荒岡保志の偏愛的漫画家論(連載49)

清水正への原稿・講演依頼はqqh576zd@salsa.ocn.ne.jp 宛にお申込みください。
ドストエフスキー宮沢賢治宮崎駿今村昌平林芙美子つげ義春日野日出志などについての講演を引き受けます。
ここをクリックしてください エデンの南   清水正の林芙美子『浮雲』論連載    清水正研究室  
清水正の著作   D文学研究会発行本   グッドプロフェッサー
荒岡保志の偏愛的漫画家論(連載49)

山野一
「消えた天才漫画家の復活を再び祈る」(その⑬)

マスクを取るとエビゾウに似ていると噂の猫蔵とパカポン笑いの荒岡保志。
●「どぶさらい劇場」を総括する


この壮大なストーリーは、大きく二つの要素から成り立つ。

まずは、山野漫画の哲学と言っていい金持ちと貧乏、畸形、き○がい、拉致、監禁、調教、そして凌辱。プロローグ、第一部に関しては、「貧困魔境伝ヒヤパカ」、「断末魔境伝カリ・ユガ」の延長線上にある、山野漫画の真骨頂である。

金持ちとは、大抵は美男、美女で、貧乏人はこれでもかと言うぐらい醜く描かれる。金持ちは当然高学歴で、車はもちろん、身に付ける物も一流だ。性格は、わがまま、傲慢。その意味に於いては、金持ちに善人はいないのだ。
また、貧乏人はと言うと、今度は、醜男、醜女で、畸形、き○がい、障害などがつきまとう。性格も荒み、とにかく醜悪だ。

こう考えると、初めから山野漫画に善人は登場しないのだ。いわゆる世の中の大多数を占めるだろう中流の家庭が登場する事も滅多にない、否、皆無である。
「どぶさらい劇場」に象徴されるが、人間の「業」は、山野漫画の根底に息衝く主題である。一見、天地の差がありそうだが、「業」に於いては、金持ちも貧乏人もさほどの区別はなく、皆同じベクトル上に存在するのである。

この「山野一論」の冒頭に書いた通り、立教大学に入学して、両親からの仕送りで学生生活を送っていた山野一である。実家が貧乏とは想定しづらいが、以前、何かの漫画かエッセイの中のイラストで、自分は団地育ちであったと告白した事があった。そのイラストははっきりと覚えているのだが、「僕は団地育ちだから・・・」と言う一コマで、山野一の顔がベタで塗られていた。明らかに、「団地育ち」にコンプレックスを持っていたと言う一コマであったのだ。
山野一は、1961年生まれである。実は私と同年になる訳だが、私が幼少期を過ごした東京都吉祥寺でさえ、いまだバラック、長屋が横行していた時代で、団地=貧乏と言う発想はなかったと思う。しかも、幼少期から転居が多かった山野一が、「団地育ち」にコンプレックスを抱く必要もないとも思うが、「四丁目の夕日」のたけしではないが、よほど荒んだ隣人が居たのか、当時の友人が金持ちだったのか、どちらかであろう、否、むしろ両方なのかも知れない。その為に、貧乏人は蔑み、金持ちにはコンプレックスを持つのだ。

お嬢様の拉致、監禁、そして調教も、山野漫画ではお馴染みのシュツエーションである。スカイタワーより高いプライドを持つお嬢様は、初めはもちろん抵抗し、貧乏人には屈しないが、所詮はわがままな女の子である、空腹程度の事に耐え切れずそのプライドをかなぐり捨てるのだ。

そして、もう一つの要素は、勿論山野神学である。

山野神学は、ずばりヒンドゥ教である事、そして、その絶対的な宗教理論、宇宙理論は、今までに散々書いて来たので、ここでは割愛しよう。ここで、一つだけ総括して言うと、ヒンドゥ教に存在するのは「肯定」のみである、と言う事だ。

「どぶさらい劇場」に「まごころ教団」と言う新興宗教団体が登場する。確かに、祭り上げられる神は神通力を持ち、その遠い祖先は神である事を示唆するが、その事が、逆にシヴァ神の尊大さを惹きたてるのだ。この「まごころ教団」こそ、現代社会に蔓延るあらゆる宗教を総括した姿なのだ。「それはもはや神とは言えない」、シヴァ神はきっぱりと言い放つのである。

また、この壮絶なストーリーの中で、唯一不変の存在であるきよし。「白鳥の湖」で「白痴魚」と呼ばれ漁の対象となり、「きよしちゃん 紙しばいの巻」では、子供たちの苛めの対象になる畸形の障害者であるきよしが、何と「どぶさらい劇場」では、神と対等な存在で描かれる。
ここで、シヴァ神の、エリ子との会話を思い出して欲しい。
「神とは宇宙のすべてを内包するものである。あらゆる要素をすべて飲み込んでいるためにそれ自体意思も目的も持たない。ただ虚無の中に存在するのみ」
これは、正しくきよしそのものではないか。

きよしに存在する物も、「肯定」のみである。

エリ子に斧で滅多打ちにされようが、手首を切断されようが、エリ子がドラッグ漬けで廃人になり、性病を患いながら客を取ろうが、一切を肯定する。シヴァ神いわく、「人間にとって理不尽で受け入れ難いものであるとしても、神はこれに関知しないのだ」と言う事である。

最後に、やはり奇跡は起きない。どこぞやの神は、海の水を割り、人間が通る道を示す。シヴァ神は、そんな人間の都合に迎合した奇跡は起こさないのだ。真の創造者とは、そう言うものなのだ。


山野一論、最後に


「どぶさらい劇場」の冒頭でも書いたが、この作品が、山野漫画としては最後の作品となる。この後に描かれた作品は、当時すでに「リイドコミック」に連載中だった「ウオの目君」、そして翌年から「コミック・バン!」に連載を開始する「たん壷劇場」のみである。
「ウオの目君」は、毎回4ページ掲載のショート連作ギャグ漫画で、「たん壷劇場」は毎回2ページのみのナンセンス・エロ漫画である。共に、中々楽しめる漫画である事は間違いないが、この「山野一論」で言うところの「山野漫画」ではない。

うだつのあがらないサラリーマン「魚の目鯖男」を主人公に、彼を取り巻く、会社の同僚、アパートの大家、その娘、アパートの住人、そして山野漫画に必要不可欠なお嬢様、お坊ちゃまとの、どうと言う事もない日常を描く「ウオの目君」。その日常自体はどうと言う事もないのだが、主人公ウオの目君の物事を見る目、価値観が意外と面白い。ある意味では冷めているのだろうし、またある意味では達観しているのだ。この「山野一論」でご紹介して来た山野漫画とは一線を画すが、読み物としては面白く、山野ファンも納得出来る一作であると書いておこう。

「たん壷劇場」も、シュールで不条理なナンセンス漫画で、山野漫画のエッセンスが伺われる一編もあるにはあるが、2ページのみのエロ漫画に深みがある訳もなく、やはり山野漫画とは一線を画すと評価せざるを得ない。山野漫画のレギュラーである下品で汚い職工が登場する話も多く、異次元、ドラッグを扱った話も多い。連載誌が「コミック・バン!」と言う成年誌であるところから、たった2ページの中に無理矢理セックス、放尿、排便シーンを盛り込んでいる所感である。そして、その絵柄、キャラクター、ネーム、下げだけを見ると、ねこぢるが死の直前に発表した「ねこ神さま」を彷彿とさせるのだ。

また、1999年になると、メディアファクトリーの「ラクダス」に、「ねこぢるどんぶり」の連載を開始し、2000年には「月刊ガロ」に「ねこぢるyうどん」を連載する。共に、ねこぢるy名義である。
他界した妻へのオマージュなのだろうが、その内容よりも、コンピューターグラフィックを駆使して描いた美しい絵本と言った印象だ。これも、もちろん「山野漫画」とは程遠い。

漫画家、山野一。80年代から90年代に掛けて、台頭した特殊漫画家と言うカテゴリーの旗手である。当時、各方面で絶賛され、むしろ文化人からの人気が高かったと記憶する。
その作品は、天才、と一言で片付けられるほど薄っぺらではない。それは、文学であり、哲学である。唯一無二と評価して良いだろう。

山野一は、私と同じ1961年生まれであり、今年で50歳を迎える訳だが、まだまだ老け込む年齢ではなかろう。愛妻の突然の死が受け入れ難い物であった事は理解出来るが、このままねこぢるyとして二人で創造した偶像に飲み込まれるつもりなのか。それとも創作意欲が枯渇してしまったのか。

あの、「のうしんぼう」からアドレナリンが噴出する瞬間を体験出来る山野漫画に、再度触れる事は適わぬ夢なのか。

天才漫画家の復活を、心から祈る。