清水正・ドストエフスキーゼミの第二回課題レポート
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五月二十三日の清水正・ドストエフスキーゼミの第二回課題レポートは「3.11の私」。
3.11の私
小山咲来
高校卒業ってすばらしい。クラスメイトは好きだったけど、自分の高校に飽き飽きしていた私にとって、卒業後の自由な時間は至福の時だった。友達とディズニーシー行こうとか、お泊まり会しようねとか、不安も絶望もなくこれからの予定を組み立てて、実行するはずだった。
そんな私たちの頭に、いや日本中の人々の頭の中に、今まで以上の大きな地震がやってきて、死者をだし、これからの予定をパーにするなんて考えが、あるはずもなく。
3月11日(金)9:45。私は山道を歩いていた。登山ではない。もし登山だったら私は今ここにいるのか危うい。私の友達は山奥に住んでいるが、誰がどう見ても立派で広い家に住んでいて、遊ぶのにぴったりな場所だった。しかし私は運転免許を持っていない。母は仕事。その友達は運転免許をこれから取得しようとしていた時だった。だから歩いて一時間かかる道を私は歩いていたのである。優しい友達は途中まで私を迎えにきてくれていた。友達と合流し、友達の家に着くまで他愛もない話をし、家に着いてゲーム機をとりだして、さあやろうとゲーム機のスイッチを押す。このときは、まだ笑顔だった。
3月11日(金)12:00。家から持ってきたパンケーキを食べていた。イチゴパンケーキだった。これからまだ5、6時間はいるつもりだった。時計を見て、次何しよう、何のゲームがいいかとか、友達とぺちゃくちゃ盛り上がっていた。もしここで私たちが地震が来たらどうする?どうやって逃げる?とか話していたら、日大の門をくぐらず新宿の母に弟子入りしていたかもしれない・・・・・・・。いや、ないか。
3月11日(金)13:56。あの有名なRPG「ゼルダの伝説 時のオカリナ」を攻略本片手にプレイ。攻略本嫌いの人には一応謝ります、すいません。丁度このときもゲームの中で山を登っていたな、うん。そして・・・・・・・揺れた。地震じゃない。ゲームの中の火山がたびたび噴火するためだ。もしこれの原因が地震だったら・・・・・・。いや、もう何も言うまい。上記の時間帯を見てほしい。もうあの時はすぐそこだ。
3月11日(金)14:30。ダンジョンのボスを倒した。ちなみに二つ目のダンジョン。流石にこのゲームは飽きたな。違うゲームにしよう。うん、そうしよう。友達と何のゲームにするか決め、ソフトに差し込んだ。ああ、楽しみ。
3月11日(金)14:46。わんわんっ。友達のわんこが吠えた。そしてくるくる回り出す。どうした?と笑いながらわんこを撫でた。ぐらっ。「ん?今揺れた?」「揺れた。」「うわ、地震か。」ぐらぐらぐらぐらぐらぐら。「うわ、揺れてる、すげえ。」「早くおさまんないかなあ。」ぐらぐらぐらぐらぐらぐらぐらぐらぐらぐらぐらぐらぐらぐらぐらぐらぐらぐらぐらぐらぐら・・・・・・・・・・・・・。「・・・・・これは、やばい、ね。」「どうしよう!!!」
そんな。私だってわかんないよ。止まらない揺れに友達愕然私呆然。犬を抱えて震える友達の腕を引っ張り、机の下に潜り込んだ。後々聞くと、普通こういう場合は外に出るんだそうだ。そんな余裕、なかった。地震はそれでも、止まらなかった。当たり前だ。友達はは死にたくない死にたくない、と半べそかいている。冗談言うな。私だってこんなとこで死にたくない。まだやりたいことだっていっぱいある。ディズニーシー行くとか誰かの家で寝泊まりするとか、買い物行くとか、新しくできたアイスクリーム屋さんに行くとか、旅行に行くだとか、高校時代じゃ絶対行けないこと、できないことをたくさん計画していたのに。どうしてこう嫌なことばっか起こるかな。そう頭の中で嘆き始めた時。地震は治まっていた。
3月11日(金)15:00。テレビを友達と見る。まあ予想通り、どこのテレビも地震情報でもちきりだ。震源は・・・・・東北沖。山梨で、震度5。普通山梨じゃあ、震度2、3、最悪4。私の体は震えたりはなかったが、現実味のない現実に頭がついていけなかった。「死ぬかと思った。」「・・・あたしも。」「もう、起きないよ、ね。」「・・・・・さあ。」余震という言葉をすっかり忘れていた親友は、これから何度も泣きを見る羽目になる。にしても、まさかディズニーシーもランドも一時閉園になって、どこの旅館も運営しなくなって、電車も止まるなんて、地震は人間に、いや私に何か恨みでもあるのだろうか。ちなみに私はもちろん、地震に大きな恨みがある。高校卒業のあとの楽しい余韻を、返せ。
3月11日(金)18:30。私は自宅で津波の映像を見ていた。これこそ本当に、恐ろしい。山梨は内陸県だからそういった被害はないけれども、もし、私が海沿いの町に住んでいたら・・・・・。父も母も妹も、息をすることも忘れてテレビに食い入っていた。地震が残した置き土産は、人間に予想外の被害。
まさか自分の立てていた計画が地震でつぶされるなんて、思ってもみなかった。あの時の私は、高校生の時の嫌な思い出を忘れたくて遊んでいただけだったのに。ああ、自分が思いっきり遊べるようになるのは、いつだろうか。
3月11日。その日は前日と同じように遅くまで寝ていた。やっと受験も終わった。やりたいことがたくさんあるし、明日はどこかに出かけよう。服でも買いに行こうかな。そんなことを考えながら、自室のベッドでぐだぐだと過ごしていたのである。いつも通りの、これといってたいしたことのない一日になるのだと思っていた。
インドアな私は午後になっても出かけることはせずに、やはりベッドの上でごろごろしていた。少し遅めの昼食をとって、それからゲームをして遊んでいた。本当にいつも通りの過ごし方だ。14時頃、そのいつも通りが変わってしまった。
最初はよくある小さな地震だと思った。日本に住んでいる以上、地震とは何度も遭遇するものだし、慣れきっていた。この程度の揺れならよくあることだ。そう思って特に気にしないでいた。すると揺れはどんどん大きくなっていく。これはいつものような震度2だとか3だなんてレベルじゃない。もっと大きな地震だと気づいた途端、一気に怖くなった。本棚に入れてあった本が次々と落ちていった。並べてあったCDも崩れていく。家の壁が今まで聞いたこともないような軋む音をたてた。自分の体なのにうまく動けなくて、振り回されるような奇妙な感覚だった。
地震が収まり、私は部屋から出ようとしたが、物がたくさん崩れ落ちてドアをまともに開けることもできない状態だった。次にまた大きな地震が来て二階から降りられなくなったら大変なことになる。そう思った私は最低限ドアが開くように物をどかしてから廊下に出た。階段を震える足で降りる。手すりなんてまともに使ったことも無かったのに、その時だけは必死でつかんでいた。それぐらい怖かったのだ。
一階は棚から食器が落ちて、破片が飛び散っていた。家にいた母と私と兄で簡単に片付けを始めたが、その間に何度も余震が来た。冷静で落ち着いている兄が、その時はいつもと違う表情をしていたのを覚えている。本当に真剣な表情で、それを見た瞬間に怖いことが起きてしまったのだと改めて思った。
その後、祖母の家に行くことになった。私の祖母は一人暮らしで、心配に思った母が祖母の家に行くことにしたので私達兄弟もついて行くことにしたのだ。飼っている犬を連れて、祖母の家までの道のりを歩く。犬は落ち着かない様子で心細そうな鳴き声をあげていた。私は犬の近くにいなかったので見ていないのだが、地震中とても震えて母に抱きついてきたらしい。人間でさえこんなに怖いのに、犬はもっと怖かっただろう。リードを引きながら、泣きたくなってしまった。
祖母の家はあまり揺れなかったようだし、祖母自身も無事だった。新しいマンションだし、一階だということもあるのかもしれない。私は揺れている感覚がずっと続いていて、天井から下がる照明の紐ばかり見ていた。何度見ても揺れていない。その時は地震酔いを知らなかったので、なぜ自分だけが揺れている感覚がするのか不思議でしょうがなかった。
テレビ番組はどこもニュース特番だった。福島に原子力発電所があるということを初めて知った。そしてその発電所によって東京の電気が賄われていることもその時にわかった。そしてその原発が大変な状況であることも、震源地が宮城県沖であることも、とても大きな津波がきたということも、何もかもテレビを見てやっとわかった。普段あまり嫌っているテレビという存在が大きくて、無視できない存在だと見せつけられたのだ。テレビは生々しい現場を次々と映していく。気仙沼の火災映像を見た時、これは日本で本当に起こっていることなのか信じられなかった。まるで地獄のようだと、目を見開いてしまった。2ヶ月以上経った今でも、あの赤く燃えさかる炎が脳裏に焼き付いて離れないままでいる。
ニュースと同時に、私はTwitterとmixiを見ていた。友達が次々と不安げな心境を呟いている。出かけていた友人が多くて、帰れなくなってしまった人もいた。「深夜頃に東京に地震が来る」と呟く人もたくさんいた。たくさんの情報が流れて、その一つ一つが私の心を暗く落としていく。何が正しいのかわからない。信じていいのだろうか、信じなかったらどうなるだろうか。これは夢じゃないのか。寝たら元通りになっているはずだ。一体いつ東京にも大地震が来るのだろうか。怯えながらテレビの前から離れられなかった。
夜になって、夕食時になっても気持ち悪くてご飯が食べられない。緊張しているのだろう。落ち着かない気分のまま、原発関連のニュースを見ていた。父親が帰ってきたが、出かけたまま帰れなくなってしまった父方の祖母をそのまますぐに迎えに行った。普段は思わないのに、その時は家族がばらばらに過ごすことが不安だった。3月11日は今までにないことばかりだった。そして様々なことを知った。自分が偏った知識で生きていることも、少し不安になれば簡単に崩れてしまうような人間だということもわかった。私はこうやって見直すきっかけとなった3月11日のことを決して忘れないだろう。
福田 好
テレビを見ていた。すると緊急速報緊急速報。宮城県沖に大きなゆれ。震度7.5。
津波が警戒されます。
ぞくぞくとながれる地震速報に、私はただあっけにとられていた。
急に見ていた番組が終わり、地震のことについてのニュースが始まった。
私は実感がわかなくて、色々とチャンネルをまわした。
ああ、どれも地震のことについて話している。大変なことが今日本で起こっている。
大変なことが日本で起きているはずなのに、私はあたふたなんてしていなかった。なんで実感がわかないかって?なんでこんなにも冷静でいられるのかって?
私は西日本にいたからである。
つまり、被災していない。
テレビという箱の中でくりひろげられる地震と津波の悲惨な現状が信じられなくて、見ていてもなんだか胸が痛いだけなのに、私はテレビから目が離せなかった。離しちゃいけないと思った。じっと何をするわけでもなく、ただずっとテレビの前で座っていた。
どれくらいたったろう、はっと集中力が切れると、もの凄く目が疲れていた。
少し目を休め、再びテレビを見ると、地震によって東日本からのバスが帰れないというニュースが流れていた。
私ははっとした。実は二日前に友達と卒業旅行と称して、東京に遊びに行ったばかりだったからである。そうか、もし、日にちがちょっとでもずれていれば、あんな風に「帰れなくて困っているんです。」と心底不安そうな顔をしながら途方にくれてインタビューをうけている一人になっていたのかと思うと、ぞっとした。
そして、そんなときに余震がきて、ぐらっと揺れた。あまりにもゆっくりとした揺れだったので私は一瞬揺れているんじゃなくて、私が倒れてんじゃないかなんておもったんだが、コンセントがぐらりっと左右に揺れているのが見えて、ああ、これ、ホントに揺れてんだなんて思いながら、「うわっ」とか小さく叫んじゃったわけである。その後、なんだか怖くなってテレビを消して、私は眠りについたのである。
翌朝、テレビをつけると地震のニュースでもちきりだった。当たり前である。あんな大きな地震が日本に起こって、多大な被害をもたらしたのだから。
被害はどんどん大きくなっていた。私はまた呆然としてしまった。
昨日見ただけでも、凄い数の人がいなくなったっていうのに、今度は倍近く。
ホント嘘なんじゃないかと、嘘であってほしいと思った。
これは、テレビのデマで、ドッキリで・・・なんて考えて馬鹿らしくなった。
なにを考えているのかと、こんな悲しくて大げさなジョークだれが考えるんだ・・・。
数日後、今年同じく卒業を果たした元クラスメンバーの友人たちとご飯をすることになっていた。久しぶりに友人たちに会えるのは嬉しかったが、なんだかあのニュースを見た後にみんなでご飯を食べてワイワイするという気分ではなかった為、どことなく前日はみんなに会えるという高揚感とこんなときに楽しいことをワイワイやっていて罰が当たらないだろうかとひやひやもした。昔から、いろんなことを気にしてしまうのである。高校入試のときもそうだった。入試が終わり、みんなが、「やった〜遊びに行くぞ!」というときに私は合格が発表されるまでびびって、一人断ったものである。その、変なふやふやした気分のまま友人たちに会った。
最初は友人宅で会わずにいた何週間のみんなの近況報告がほとんどだったが、地震の話も出た。
みんな気のいいやつばかりなので、みんなで話していると、どんどん話に重みが増して、最終的に私たちに何ができるか、というところまで議論に持ち込んだ。
すると、一人が「私は募金貯めてるよ。」と言い出した。
みんな募金はいいねっという話題になり一時話は終わった。場所をうつし、料亭。
ご飯の間は地震の話はせず、懐かしい思い出話をたくさん話した。おいしいご飯がどんどん運ばれ、気分は有頂天。行く前のちょっとした憂鬱はどこへやら、思いっきりご飯を楽しんで、六時間弱も話こんでいた。いや、このほうが私たちの年齢にはあっている感じ。地震のことについて話していた時はなんだかみんな国会議員のようだったから。
楽しいおしゃべりもお開き。という感じになり、私たちは会計のほうへ向かった。
すると、レジのとなりに募金箱があるのに気づいた。
みんな、すっと財布からご飯代の徴収以外に小銭をとりだして募金箱にいれた。
それが、なんともスムーズでいいようのないかっこうよさがあった。
私もその流れに自然に沿うようにすっと財布から百円玉をとりだし、募金箱へといれた。
なんだか、店をでたあとのみんなの顔は晴れやかだった。みんな、人として当然だなんていってはいるけれど、募金しない人だっているのだ。ちょっとした自尊心が芽生えたって罰は当たらないだろう。私のこのちっぽけな自尊心で誰かの助けになるっていうなら、それって嫌みではないはずだから。
大崎帆南
その日の朝、私はいつも鳴り響く目覚ましの音に不快感を抱くことも無く、ゆっくりと目を覚ました。春というにはまだ肌寒かったが、私はそのくらいの気候が好きだった。
軽めの朝食を摂った私は自分のパソコンの前に座り、スカイプを開いた。スカイプとはネットを通じてチャットや通話ができるツール。その日もなんとなく、よく通話する仲間と通話することになり、関西に住むKと、埼玉に住むRと他愛のない話をしていた。
何を話していたかなんて覚えていない。いつもの日常をただ過ごしていただけなのだから。
平成23年3月11日14時46分 東北地方太平洋沖地震発生
通話をしながらソファーでごろごろしていた私は微妙な揺れを感じとった。「地震?」そういうとRは「こっちきてなーい」とおどけた声をだした。しかし微妙な揺れは次第に大きくなり、パソコンのそばにあったテレビが揺れ始めた。「やばい!大きいよ!」私は動揺し大きな声を出した。Rも異変に気づく。年上のKは「落ち着け。大丈夫か。とにかく落ち着いてな。」と私たちをなだめた。揺れは収まらない。あれほど大きく長い地震を経験したことのなかった私は涙がでそうになった。すると「こっちもきた。でかいな!うあ!」とKが慌てて言う。東京だけではないのだと規模の大きさに驚き、不安が私を襲った。
しばらくすると揺れは落ち着いた。しかし私は地震の揺れに酔ったのか少し気分が悪くなっていた。ソファーで横になっているとRが「割れたコップとか片付けてくる」と声を掛けて離席した。そのとき家には自分しかいないことに気付き不安な気持ちがまた膨らんだ。「どうしよう。家に今私しかいないの。」そう呟くと、Kが「それならおまえが今のうちにガスとか家の中確認しとけ。できるな。待ってるからやっておいで。気ぃつけてな。」と優しい声で言った。その声に勇気をもらって私は部屋をでた。私が家を守らなきゃ。ちょっぴりそんな勇者みたいな気持ちで。
家の中は思っていたほど荒れてはいなかった。畳んで置いてあった衣類が散らかっていたり、重ねてあった本が崩れていた程度。少し安心した。ガスの元栓が閉まっていることを確認して部屋に戻ると、離席していたRが戻ってきていた。私が通話に戻ると、「大丈夫だったか?よくできたな。おかえり」と2人とも声をかけてくれた。一気に緊張感が解けるのを感じた。「親と連絡は?」と聞かれ、ハッと、私はそれまで携帯電話を気にしていなかったことに気付く。着信も受信メールもない。掛けてみても繋がらなかった。母は今日何をしに出掛けたんだっけ。もっとちゃんと連絡をとっておけばよかった。そんな考えが頭をぐるぐるし、不安が増々募っていった。
「それにしても震度6強はやばいな。」Rがぼそっと言う。震度6強。そこで初めて規模の大きさを知る。KとRはニュースを見ているようだった。私もすかさずニュースをつける。どの局も地震特番ばかりだった。震源地は宮城県の方。地震直後の映像。そして津波警報が画面上のテロップに絶えず流れていた。16時過ぎから続々と沿岸地域に到達すると。
それから私たちはニュースを見ながら各親族や知人に連絡を取った。返事のある者もいれば、応答のない者もいる。私はその時点で家族全員と連絡がつき、母は家に帰ってきた。お互いの地震発生直後の状況を話し、無事でよかったねと抱き合った。
私はその後も部屋で通話を続けた。ニュースやツイッターを見ながら。情報がどんどん入ってくる。そして、津波が東方太平洋側沿岸地域に到達。各局生中継でその光景を映し出していた。とても見ていられるものではなかった。津波で流されようとしている車の中には人がいるのではないかと思える映像もあった。「そのヘリコプターで助けられないのかよ。」誰かが声を荒げた。私も同じ様に思った。どうすることもできない自然の脅威に心臓がバクバクと脈を打ち、胸がぎゅっと締め付けられた。怖くて仕方なかった。どうかどうか助かってと願うことしかできなかった。
私が仲間達と気楽に過ごすはずだった休日は一変し、歴史に残る大災害がその日に刻まれた。今も原子炉、放射能、復興など様々な問題が残されている。もう元には戻らないことだらけだ。直接的な被害だけでなく、心の傷を負った人も数えきれないほどいるだろう。被災地域にいた人でなくても、自分にはなにもできない。なにもしてあげられないと気に病んだ人だっている。私もその1人になっていたかもしれない。しかしその日私は仲間が一緒にいてくれた。何をするにも励まして支えてくれた。彼らと通話していなかったと思うとぞっと身震いすらする。それほど助けられた。被災地域にいた人たちも、そこにいなかった人たちも、誰かがそばにいてくれたら心は救えてたかもしれない。もっと言えば生きる勇気、希望が沸いて、命までも救えてたかもしれない。今回の地震で思ったことは多々ある。しかしこの3.11の私を振り返った今、人と人との触れ合いは本当に大事なものなんだと気付かされた。
渡部 菜津美
3月11日 私はなにをしていただろう。
たしか大学もきまり春休みを満喫していたと思う。
その日は珍しくどこも行かなかった。
空はでかけるには少し悩むくらいの曇り空(だったと思う。だって私が一歩も家からでなかったのだから。)で、春休みでうかれて遊びまくっていた私が少し休むにはちょうどいい日だった。
朝9時
贅沢にちょっぴり朝寝坊した私は朝食を食べにリビングに行った。
テーブルにはいつもの朝ご飯
トースト、いちご、そして少し冷めたミルクティー。
テレビをつけると、ちょうど朝のニュースが終わりバレエティー番組がやっていた。
それが結構当たりの番組で、トーストをミルクティーで流し込みながら小さく笑っていたのを覚えている。
朝食を食べ終えたあと、朝の番組にも飽きてきたのでテレビを消してパソコンをつけた。友達からすすめられたアニメの続きを見ようとおもったのだ。
そのついでに借りてきたCDをパソコンにインポートしようとも思い、ipodをとりに部屋にもどった。
そのときふと、携帯に目をやると、液晶がピカピカ光っていた。
新着メールや不在着信があったときに光るのだ。
携帯を手にとって確かめると、友達からの電話だった。
こんな時間にかけてくるのは多分暇電だろうと思い、携帯を閉じてまたリビングに戻った。
なにしろ私は、そのときとてもアニメとドラマの続きがみたくて仕方なかったのだ。
電源をつけ、少々ネットサーフィンをしたあとお待ちかねのアニメを没頭してみた。本当に没頭していたので、気づいたときには2時間たっていた。(それでもまだ4話しかみていなかったので物足りなかった。)親に昼ご飯ができたよとよばれ、もっとみていたかったが、空腹ということもあり渋々パソコンの電源を切った。
その日の昼ご飯はカレーだった。カレーは大好物のひとつなので、とても嬉しかった。どのくらい嬉しかったかというと、さっき見たアニメの続きがどうでもよくなるくらいだ。
なんせ、食卓にカレーがでてたきたのはとても久々だったのだ。
久しぶりに食べたカレーは少し辛くて、口のピリピリを水で消しながら、それでもぺろりと平らげた。とても美味しくておかわりもした。
カレーを食べ終えた後テレビをつけ、今度は昼のバラエティー番組をみた。
満腹感と幸福感でとても眠くなってきて、テレビを見ながら寝てしまったのだとおもう。(だって、気がついたら他の番組になっていたのだ。)
昼寝から起きると、午後2時だった。
つけっぱなしになっていたテレビを消して、パソコンをつける気にもならなかったので、とりあえず自分の部屋に戻った。
ベッドに横になり、なにをしようかと考えていると、ふとさっきの友達の暇電が頭にうかんだので、なにも考えずに取りあえずかけなおしてみた。
友達はすぐにでた。たしか2コールくらいしかしていなかったと思う。本当にどれだけ暇だったのだろう。
第一声が「なつみー?暇」というくらいなのだからきっと、今から新宿でお茶でもしようかなんて誘ったら、ものの10分には「支度できたよー。今から向かうね」と連絡がはいったことだろう。
だからといって自分も人のことは言えないのだが。
そんなわけで友達とアニメのことについて語りあった。(その子は、さっきまで私が夢中になってパソコンでみていたアニメを教えてくれた子なのだ
)
戦闘シーンがあーだこーだや、あの回がどうのこうの話しているうちに気づけば40分くらいたっていた。
そのときだった。部屋が突如揺れだした。
最初はそのこと「地震だねー」などと気楽に話していたが、どうもいつもとおかしい。
揺れがおさまらない。それどころかますます強くなるではないか。
さすがに慌てて、「またね!」といって電話を切り急いでリビングにむかった。
心配もあったが、恐かった。
親と一緒にテレビをつけると東京は震度4だった。
そのあとの余震も酷くしばらく親とテレビをみていると、東北中がてんやわんやだった。
電車は止まって家にはかえれなくなるわ、液状化現象は起きるわ。
しかし、もっと悪いのは宮城だった。
酷いなんてものではない。
津波がきて家がどんどん崩れていく様子は、恐ろしかった。
自然をこれだけ破壊している人間がなにもできずただ、飲み込まれていく。
テレビ釘付けになったまま、恐怖をかんじていた。
その映像は今でも目にやきついている。
信じられなかった。
こんな、ことさらなにもなく平凡な日に、まさかこんなことが起こるなんて。
本当に人間はいつ死ぬか分からない、弱い生き物なんだと改めて感じた。
それから数日間、テレビは地震のニュースばかりやっていた。
死者の数はどんどん増えていった。
現地の人は、みんな泣いていた。
そしてそれからもう2ヶ月がたった。
原発の問題も発生し、今でもずっと影響を及ぼしている。
現地の人はまだ避難所で生活している。
こちらに逃げてきた人たちは、心ない人たちにいじめをうけている。
でも暗いことばかりではない。
そう信じたい。
だって義援金は今でもたくさん集まっている。
被災地でボランティア活動をしている人もたくさんいる。
だから大丈夫だ。
人と人が支え合ってる限り、日本は大丈夫なのだ。
木野允彰
三月十一日、午後三時前。東北地方を巨大な揺れが襲った。 私はまだ、熊本県の実家にいた。 地震の後に迫る大津波、流されていく車や建物の残骸、それを見て嘆く住人達……。テレビで映される世界は、私には遠い世界にしか感じられなかった。まるで、戦争映画を見せられているような感覚、あるいは、9.11のニュースを見たときの感覚に近かった。 地震の規模が異様だと感じたのは、テレビ番組が全てニュースになったこと。ACのコマーシャルしか流れなかったことでしか分からなかった。 何度も同じ映像を見せられ、何度も同じCMを流され、ただただ、私はウンザリしていた。冷たい人間と思われるかもしれないが、私はその日、ずっとゲームをするかマンガを読んで過ごしていた。楽しみにしていたテレビ番組も結局ニュースに変更され、面白くなかったから。 私は東京に来るまで地震という地震に遭遇したことが殆どなかった。地震の恐怖も知らないし、どれほどの威力なのかも知らない。知っているとしたら、台風の威力ぐらいだ。それほど災害、天災に巡り会ったことがない。そう考えると、私は幸せなのかもしれない。 地震が起きる直前、私はとあるマンガを読んでいた。そのシーンをはっきりと覚えている。何故か。それは、ちょうど、高潮が一つの島を襲うという場面だったからだ。島を飲み込まんとする大波がいろんなものを連れ去っていく様子が描かれていた。 勿論、自分に予知能力があるなどとは思わない。けれども、何かしらの胸騒ぎはしたのは確かだ。 私は母親に呼ばれてテレビを見た。ただ呆然と。何が起きているんだろう? これは何だろう? と、ぼんやり考えているのか考えていないのかよく分からない頭で、その映像を焼き付けていた。 夕方に祖父母が家に来た。妹の大学入学祝いとして車を買いに行くと約束した日だったからだ。 「東北は大変ですね」 と、母が祖父に言った。客観的に見て。 「そうだな」 と、祖父が答えた。他人事のように。 テレビだけでは、私達にはうまく伝わっていないことが、よく分かった。 地震が同じ国内で起きていようとも、遠いから、分からない。伝わらない。 祖父はかわいがっている孫に車を買ってやりたいのに夢中で、母は、一応心配しているが、どう大変なのかとか、何が辛いのとか、根本的な事は分かっていない。 触った感覚を、触ったことのない他人に伝えるのは難しい。 自分の体験したことのある感覚からでしかイメージできないから。 東京に来て、初めて地震を体験した。ケータイ地震速報の、あの、キュインキュインという音を聞いたのも初めてだったし、そんなものがあるというのも知らなかった。 私の体験した地震は、3.11大地震に比べたら、ほんの小さなモノでしかないが、それはすごく恐怖を駆り立てた。地震速報の音も、不気味に聞こえた。初めての体験に神経が敏感になっていた。 “体験すること” これはどうやら小説を書く自分に必要なことかもしれない。 体験したことがない人に伝える難しさも知らないといけない。 体験しなかった3.11大地震と体験した小さな地震を通して、私は大きな体験が出来た気がした。 家の中で、いや、頭の中だけで膨らませるイメージだけではいけない。自分からさわりに行かないと、伝わらない。そう、強く感じた。 地震に対する怒りだとか悲しみなどはまだ分からないから。このような言葉しか書けない自分はまだまだ体験不足なのだろう。
結城花香
東日本太平洋沖地震があった三月十一日、私は実家の自室でパジャマのままだらだらと過ごしていた。携帯をいじっていたか漫画を読んでいたか、とにかく机に向かっていた。最初は軽い揺れが来ただけだと思った。しかしあれほど長く大きい地震は経験したことが無かった。でも長く続いているだけ、いい子にしていれば雷様だって落ちないの。と高を括ってそのまま椅子に座って揺れが納まるのを待った。もしかしたら小学の頃の教訓を思い出して机の下に潜っていたかもしれない。冷静で居ようと努めていただけで実際は非日常に心底びっくりしていたいから細かいことなんて覚えていない。とりあえず揺れが納まってから、携帯から登録しているSNSに接続してみた。知人の多くも登録しているので、いち早く大勢の安否を確認するには最適な場なのだ。案の定何人かが地震が来たことをログに残していた。私も「みんな大丈夫か、岩手の方無事だといいね」というようなことを書き込んだ。その間にテレビ機能にしていたパソコンは緊急のニュースに切り替わっていた。離れに居た家族が母屋に帰って来、私の名前と安否を一階から叫んだ。ひとまず一階の居間に降り顔を見せ、来ていた親の客人も交えてニュースを見た。現実味はまるで無かった。不穏な色をした海水が、何十台もある普通車を転がし波間で弄んでいる。でも私たちが住んでいる関東では、家具が少し大きく音を立て軽い置物が動いたくらいだ。こんなことになっている地域が本当にあるのか?しかし大変なことが起きてしまったことは確かだし、もしまたさっきより大きな地震が来た時のことを考えて一度部屋に戻ることにした。避難する時の荷造りだ。いつも使っている茶色いリュックに思いつく限りの避難用具を詰め込んだ。これもよく記憶していないが、下着を袋に入れタオルや携帯の充電器、高校卒業の時に部活の後輩が手作りしてくれたメッセージ入りのアルバムなんかも入れた。それまでに見たり読んだりした戦時中の作品で、登場人物が空襲に怯えB29が通り過ぎるのを息を潜めて待つ様相が浮かんだ。 そういった作品のコンテクストを脳が無意識のうち総動員して、私に思い出の品であるアルバムを持って来させたのだ。それはリュックの中を大きく占め、一層重さを増させたが私は間違っていなかったと思う。過去完了形の事実として、写真の中の誰かしらとお別れになるかもしれなかった。起きたままだったパジャマも、とりあえず上だけ着替えた。下は先輩から譲り受けた体育の授業用のジャージのままだった。今考えればその姿は滑稽だが、これも思い出の品になってしまうかもしれなかったのだ。主観でかき集めた避難用具一式がリュックの中に大体まとまった頃、誰かが時間差を図ったかのような大きな縦揺れが来た。その時の私は完全に錯乱していて、縦に揺れたのだと知ったのは後の家族との会話でのことだった。机の上にある置物や電気スタンドが盛大に崩れ落ちるのを意識の端で感じ取りながら、リュックを肩に担いで階段をかけ下りた。父が居間の扉を開け、険しい顔で私を呼んでいた。私は笑っていた。防衛本能が働いてのことだと思う。だからその時の自分を私は不謹慎だとは思わない。ちゃんと怖くもあったのだから。居間に一家全員と客人が集合し、しばらくニュースを見ながら地震の話をしていた。凄惨な被災地のことや私たちの住まう地域での震度のこと、内容はやはりよく覚えていない。ただ私は、あまり事態を深刻に受け取っていなさそうにも見える家族に少なからず軽蔑を覚えた。その間も私はずっとSNSで知人たちの安否や災害の情報を拾っていた。そのうちに客人は仕事場だったか家族の安否が気になると言って帰宅し、家族も少しだけ家を出ることになり私一人になった。父には一階に居るように言われたが、物が散乱した自室が気になったしもう一度荷物を検討したかったので二階へ上がった。携帯を充電しながらずっとインターネットに繋いでいた。テレビはどの局のチャンネルを合わせても報道ステーションが慌しく、流れている被災地の映像を見ると流石に怖くなってきていた。防衛本能が、笑って恐怖を和らげる状態から現実をちゃんと受け止める状態にモードチェンジしたのだろう。それに比べたらSNSのサイト構成は毎日目にしているものだったので、自分の居場所に居られるようで安心出来たのだ。知人の一人が「震源地がどんどん下がってきているし、今夜関東でも地震が起こった時のことを想定して備えておこう」というような書き込みを残しているのを見てからは怖くて椅子から動けなかった。念のために点けっ放しにしているテレビを見てみると、画面の隅に表示されている日本地図の関東の部分がオレンジ色で縁取られていた。元から他人の言葉を鵜呑みにする性分に、この時は拍車がかかっていたのだ。ジャージのままだった下も動きやすいようにズボンに履き替え、邪魔にならないように髪も結った。家族が帰ってきてからも私は夕飯に呼ばれるまで自室に居り、食べ終わったらまたすぐに自室へ戻った。入浴中に地震が来たらと思うと風呂には入れず、その夜は万が一地震が来てもすぐに外へ逃げ出せるようにコートを着たまま机に伏せて寝た。寝たと言えるほどのものではなく、意識の浅い所を遊泳していたような感覚ではあったのだが。携帯に届くエリアメールの着信音に跳ね起こされたりしながらも、長い朝を越えた。震災が起こってから約半日の間の私は、何が何でも生き延びようとした。
これは後にネット上で見かけた言葉なのだが、「一人で生き残るなんて出来るはずが無い。みんなで生き残らなきゃならないのだから。」という言葉で気付いた。その通りに、災害から自分一人が助かることなんてきっと不可能に近い。地震が来ても津波が来ても死ぬときはみんな一緒に死ぬのだ。仮に自分が生き延びることが出来たとして、大切な人々を失ってしまったら生きていても意味が無い。そんな当たり前なことを見失うほどに私は生き延びようとした。よほど私は生への、というよりは生活への執着心が強いらしい。性格にベタベタした部分があると自覚はしていたが、この時初めて曖昧の壁を越えて思った。他にも、朧気に感じていた生活必需品の有難みも実感した。インターネット、暖房、灯り、米、交通機関、人の温かさ。この東日本太平洋地震で日本が失ったものは多く、取り返しのつかないものであるが少なからず得たものもあるはずだ。私には失くしたものが無く、それが幸福であるのかと思うと被災した人々に申し訳なくて心から血が吹き出そうな思いもしたがそれはヒロイックになっているだけだ。取り返しがつかないのであれば、今後同じ事態に陥った時にどうすればいいのかを考え実行することでしか前に進めない。こんな言い方をすると、この一連の災害が終わったように聞こえてしまうが私は強くそう思う。
斉藤有美
3月11日の午後、私はいつものように家にいた。高校を卒業し、もうあの校門をくぐることはないのだと考えると、初めのうちは少し悲しくなったものの約1週間半も過ぎてしまえば最早何も感じない。クラスメイトの顔も正直おぼろげだ。テレビをダラダラと見て本を読み、食事をとって布団に入る。この頃は、その日一体何をしたのかさえ記憶に残らないほど規則正しいが堕落しきった、まるでニートのような生活をしていた。自分からは何も行動しないくせに、私はこのひどい生活を少し変えるような何かが起こることを期待していた。芸能人のゴシップネタでもいい。私は少しの変化を期待したのだ。決してここまで大きな被害を日本にもたらすような変化を期待してはいない。
地震が起きた瞬間、正式には私が初期微動を感じ始めたとき、いつも通りの小さなものだと思って気にも止めていなかった。だが様子がおかしい。いつもならとっくに治まっているはずの揺れは徐々に大きくなり、リビングの窓から見える大きな木々が今まで見たこともないくらいに枝を揺らしてガサガサと音を立てるのだ。のんきにそんなことを考えていた時、私の体は本格的にこの大きすぎる揺れを感じ始めた。いつもなら地震くらいでは動じない我が家の犬も、この時ばかりは私の所へ急いで駆けてきた。犬を抱き上げて落ち着かせている間、たまたま学校が休みだった弟はガスコンロのロックをかけ、一目散に柱に囲まれている二階の階段前に避難した。携帯を片手に犬を抱き、私がその場所に着く頃には地震の揺れもピークを迎えていた。時間も長く、揺れも大きい。気分が悪くなってしまうほどの地震は、余震としてその後も二、三度私たちの家を襲う。父が帰ってきたのは夜中の一時。京都にいて、その日の午後に帰ってくるはずだった母は翌日の午後にようやく顔を見ることが出来た。
全てのテレビ局が今回の地震について放送している。予想を遙かに上回る被害に、私はただテレビを見ているしかできなかった。津波によって沢山の家が飲み込まれていくところが何度も何度も放送されるので、母がついにテレビを消してラジオをつけた。沢山の人を元気づけるような明るい曲が次々と流れ、被災地へ向けた数々のメッセージは彼らの心の支えになっただろうか。私は少なくともテレビで悲惨な光景を見続けていた時よりも気持ちが軽くなった。だが所詮それは直接的な被害もなく、家も家族も失っていない者の言い分だ。彼らの気持ちは、同じ被害にあった者にしか理解できないだろう。
そんな中、某東京都知事が「我欲で縛られた政治もポピュリズムでやっている。それを一気に押し流す。津波をうまく利用して、我欲をやっぱり一回洗い落とす必要がある。やっぱり天罰だと思う。被災者の方々はかわいそうですよ」と述べたらしい。テレビやネットではさんざん批判されていたが、私は全否定することはできないと思う。実際この発言を初めて聞いた時、それも一理あると思った。今の日本は確かに我欲で溢れている。ゆとり教育を始め、政治なんてそれを象徴しているかのようだ。勉強時間を減らし、授業内容も簡単にすれば馬鹿が増えるに決まっている。採用した議員の人々がそれを分かっていなかったのか、むしろ分かっていてわざと自分達が政治をしやすいように馬鹿を育てるための布石だったのかは断定できないが、ゆとり世代である私達はこれから「これだからゆとりは…」等の発言を一生聞いていかなければならないのかもしれない。いい迷惑である。話を戻すと、政治家だけでなく私たち人間は自分達がより便利な暮らしをしたいためにたくさんの物を発明している。その全てを非難する訳ではないが、地球に対して大きな負担を掛けている部分があるのも事実だ。木々を切り倒して水を汚し、空がほとんど見えなくなるほど高い建物を建てる。便利になるという事は、日本が戦争によって貧しかったころから抜け出している象徴なのかもしれない。しかしその結果地球に負担を掛けることになるのは良くないと思う。日本は私達日本人の物ではないと思うし、地球は私達人間の物でもないと思う。人間が生まれるずっと昔から地球で過ごしていた木や、水や空気の物ではないかと私は思う。彼らの後から生まれた私達は地球に住まわせてもらっているのではないだろうか。地球という大きな一つの家を間借りしているのだ。猿や、ライオンやシマウマを始めとする動物はそれを分かっているからこそ自然を破壊するのではなく、共存して生きているのだとしたらそれはとても面白い。人間よりも知能指数が低いと言われている動物たちがずっと前から理解していた事を、食物連鎖の頂点に立つ私たち人間は気付かずに今もより便利な世の中にするため日々活動しているのだ。これは立派な我欲ではないだろうか。だとしたら自然はそのことを私達に気付いてもらいたいのかもしれない。その手段として今回の地震や津波が起きたのだとしたら、私は都知事の発言を全否定出来ない。ただ、天罰は東北地方の人に向けられたのではなく、私たち日本人、そして人間に対して向けられたものだと思う。「なら何故他国ではなく、日本を襲ったのか」とか、「亡くなった人の命は犠牲として仕方ないのか」等と言った、都知事が発言した時と同じような批判がまた飛んでくると思うが、それらに対する私の考えをここに書いていると戦争時の特攻隊員の話や映画『ラストサムライ』の話など、ただでさえ今現在2200字を超えているレポートがさらに長くなってしまうのでここでは省略させてもらいたい。さらに言うならばこれは私の自己満足と言ってもいい考えなので、立派な大人たちにしてみればまだまだな部分がたくさんあると思う。残念ながらゆとり世代による「中二病」という言葉が綺麗に当てはまる考えなのだ。私の考え方はさて置き、やはり今回の東日本大震災で亡くなった沢山の人たちのためにも個人がこの大震災について自分なりの考えを持ち、日本だけでなく世界が少しでも変わっていけたらいいだろうし、むしろ変わらなければならないと思う。
櫻井 縁
それは、今はもう忘れかけている硬くて重いブレザーの感触を、当たり前に羽織っていたあのとき。
奇しくもその日は卒業式前日、私たち三年生は高校生活の最後に思いを馳せ、しかしいつもと変わらずの馬鹿騒ぎをしながら堅苦しいリハーサルを終えどやどやと教室に戻ってきた。
床や棚や机の脇に転がる荷物がすべて消えた教室はいかにもがらんとしていて、無性に感傷的な気分にさせられる。クラスの区別なく思い思いに集った生徒たちが机に腰掛けながら、そんな気持ちを心の奥底に潜め少しだけぎこちなく互いを突っつきあっていた。
私はまだ教室に帰ってこない友人を待って一人机の前に佇んでいた。一人でいることにはそれなりに慣れていたが、このときばかりは誰かと話をしていないとなぜか不安だった。「ひょっとしたら、別の教室で話し込んでいるのかもしれない」。教室を出るか入れ違いにならないように待つか、私はもじもじと足を出したり引っ込めたりしていた。
始めは、いつもの寝不足からくる立ち眩みか何かかと思った。しかし次第に周囲も好奇心に満ちた声を上げ、しきりに天井や窓の方を見回し始める。
「あれ、地震」
「けっこうきてるね」
地震だ。そう気づいた瞬間、突然爆発するように揺れが大きくなった。日頃の避難訓練が思い出され一瞬机の下にしゃがもうと体が動いたが、「落ちてくるものは何もない」という誰かの叫びに気づかされ、私は揺れが収まるまでの間教室の真ん中に立って揺れる視界を呆然と見ていた。
ぽつぽつと聞こえる「ヤバイ」の声、軋む木の音、独りでにずれる椅子、洗面器を揺らしたように波立ちあふれるプール。“揺れる”というより“滑る”に近い感覚の揺れは、だんだんさざ波のように弱りながらもいつまでも続いていた。
「窓とドアあけろ!」
「外出た方がいいのかな・・・」
「放送あるまで待とうよ」
「やだ、やだ」
つぶやくような声が次第に大きくなり、生徒たちは恐る恐るドアを抜け、近くの出口から外へと小走りに駆け出していく。グラウンドへ向かう途中友人と再会した私はほっと息をつきたくなるような感覚を覚え、そこでやっと冷静でいると思っていた自分の恐怖を知った。
「すごかったな、今の」
「うん。プールの水半分くらい出てたもん」
このとき私は感覚的に、直感的に言った。
「でもこれ、震源地はもっと遠くだろうな・・・」
「明日卒業式ナシかなぁ」
「いや、ないでしょ普通に」
そんな会話が何度も交わされている。
グラウンドから見上げるだだっ広い空は、いつの間にか綿菓子を固めたような黒く重い雲に埋められていた。生徒たちが次々と流れ込んでいたまさに地震直後、ほんの一瞬だけ強い雨が降り、すぐに切れ始めた雲間にかかった細い虹がたまらなく不気味だった。
校内放送よりも早く、グラウンドにはほとんどの生徒と(この日は三年生しか登校していなかった)駆けつけた教職員たちが揃っている。友達とくっつきながらぐずっている者、イベント気分で騒いでいる者、三者三様の興奮の中で私はケータイのアンテナを伸ばしワンセグを起動した。すでにグラウンドのあちらこちらでアナウンサーの逼迫した声がざわざわと即席の原稿を読み上げている。
すでに放送局には遠目に撮った映像が入ってきていた。白い波頭が空撮で追われ、画面右下に表示されrた津波警報に合わせて警報が鳴り続けている。「宮城とか茨城」「震度6強だって」――そんな誰かの叫びがふいに耳に入った。
津波が陸地に迫るにつれ、じわじわと肌が粟だった。浅はかな表現になってしまうが、初めのうちそれはミニチュアの町にホースで水を流し込んでいるものとしか見えなかった。それほどまでにその津波のスケールは常識外れで現実離れしていたのだ。
そして、被害は決して遠い場所の話ではなかった。都内の交通機関が軒並み麻痺したたばかりか、三年の教室がある東館が耐震構造であったにもかかわらず歪み、立ち入り禁止になってしまったのだ。僕らは卒業式を前にして、この校舎に閉じ込められた。
「家が近い人は帰ってもいい」というお達しも時間が経つにつれ、震災の被害が明らかになるにつれ取り消されてしまった。余震の恐れから買い出しに外出することすら禁じられ、完全に陸の孤島になった校舎に私も残っていた。しかし取り乱す生徒は誰一人としておらず、間借りした二年の教室にて私たちは愚痴をこぼしながら親族や友達にメールを送ろうと奮闘していた。因みにこのあたりで真っ先に回線が回復したのはauだったらしい。同じグループにいた友人の一人が、ケータイを睨みながら秋田に住む祖父母を心配していた。
やがて親の同伴の元ちらちらと帰る生徒が出てくる中、残った生徒には非常用毛布と食料が配布され始める。保存食のほか教員が急遽買い出してきた菓子パンの類も見られたが、どうやら震災が起こって半日もたたぬうちにこのようにしてコンビニから食料がなくなっていったらしい。
「お泊まりだ」
「いやでも忘れないね、この卒業式前日」
・・・・・・余震も続くが、見慣れぬ非常食を前に生徒たちは楽しげだ。
陽もすっかり落ち、床に敷かれたダンボールと毛布の上、寝そべるクラスメイトの中で私はかろうじて母との連絡に成功していた。電車が止まった影響で通勤に使っていたバスが満員だったらしく、ずいぶん苦労して学校まで来てくれたようだった。不謹慎ながら名残惜しさを感じつつ、私は就寝の準備をするクラスメイトに挨拶をし、かなり早く復旧した大井町線に乗り我が家へと帰った。
翌日、図太くもしっかりと睡眠した私は、テレビのニュースや動画共有サイトを通じて初めてその災害の被害状況の真実を知ることになる。車に乗り込んだ人々を容赦なく飲み込む海水、どこが道でどこが家なのかわからなくなってしまった街であった場所。震源地近くでなくても地盤が液状化し、帰宅難民が列をなして歩いている。そこに今度は制御不能の原発と、圧倒的な電力不足の問題が舞い込んできたのだ。恥ずかしながら、震災から二ヶ月以上経つ今でもあれらの状況が同じ日本で起こっていることだとは全く実感がわかない。それほどまでに私の3.11は平和すぎたのだ。やり場のない罪悪感が肺にべったり張り付いているような感じがして、私はそろそろとパソコンの電源を切り、コンセントを抜いた。