコフにそう訴えているようです。
本当に息子を愛している母親がそんなふうに手紙に書くでしょうか。
プリヘーリヤは息子を愛していないとは言いません。
ただ、プリヘーリヤの愛は本当の愛ではないように思います。
ではなんなのだと聞かれると、例えるならそれは彼氏に浮気がばれた女のような心境に似ているものがあると思います。
「本当に好きなのはあなたなの!信じて!」
プリヘーリヤのラスコールニコフへの感情はまさにこういったものなのではないでしょうか。
それに、長いてカビの内容の、妹ドゥーネチカについてのこと。
「彼女は天使よ」だとか「なんて心の奇麗な女の子なのでしょう」など褒めちぎっているのにも、やはりどこか違和感を感じます。
自分の自慢の娘なのだからもちろん褒めちぎって当たり前でしょう。
しかし、手紙の中でこの言葉を何度も連呼しすぎではないでしょうか。
これは、私からするとやはり「私は娘をこんなに愛しているのよ!」という自己主張の訴えにすぎないように思います。
プリヘーリヤはなぜそんなに自分が子供たちを愛していると理解してほしいのか。
それはもちろん自分が愛されたいからでしょう。
私はこのラスコールニコフへの手紙を読んで、プリヘーリヤは愛に飢えた寂しがり屋なのだという印象をうけました。

次に、プリヘーリヤがなぜ息子と娘を本当に愛していないという印象をうけたのかの、根本的な理由をお書きしたいと思います。
まず第一に、なぜプリヘーリヤを助けにいかないのか。
プリヘーリヤは、自分の娘がつとめ先で嫌な思いをしていることを知っていたではないですか。
いじめられている、でも働かなければならない。
ドゥーネチカにとってどれほど辛い心境なのかなんて、ライオンとふたりで檻に入れられたシマウマが食べられてしまうほど分かりきったことです。なのになぜ助けに行かないのでしょうか。
家でメソメソかわいそうだと言って泣いているのが、毎日神様に祈りを捧げることがドゥーネチカにとって一体なんの役に立つというのでしょうか。
そんなことをしているヒマがあるのなら今すぐ娘を屋敷からつれだしてあげろ!それが無理ならせめて一緒にその屋敷で働いてそばにいてあげろ!せめてそういった努力をしろ!
そう怒鳴りたくなります。
娘の一人も助けてあげられないで何が母親でしょう。
よく耐えたね!がんばったね!あなたは心の奇麗な美しい子ね!
そんなことを言われても私だったら全然嬉しくありませんし、むしろ惨めな気持ちになります。
プリヘーリヤには自分がどんなに犠牲になろうと娘を守るつもりはないのです。
そしてきっとそれを自覚しているのです。
だからこそ、その償いにドゥーネチカに同情しドゥーネリカのために泣くのでしょう。そしてラスコールニコフに自分の妹を愛せとおしつけるのでしょう。
そうすることで、自分が娘を愛しているということを確かめることができるから。
第二に、これは分かりきっていることですが、プリヘーリヤは自分で働こうとしません。
ラスコールニコフを助けてあげているのはさも自分だという書き方をしていますが、実際にそれを助けているのはドゥーネチカであってプリヘーリヤではありません。それどころかプリヘーリヤはラスコールニコフを助けるためになにもしていないではありませんか。
ドゥーネチカのときと同じく、メソメソ泣きながら神様に祈り、努力すらしていません。ラスコールニフのために努力しているのはドゥーネチカなのによくも自分もそれに加わっているというような言い方ができたものです。
プリヘーリヤについてよくよく書いてみると、もはや母親としてではなく人間としてどれだけ最低なのかがわかってきました。
表上は、貧しい息子に同情し、心の美しい娘を褒めちぎるいい母親です。でも実際は、自分はなにも手助けせずに、息子の貧乏をただ嘆き、それを助けようと辛い中で働く娘を褒めているだけ。しかも全てがドゥーネチカのおかげなのにも関わらず「あなたを助けてあげるわね!」とラスコールニコフに手紙で告げる。
その償いにせめて、やれ娘は天使だの息子は天才だの褒めちぎる。
なんという人間!なんという母親なのでしょう!
この人がラスコールニコフとドゥーネチカの母親でいる権利があるとすれば、二人がこんな母親でも愛しているということくらいではないでしょうか。