意識空間内分裂者が読むドストエフスキー(連載4)

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意識空間内分裂者が読むドストエフスキー(連載4)
山城むつみの『ドストエフスキー』から思いつくままに
清水 正

山崎行太郎さん(右)と文芸GG放談。2010.12.26熱海「ラ ビスタ」にて。
わたしが本格的にドストエフスキー論を書きはじめたのは十九歳の頃からだが、その頃熱心に読んだのは小林秀雄のほかではベルジャーエフの『ドストエフスキーの世界観』があった。この著作には圧倒された。当時、冬樹社から刊行されていたミハイル・バフチンの『ドストエフスキー 創作方法の諸問題』を読んだ時は衝撃であった。今まで作中の人物を通して作者ドストエフスキーの哲学や信仰を問題にするような批評・研究を読んできた者にとって、バフチンの作品それ自体に照明を与える批評は刺激的であった。その頃、わたしはドストエフスキー論を書き続けながら、批評の方法論にも関心を持っていた。当時、宇波彰小林秀雄を中心とする作家主体的な日本の批評のあり方に対して批判を繰り返していた。宇波彰の批判を要約すれば、小林秀雄、秋山駿、松原新一などの批評家は、作品自体に照明を与えるのではなく、作品を通してそれを書いた小説家の思想を問題にしている、つまり作品よりも作家を問題にしているということになる。小林秀雄ドストエフスキー論は作品批評の前に、作家の「生活」に照明を与えている。宇波彰は、批評は作家の〈生活〉ではなく、〈作品〉にこそ照明をあたえなければならないと主張し続けた。このように考える宇波彰が、バフチンドストエフスキー論を高く評価するのは当然である。わたしは批評に対して貪欲なので、作品自体を批評することが、作家研究や読者論を排除することにはならない。ドストエフスキーの生涯を追跡すること、ドストエフスキーの〈てんかん〉病理に肉薄すること、一読者としてのわたしがドストエフスキーの作品をどのように読み、批評するかなど、わたしにとってはすべてが関心のうちにある。バフチンドストエフスキー論に衝撃を受けても、それでもってベルジャーエフやメレシコフスキーのドストエフスキー論を払いのけるようなことはない。
 バフチンドストエフスキー論を読んで最も関心を持ったのは、彼の言うポリフォニック的思考法である。バフチンドストエフスキーの作品はポリフォニックな構成を持っていて、登場人物は各々が独自の声を発しており、誰かが誰かに一方的に従属しているような関係ではないと言う。すべての人物が等しい価値を持った独立したものとして、相互に対話的な関係性を取り結んでいる。バフチンは、こういったドストエフスキー作品のポリフォニー性を理解するためには、読者もまたポリフォニック的思考法を身につけなければならないと言う。さて、問題は、バフチンが身につけなければならないと言ったこのポリフォニック的思考法である。この思考法を身につけるということは、人間が唯一絶対の《我》を崩壊させなければならないということである。イヴァンは「神がない」と言い、アリョーシャは「神がある」と言う。この二人の独自の声を等価と見なすことができる者、それがポリフォニック的思考法を身につけた者である。ここで問われるのは、読者の《我》である。唯一絶対の《我》を保持している者は、「おまえは神を信ずるか」と問われた時に、「私は神を信じます」または「私は神を信じません」と答えるか、あるいは「私はわかりません」と答えるだろう。こう答える場合の《私》は、唯一絶対性の《我》を未だ保持している。ところが、ドストエフスキーの作品のすべての人物たちを等価な存在と見るポリフォニック的思考法を身につけた読者は、同じことを問われた時に、「私は神を信じます」とか「私は神を信じません」とか、一義的な返答をすることはできない。もし「私は神を信じます」と答えたとすれば、それは「神を信ずる」〈我〉を装ったに過ぎない。わたしの言う〈意識空間内分裂者〉とはバフチンの言うポリフォニック的思考法を身につけた者であるから、二者択一を迫られた時に、そのうちの片方だけを選択する一人称主体としての《我》は存在しないのである。意識空間内分裂者の内部世界とは、無数の〈我〉が不断に激しく生成流動している大きなごった煮の鍋のようなものである。〈ジャガイモ〉〈ニンジン〉〈ダイコン〉〈ゴボウ〉〈コンニャク〉〈ネギ〉〈ハクサイ〉・・・それら独自の形と味を備えた〈我〉が大鍋の中で加熱されたり冷却されたりしながら、さまざまな結合と分離を繰り返しながらダイナミックに流動している。このディオニュソス的混沌を統治する純粋意識(この意識は〈ジャガイモ〉や〈ニンジン〉といった舞台上で活躍する演技者としての〈我〉ではないので、いわば姿なき舞台監督のようなもの)を保持する〈我〉が批評行為を可能としている。様々な、独自の性格と演技力を備えた役者を抱え込んで、明晰な意識を保持する者が意識空間内分裂者ということになる。
 唯一絶対の《我》を崩壊させてまで、ポリフォニック的思考法を身につける必要があるのかどうか甚だ疑問ではあるが、わたしのように十七歳でドストエフスキーの「地下生活者の手記」を読み、地下男の自意識に洗脳された者は、否応もなく意識空間内分裂者として生きていかざるを得ない。意識空間内分裂者とは言っても、この地上世界においては身体存在としても存在しているから、時と場合によって一義的な〈我〉として振る舞うことを不断に要請されている。ある時は〈ニンジン〉として、またある時は〈ジャガイモ〉としての〈我〉を演じなければならない。各々の〈我〉は唯一絶対の《我》ではないので、いつも自分は演技している、今はたまたま〈ジャガイモ〉であるかのように振る舞っているだけだという意識にまとわりつかれる。尤も、近頃はそんな面倒くさい意識にとらわれることもなく、ごく自然に〈ジャガイモ〉であったり〈ニンジン〉であったりしている。
 チェーホフの作品を読んでいるとそこに「どうでもいいさ」(フショー・ラヴノー=всё равно)という言葉が出てくる。ドストエフスキーは、神の存在に関して一生涯苦しんだ作家である。ところが、チェーホフのフショー・ラヴノーは、神が存在しようがしまいがどうでもいいさ、といった虚無の底から静かに響いてくる。ドストエフスキーの人物の中には、こういったけだるい感じの虚無の声を発する者は見あたらない。なぜ今、唐突にチェーホフの言葉を持ち出したかと言えば、ドストエフスキーディオニュソス的世界と関わり続けて来た意識空間内分裂者の純粋意識の耳にこの言葉が心地よく響いてくるからにほかならない。わたしは「どうでもいい」「どうでもいい」と呟きながらドストエフスキーを読み、そして書き続けているのである。意識空間内分裂者は文字通り意識空間内においては分裂しているわけだが、明晰な意識、演出家としての純粋意識を保持している限りは狂気に陥ることはない。