「意識空間内分裂者が読むドストエフスキー」連載1〜8までを読んだ感想(4)

「意識空間内分裂者が読むドストエフスキー」連載1〜8までを読んだ感想
岡本名央
【「罪と罰」の闇鍋的要素】
 一年を通して文芸批評論の講義を受けて、また「空間意識内分裂者が読むドストエフスキー」の第一回連載から第八回連載までを読んで、私は「罪と罰」という一つの物語に「闇鍋」的な要素を感じました。
 闇鍋というのは多人数が自分以外には不明な材料をもちより暗中で調理をする鍋料理です。料理というには持ち寄った材料によってはとても危険でスリルがあまりにもありすぎるイベント的なものです。また、ルールや作法は様々ありますが参加者は大概それを重視します。私も高校生の時に親しい身内で一度やったのですが、最初にルールや作法を厳しく取り決めてそれを遵守しなければ楽しくないのです。まず鍋内の汁に溶解する具はだめだとか、箸をつけたものは必ず口にするとか、ローカルルールも存在するはずですがおおよその闇鍋はこのような作法が取り決められています。ちなみにそのとき私が箸をつけたのは、猫の餌を固めてつくった団子でした。これは美味しかったです。
 世界的な文学である「罪と罰」をつかまえて闇鍋などと称したのは、この物語には表面だけさらって読んだだけではけして見えてこない部分が沢山あり、またその見えず隠された部分にこそ本質があり、その本質がとてもどろどろとして暗く、けしてきれいごとでは済まされないようなものだと思ったからです。
 この物語を最初に読んだ時はロジオンの<踏み越え>による苦悩とそれを救うソーニャの神聖さ、それがこの物語の主軸的な部分なのだと思っていました。ですが文芸批評論の講義を受けて更にブログの記事を読んで、それがあまりにも表面的で何も見えていなかったということを思い知らされました。
 人二人を殺しておきながら他人を卑劣間と呼び何も恥じることがなく、神を信じている<我>と神を信じない<我>を器用に使い分けそれぞれに成りすましている。そもそもナタリヤと婚約したのも娼婦を買う金がなく彼女を性的な欲求の捌け口としてのことだったという点ですでに下劣。「ぼくはきみの前にひれ伏したのではない。人類のすべての苦悩の前にひれ伏したのだ」などという台詞はまさしく何を言ってるんだこいつは、といった感じです。先生が授業内で仰ったとおり、暴力とセックスのない文学はない、人間においてもそうだと思います。性的な欲求は人間からはけしてきり離せない、だけどそれを表面からだと綺麗にしか見えないように隠している、それが何よりも卑劣に感じました。
 ソーニャに関しても同じように思いました。彼女は人を責めず、裁かない。信心深く、高潔。家計を助けるために銀貨30枚で、処女を売った。そこに悲劇性があるわけですが、考えてみるとソーニャがそれまで処女だったとはどうしても思えないのです。初めて男に身体を開いたというわりには、あっさりと行って帰って来すぎている。それにソーニャほどの美しい娘がこの歳になってまで言い寄らなかった男がいたとは思えない。
 ロジオンの妹のドゥーニャにしても同じようなことがいえます。彼女が短期間で関係を結んだ男は3人。表面的に描かれている兄思いも自己犠牲的な女性という表現だけで片付けるには、彼女の高潔性はあまりに疑わしい。
 ソーニャの母親のカチェリーナもそうである。彼女は精神を害しているが、その前にほとんど身売りのような形でマルメラードフに嫁いだという過去がある。そんな過去があるからこそ、ソーニャに売春を促すようなことを平気で言えたのでしょう。
 この物語には他にも深く考えてみなければわからない、主に性的な関係に対する「描かれていない部分」が多すぎると思いました。もし文芸批評論の授業も受けず、先生のブログの記事を読んでいなかったなら、そんなことも見えないまま「いいお話でした」で私の「罪と罰」は終わっていたことでしょう。
 ただ終わらず、その裏側を考える機会を得て、私は「罪と罰」という闇鍋に箸を突っ込みました。何を掴んで、何が出てくるかわかりませんが、出てきたものは真実で、そして作法に則って私はそれを必ず食べなければなりません。それが美味しいと思うか、また吐き出してしまいたいほどまずいと思うか、それも人それぞれだと思います。それでも一度でも闇鍋に対する楽しさ、言い換えれば興味を見出してしまったからには、これからも一人でその闇鍋を続けていきたいと思っています。